2005/1/9 メッセージノート 

「神を神とも思わない」 ローマの信徒への手紙 1:24-32

今日からローマ人の信徒への手紙のシリーズに戻りますが、先週来られなかった皆さんのために、少し弁明させていただく必要がありそうです。今朝はとてもヘヴィーな個所で、しかももっとヘヴィーな事柄からはじめようと思っているからです。先週は年に初めの礼拝ということで詩篇115編から「新しい祈り・新しい賛美・新しい祝福」と題して、集った一人一人が今年の新しいスタートを元気に晴れ晴れと歩みだせるメッセージだったのです。ところが私たちの歩んでいる現実の世界は、相変わらず目を覆いたくなるような状況です。教会は世界で起こっていることになすべきことがあるのか?それとも教会は集っている人々の心のケアに専念すべきなのか?それはどちらかだけでよいことではないのです。そしてここから何千キロも離れた国々で起こった自然災害が実は私たち一人一人の日常的な心の問題にもつながっています。そこで今朝は、今起こっている自然災害の問題と私たちの魂がどのように関わっていて、どのような一歩を今踏み出すべきなのかをお話します。これが年の初めの説教だとしたら逃げ出したくなるほど重たいですね。ですから今日が今年最初のメッセージという人は、ウエッブサイトで先週のメッセージを読んでください。また詩篇115編は今年一年の指針となる個所ですから、ぜひそれだけでも読んでみてください。そうすると今日のメッセージも「よし、がんばるぞ!」という気持ちで受け止められると思います。

さて年末のスマトラ沖の地震による津波では15万人もの人々がなくなり、150万人の人が家を失い、いまだに混乱した状態が続いています。このような事態にクリスチャンはよく訊ねられます「あなたは世界を創造した神様を信頼しているというけれど、なぜ神様はあんなにひどいことをするのですか?」 という問いです。あなたはクリスチャンとしてどのように答えることができるでしょうか?忘れてはいけないことは、「人の地上での命を与えるのも神様であれば、取り去るのも神様だ」ということです。ある人々が考えるように人の命がこの世だけのものであるならば、それは不公平かもしれません。しかし神様は求める者に永遠の命を与えてくださる方であることを忘れてはいけません。どんなにひどい亡くなり方をしても、天国に移されたなら、心も体も癒され神様と共に永遠に生きることができるのです。それは今回の災害の被害者ばかりでなく犯罪の被害者にも言えることです。「私たちにとってはこの地上での歩みがすべてではない」ここに私たちは死にも打ち勝つことのできる慰めと希望を見出すことが出来ます。

もうひとつ心に留めておかなければならないことは、自然災害であっても、実は人間の罪の性質が大きな被害の原因となっているということです。この目に見える世界では、人間が自分の意志を働かせて生きることを許されています。しかし、このことは両刃の剣です。人間の意志は善に向かうことも悪に向かうことも出来るからです。

「人を人とも思わない」という言葉があります。相手が自分と同じ人間であるのにもかかわらず自分がされたらひどいと思うようなことを平気でする態度のことです。世界中がそのような状態にあると思いませんか?今回もこのことが被害を大きくしました。聖書は「人を人とも思わない」傾向の原因が、実は「神を神とも思わない」ことからきているのだと教えてくれます。具体的な一つ一つの罪は「人を人とも思わない」行動ですが、罪の本質は「神を神とも思わない」ことにあるのです。

もしインド洋に、太平洋沿岸諸国に備えられているような津波警戒システムがあったなら、あれほどまでに多くの人々が犠牲になることはなかったといわれています。人々は何の前触れも、警告もなく突然波に飲まれてしまいました。

タイのリゾートでは、安全対策なしに、多くの観光客を招き入れていました。スリランカでは、土地代のいらない海岸に小屋を建てて住んでいるような貧しい人々が多く亡くなりました。インドネシアの被害の中心は、政府に反対する勢力の強い場所だったので、政府の支援が遅れ被害を大きくしてしまいました。

その一方で、ある野生動物の保護地区からは、動物たちの遺体はほとんど発見されていない、という報告がなされていました。神様の被造物の中で人間だけが大きな被害を受けました。地震を起こしたのは人間ではありませんが、被害が大きくなった原因は実は「神を神とも思わない」人類にありそうです。

A.偶像礼拝=欲望中心主義

1)人間一人一人の尊厳が踏みにじられている(24-25)

24節25節を読みましょう

そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。(24) 神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。(25)

偶像礼拝という罪の本質は「神様を神様と思わない」ことです。それは「欲望中心主義」自分の欲望を何よりも優先するという態度を生みます。自分の欲望、利益を優先させるとき、他の人の命は軽視されるのです。ひどい犯罪が起こると、犯人を「人を人とも思わない」残酷な人間だと非難されますが、「人を人とも思わない」傾向は犯罪者の心の中だけではなく世界中に蔓延しているのです。

2)欲望中心主義が恥ずべき情欲をはびこらせる(26-27, 29-31)

26節から31節を読んでみます。

それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。(26-27)

彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。(28)

あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。(29-31)

ここは注意深く読まなければいけません。単純にいわゆる「同性愛」が様々な罪の

中心だと裁いているのではないのです。ここで「彼ら」と書かれているのは、わたしもあなたもふくまれた人間全体、社会全体のことであって、一部のマイノリティーを指しているわけではありません。29節から31節の罪のリストを読めば、自分には関係ないといえる人は1人もいないことがわかります。

3)礼拝するべき方を拒むことによって起こっている現実(28)

読み方によっては「同性愛」が罪の本質のように受け止められるテキストですが、そうではなく、28節にあるように「神を認めない」こと「神を神とも思わない」ことが罪の本質です。そしてこの罪の性質は、生まれながらに誰もが持っているものなのです。

4)社会全体が欲望中心主義を認めている世界(32)

32節を読みます

彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。(32)

幼児が少しずつ大きくなって始めて公園で遊ぶようになると、当然、他の子供たちとも遭遇します。日本では「公園デビュー」といって、その時どんなブランドの服を着させるのか、子供だけじゃなく母親の服は何がいいか、なんてことが雑誌の記事になったりするのですが、とにかく子供たちは他の子供たちとの付き合い方を学び始めます。最初はうまく分からず、おもちゃの取り合いになって、つい手を出して、泣いたり泣かせたりしながら、一緒に遊ぶ楽しさを覚えてゆきます 

欲望中心主義は世界に大きな力を振るっています。どんな戦争や紛争も、犯罪や争いも、本質は子供のおもちゃの取り合いと変わりありません。それなのに大人たちはいろんな理由をつけて、自分たちの行動を正当化するのです。

B.唯一の解決=造り主に目を向ける(25)

現状分析はまだいくらでも続けられますが、解決の糸口を示さなければ礼拝説教にはなりません。それは25節の後半にあります「造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。」です。これからお話しする三つのことで、ちょっとうなだれ気味で深刻な面持ちが、問題は果てしなく大きくても、一つ一つ自分のこととして取り組んでゆこうと、明るく顔を上げて、その扉を出て行けると思います。

1)改良ではなく革命

物事を変化させるためには、「今ある秩序を守りながら少しずつ部分的に手を加えて少しずつ変える」改良が適切な場合と、その存在自体に問題があって「根本的にその秩序をひっくり返してしまう」革命でなければならない場合があります。私たちの心を汚し周りの人をも巻き込んでしまう「欲望中心主義」は改良によって正されることはありません。「どうしたら私たちは正しく生きることができるか?」人類の歴史の初めからの課題に哲学者、宗教家、思想家、教育者が様々な改良方法を提案してくれましたが、この時代になっても少しもよくならないばかりか、さらに悪くなっているように見えないでしょうか? 私たちには革命が必要です。でもそれは社会の革命ではありません。

2)社会からではなく一人一人の心から始まる

社会の革命なら、歴史の中で人類は多くの革命を経験してきました。そしてどんな革命でもその当初は、以前の悲惨さから解放されたと、歓迎されたのです。しかし理想的だと思われる社会がその革命によってもたらされても、どれも長続きはしなかったのです。

本当に革命が必要なのは社会なのではなくあなたの心なのです。

3)イエス様による魂の革命を

革命とは価値観がひっくり返るような大きな変化です。心の中の最高権力者が変わるようなものです。しかし単に価値観が代わればいいというものではありません。正しいものが支配しなければ、心は正しくはなりません。今まで私たちの心は「欲望中心主義、自己中心主義」の国で「神を神とも思わない」自分自身が最高権力者でした。しかしそれが個人的な問題から社会問題まで、 すべての問題の元凶なのだと聖書は警告しています。25節後半をもう一度読んでみましょう 「造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。」 今までの自分の歩みを悔い改めて、イエスキリストをあなたの心の王座に迎えること、イエスキリストを主と信じ従うことこそ、あなたを救うための、あなたの愛する人々を救うための、愛するこの世界を救うための革命の第一歩です。わたしたちは遠くで起こっていることのために、祈ることや義援金を送ることしか出来ないかもしれませんが、同時に自分の心の中に起こった革命を身近な人に伝えることが出来ます。そしてそれこそが少しずつで目立たない地道なことですが、社会が変わる唯一の力でもあるのです。

メッセージのポイント

ローマの信徒への手紙は、人間のひどい堕落を直視した上で、そこから救い出される方法はたった一つしかないことを教えています。非常に厳しく救いもなく見える現実に打ちのめされてしまいそうですが、頼るべき言葉をしっかりと受け止めてください。今日の聖書の個所で言うなら25節の後半です「造り主こそ永遠にほめたたえられるべき方です。」そうではない状態であることが根本的問題です。多くの人が悲惨な状態を憂いながら、問題の核心から離れた所で解決を求めていますが、問題の核心は一人一人の心の中が「主への賛美」ではなく、「神を神とも思わない」状態(罪)にあることです。世の中を憂えたり、恐れたり、悲しんだりする前に、自分の心の状態を何とかしなければならないのです。罪を捨て、それは賛美で心を満たすことであり、また誰かのためにその手助けをすることです。

話し合いのヒント

1)あなたはこの世界に起こっている問題でどのようなことに一番心を痛めていますか?

2)神様は世界をどこから変えようとしておられますか?