2005/01/23 メッセージノート
あなたの前にも同じ落とし穴が!
ローマの信徒への手紙2:17-29
初めに今日のテキストの全体を読んでみましょう。
ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。 また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています。(17-20)
それならば、あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。「盗むな」と説きながら、盗むのですか。 「姦淫するな」と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。 あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている。(21-23)
「あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている」と書いてあるとおりです。(24)
あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。(25)
だから、割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか。 そして、体に割礼を受けていなくても律法を守る者が、あなたを裁くでしょう。あなたは律法の文字を所有し、割礼を受けていながら、律法を破っているのですから。(26-27)
外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。 内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。(28-29)
ここで直接非難されているのはユダヤ教の指導者たちです。けれどもキリスト教の歴史も、旧約聖書で知ることの出来るユダヤ教の歩みと同様、堕落とそこからの立ち直り連続であったことが分かります。この個所で指摘されているユダヤ教の堕落は、1)聖書の教えから逸脱してしまったこと 2)心の伴わない形式的な信仰に陥ってしまったことです。このことは私たちクリスチャンにも全く同じように陥りやすい危険なのです。それがどんな危険な落とし穴なのか、落ちないようにするにはどうしたらよいかをお話します。
A.理解していることと行動とのギャップ
求められている役割(17-20)
ではもう一度、20節までを読んでみましょう。
ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。 また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています。(17-20)
ここに出てくる「ユダヤ人」を「クリスチャン」に、「律法」を「聖書の教え」の置き換えて読んでみると、まさにクリスチャンの生き方に重なってくるのではないでしょうか?
私たちは確かに、先に神様の愛を知った者として、まだそれを知らないひとに告げ知らせる役割を与えられています。 しかし、その役割を良く果たすためには、聖書の教えの中心に「イエス様の十字架による罪の赦し(福音)があること。またクリスチャンは特別優れたものではなく、赦された罪びとに過ぎないことをしっかり胸に刻んで忘れないようにしていなければ、自分勝手な解釈に陥ったり、自分の正しさを主張するばかりで、上から人を見下すような信仰になってしまいます。そうなってしまえば、いくら人に伝えたいと思っても、誰も心を開かなくなってしまうでしょう。
陥りやすい落とし穴(21-23)
神様がユダヤの民に与えられた律法自体に問題があったのではありません。そうであるならキリスト教は新約聖書だけを聖書と認めたはずです。実のところ問題は、律法を守っていると言いながら、それは表面上のことで、内実を踏みにじっていたことにあるのです。21節から23節までを読みましょう。
それならば、あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。「盗むな」と説きながら、盗むのですか。 「姦淫するな」と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。 あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている。(21-23)
彼らは実際に泥棒をしたり、偶像を拝んでいたわけではありません。しかし神様の目から見れば、神様に捧げられた捧げ物を祭司として正しく用いないなら、神様のものを盗んでいることになります。実際の偶像に頭を下げることよりも、神殿を自分の利得のために、商売の場としてしまうことのほうが、より悪質な偶像礼拝と言えるのではないでしょうか?(ヨハネ3:13-22、詩篇69:9)
私たちもまた、日々注意深く、神様の真意を確かめながら歩んでいかなければ、彼らと同じ過ちをすることになります。残念なことに、キリスト教の歴史にはこの過ちによる汚点がたくさんあることを認めねばなりません。
神様の名は神様の民によって汚されている(24)
あなたは「自分の信じている宗教を信じない人の命は自分の命より軽い」「異教徒を殺すことを神様は喜ばれる」という考えに賛成できますか? 今でもこんな考えが、毎日多くの人々の命を奪いつつあるのです。「クリスチャンはそんなことには手を染めなかった」と言い逃れることは出来ません。
十字軍はイエス様の軍隊を自認し暴虐の限りを尽くしました。ユダヤ人をガス室に送った人々も自分がクリスチャンであると信じていました。アメリカのある団体はキリスト教(プロテスタント)の精神を旗印に掲げ有色人種やユダヤ教徒、カトリック信者は自分たちに従わないなら裁判なしで処刑してもかまわないと今でも主張しています。
「あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている」と書いてあるとおりです。(24)
自分がクリスチャンだと信じているだけでは正しく行動することは出来ません。クリスチャンは時々単純に「あの国は○○教国だからあんなにひどいことをする」と思ってしまいますが、それは正しくありません。 キリスト教国であっても過ちを犯し、その結果、イエス様を憎む人々を生み出してしまいます。
聖書に忠実に歩むということは、聖書を何度も読んで暗記することでも、内容を覚えていることでもありません(そのことは「聖書に忠実に歩む」助けにはなりますが)。そうではなく、聖霊の導かれ、助けを借りながら、心の中で祈りつつ、神様の意思を求めて聖書を注意深く読み、それにしたがって行動することです。そうでなければ誰でも聖書を自分に都合よく読むことになり、神様の願いとは遠くかけ離れた歩みをすることになってしまうのです。
B.表面的な信仰に陥らないために
表面的しるしだけでは意味がない(25)
ユダヤの人々の堕落のもうーつの面は、その信仰が表面的・形式的なものになってしまった、ということです。25節を読んでみましょう。
あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。(25)
このー節の「割礼」を「洗礼」、「律法」を「聖書の教え」に読み代えれば、これはそのまま私たちへの警告となります。洗礼の方法は教会によって異なります。自らの信じるところで浸礼が望ましい、滴礼で十分などと考えることはよいのですが、この方法でなければ救われないと言ってしまうなら、それは誤りです。人は心に信じて義とされ口で告白して救われる(ローマの信徒への手紙 10:10)とある通り、水に入ったことによって救われるのではないのです。心に確信があるなら、まだ洗礼を受けていなくてもその人はクリスチャンです。反対に形式的にバプテスマを受けていたとしても、その人が実際にイエスキリストに従って歩いていないなら、「私はクリスチャンです」と胸を張っても、クリスチャンとはいえないのです。
本当の意味で聖書の教えに従って生きる(26-27)
だから、割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか。 そして、体に割礼を受けていなくても律法を守る者が、あなたを裁くでしょう。あなたは律法の文字を所有し、割礼を受けていながら、律法を破っているのですから。(26-27)
あなたのクリスチャンとしての証明は何でしょうか?バプテスマを受けたときにもらった洗礼証明書ですか?どこに行くときも革張りの立派な聖書を持ち歩くことですか? 一日に5章聖書を読むという習慣ですか? 毎朝1時間の祈りを欠かさないことですか? 確かにそれらは人に自分はクリスチャンだとアピールするのには役立つでしょう。しかし、神様が求めておられるのは、「聖書が教える所を正しく受け取り生活に活かす」ことであって、そうでなければ、聖書も、祈りも飾り物でしかありません。
霊によって心に施された洗礼(28-29)
「聖書が教える所を正しく受け取り生活に活かす」と口では簡単に言うことが出来ますが、それを完全にできる人はどこにもいません。けれども私たちは、わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。(コリントの信徒への第二の手紙 3:18) とあるように聖霊の助けにより少しずつ近づいて行くことは出来るのです。最後の部分を読んでみましょう。ここでも「ユダヤ人」を「クリスチャン」、「割礼」を「洗礼」と読み替えて、自分の事として受け止めてみてください。
外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。 内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。(28-29)
聖書には「聖霊によるバプテスマ」という言葉が出てきます。イエス様は復活されて弟子たちの前に現れ「聖霊を受けなさい」(ヨハネ20:22)といわれました。使徒言行録は聖霊を受けるということの実例を多く紹介しています。
「聖霊のバプテスマ」「聖霊の満たし」はその現代における意義や受け取り方について、同じキリスト教の中でも様々な意見がありますが、「聖霊を受け、聖霊に満たされなさい」というイエス様の命令を誰も無視することはできません。聖霊を受けていること、満たされていることをどこで判断するかということも、論争の種ですが、それは決して感覚的な変化や異言を語るとか預言をするなど超自然的な賜物の表れでもありません。聖霊を受けると何か特別な感覚を覚える人がいるということも、それらの賜物が今日も用いられることを否定するものではありませんが、それらは証拠とは言い切れません。ではどこでわかるかといえば、聖霊を受けたことが目に見える「実」となって表されているかということです。<霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。(ガラテヤの信徒への手紙5:22-23)>
さあ、今朝私たちの信仰が聖書の教えから逸脱しないように、形式的なものにならないように、聖霊の満たしを求めて祈りましょう。
メッセージノート
あらゆる宗教において、信仰は堕落する危険があります。キリスト教も例外ではありません。今日のテキストでパウロが指摘したユダヤ教の堕落は、1)聖書の教えから逸脱してしまったこと 2)心の伴わない形式的な信仰に陥ってしまったことです。キリスト教も同じ過ちを何度も繰り返し、生き生きとした信仰の力を失ったことがあったのです。しかしそのたびに神様は、豊かな憐れみにより、聖霊に満たされた人々を起こして、御子イエスキリストの体である教会を刷新してくださいました。教会の堕落は、この体の一部である私たち一人一人の心から始まります。自分の信仰の堕落を防ぐために必要なことは、礼拝、祈り、交わりを通して日々聖霊により内面を新しくしていただくことです。
話し合いのポイント
1)律法を誇りにしていたはずのユダヤ人が、律法を破って侮っていると非難されたのはなぜですか?
2)クリスチャンにとっての表面的な信仰とはどのような状態を指すのでしょうか?