2005/1/16 メッセージノート 

それは神様に任せておきなさい ローマの信徒への手紙2章1節〜16節

A.裁くとは

1)人を罪に定める、罪人と決め付けること(1)

だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。(1)

さばく=Judgeという言葉は、英語では日常いろいろな意味で、使われる言葉ですが、日本語の場合は、状況に応じていろいろな言葉が使われます。審判をする、判決を下す、採点する。日本語の聖書の「さばく」という言葉は裁判に関して用いられ、普通の会話では、ほとんど使わない言葉です。聖書が「人を裁いてはいけない」というとき、この「裁く」にはもっと特別な意味があります。それは「その人が神様の基準から見て、正しいか、正しくないかの判断をすること、特に「正しくないとすること、つまり罪人だと断定すること」をさしています。ユダヤの民にとって法は、単に人対して守るべき事ではなく、神様に対して守るべきことでした。聖書によく出てくる「律法」です。ですが当時の法学者(律法学者)やパリサイ人と呼ばれた人々は、自分たちにその判断ができると勘違いしていたのでイエス様に非難されたのです。

2)人の仕事ではなく神様の仕事(2-8)

神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。 このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。 あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。 あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。(2‐5)

神はおのおのの行いに従ってお報いになります。すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。(6‐8)

英語のジャッジはいろいろな場面で使われる言葉ですが、共通点が一つあります。ジャッジするのはそのことに深い経験と知識を持っていて、ジャッジする人には、みんながそれに納得して、従うだけの権威や資格があるということです。スポーツであればジャッジによって勝敗が決まり、裁判であれば裁判官が判決を出すのです。人は社会生活を安心して送るためのルールを持っています。どの国にもある「法律」です。社会はこの法律に照らして「人の行動」をさばくことができます。人に迷惑をかけたり、傷つけたり、命を奪ったりした人を罪に定め、刑罰を与える。このように人間社会の基準で人を裁くことを神様が禁じておられるのではありません。しかし、今日お話している、裁いてはいけない「裁き」とは、スポーツや法律のようにその人の行為を裁くことではなく「その人の存在自体」を価値があるとかないとか、益になるとか害になるとか、人が断定することです。

3)なぜ裁いてはいけないのか?(9-16)

そしてそれは誰もしてはいけないと言うのです。それはなぜでしょう?それは誰でも、国の法に触れていなくても神様の基準では罪人だからです。なぜ神様の基準では私たちも罪人となってしまうのでしょうか?神様は人の行動だけでなく心の状態を見られるからです。

さて、この心の中の罪と言っても二つのレベルがあります。分かりやすいのは「あの人さえこの世に存在しなければ私にとって都合がいいのになあ」という、いわば「心の中での殺人」や、誰かが持っている物をいつか手に入れてやろうという「心の中での泥棒」です。◆例(ギャングとあなたの違い)◆それより深いところに、あらゆる罪(目に見える罪も心の中に隠されているものも)の原因、キリスト教の用語で言うと「原罪」があるのです。それは「心が神様から切り離されている」状態のことです。罪と訳された聖書の言葉の元々の意味は「的外れ」ということです。

すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。 神は人を分け隔てなさいません。(9‐11)

律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。 律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。 たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。(12‐14) こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。 そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。(15‐16)

神様がユダヤ人のために与えられた律法は人の行為を裁くものです。「何をしてはいけない。ささげ物はこのようなやり方で行いなさい。」といったように。当時のユダヤ人にとっては、異邦人とは律法の外にある者であり、初めから神様から切り離されたものたちと考えられていました。けれども神様は著者パウロを通してここで、「神様が私たちを目に見える行いによってではなく心の思いによって裁かれるのだ」ということを教えてくださっています。

また、本当の基準は律法を表面的に守ることではないので「裁きも恵みもユダヤ人だけではなくすべての人に及ぶ」ということが明らかになっています。神様は終わりの日にすべての人を例外なく裁かれます。神様がその日まで忍耐と寛容を持って待っていてくださるのに、人間のほうは、神様から頼まれてもいないのに、神の名によって多くの人を断罪してしまうのです。

B.裁く体質がもたらす症状とそれを改善する方法

あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。 自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」(ルカ6:41‐42)

1)なぜ私たちは裁きたがるのか?

それは厳しい神様の規準に目をそらせ、目に見える人と自分とを比べて安心したいからです。

そして誰もが人の価値を測るスケールを持っています。しかしこのスケールのめもりは、気分によってのびたり縮んだりするし、自分を測るときにはずいぶん甘く、人を測るときにはきびしくなるという特性を持っています。しかし、それでは自分のことを、そして他の人のことを正しく見ることが出来ません。

神様を信じない人にとってそれは当然のことです。神様を信じていないなら、自分の基準しかないのですから。自分の基準に従って、この人は自分にとって役に立ちそうだから自分のそばにいてほしい。この人は自分にとってジャマな存在だから消えてもらいたい。

しかしこの傾向を持っているのは、クリスチャンも同じです。なぜ神さまの基準を知っていて、しかも自分もその基準に満たない事を知っているはずのクリスチャンなのに同じことをしてしまうのでしようか?

イエス様を主と信じクリスチャンとして歩み始めても、私達の「裁く体質」は自然に消えてしまうわけではありません。この自分に都合のいいスケールを捨てることが出来ずについ使ってしまいます。この裁く体質は、心の健康に大変よくありません。自分を傲慢にし、ひとには無力感やあきらめを与えることになります。

2)赦されている・赦しなさい(ルカ6:37)

「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。(ルカ6:37)

この体質を改善する第一歩は、自分のスケールが、自分に甘く、ひとに厳しい、いい加減なものであるということを自覚することです。

そしてもしあなたがそのスケールにもてあそばれているとしたら、あなたがするべきことは「イエス様が十字架にかかって苦しまなければならない程の罪を赦されている」ということを知ることです。神様の基準で見るなら、あなたの目から見て非常に立派に見える人も、無価値に見える人も、同じ罪人です。かみさまがあなたに望んでおられることは、その人をダメな人間だと断定して、がっかりさせることではなく、どんな罪人でも赦される恵みが用意されていることを伝えることです。


メッセージのポイント

私たちは自分自身が赦された罪人にすぎないにもかかわらず、人を裁いてしまいます。それはその人の希望や将来の可能性を奪い取ることになってしまいます。この「裁く体質」を改善するために必要なことは、あなた自身、「イエス様が十字架にかかって苦しまなければならない程の罪を赦されている」ということを知ることです。神様の基準で見るなら、あなたの目から見て非常に立派に見える人も、無価値に見える人も、同じ罪人です。あなたがすべきことは、その人をダメな人間だと断定して、がっかりさせることではなく、どんな罪人でも赦される恵みが用意されていることを伝えることです。

話し合いのヒント

1)「裁いてはいけない」とは具体的にどのような意味ですか?

2)なぜ人を裁いてはいけないのですか?