2005/2/6 メッセージノート

無神論は時代遅れだ!  

ローマの信徒への手紙3:9-20

私はクリスチャンになる前には、神様を信じるなんて非科学的で時代遅れなことだと‘固く信じて’いました。それはまだ無神論を国是とする国々が輝きを保っていた時代でした。逆にキリスト教国といわれる国々の横暴が、アジアやアフリカ、南アメリカで行われていたこともあって、特にその気持ちが強かったのです。やがて、無神論の国々はほとんどが解体してしまいました。また私自身も「本当に信頼できるのは何か」という問いの答えが、神様を信じるしかないのではないか?と思い始めました。

では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。 次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。 悟る者もなく、神を探し求める者もいない。 皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。 彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。 口は、呪いと苦味で満ち、 足は血を流すのに速く、 その道には破壊と悲惨がある。 彼らは平和の道を知らない。 彼らの目には神への畏れがない。」(9-18)

この聖書の個所で、神様を信じない行き方は新しい考え方ではなく2000年以上昔からあったことが分かります。

A. 正しい者は一人もいない

1) 正しい民族、正しい国、正しい人

2000年前、イエス様がこの世界に来られた目的は何ですか?

イエス様が来てくださった目的を一言で言うなら「神様と人々との壊れてしまった関係を修復するため」ということになるでしょう。でも、このことはいろいろな表現ができます。今日のメッセージに添った表現をするなら「人間の持っている観念を180度、ひっくり返す」ために来られたといえるでしょう。それは「自分は正しい」という観念です。議会では、私と私の党が正しい、あなたたちは間違っていると互いに言い合っています。テレビコマーシャルは、この製品が最高、他のではなくこれを買いなさいとメッセージを流し続けています。公園の砂場では子供たちがけんかをして、大人にしかられると、「悪いのはぼくじゃない、この子が悪いからけんかになった」と言い張ります。強い国は、自国の価値観を他の国にも持たせようとします、自分の国が正しいと考えるからです。小さな国も主張します。多くの日本人が北の隣国に連れ去られたことが問題になっています。人道上許されない行為です。でもこの国は謝るつもりはないようです。過去この国に対して日本がしたことに比べれば小さなことだからだそうです。確かに日本はこの国の人々に対して人道上許されない行為を行いました。だから日本人は拉致されてもいいということにはなりません。日本でもまた、自国のあり方はいつも正しかったと考えたい人たちが、日本は彼らの国を人道的に占領していた。残虐なことはしていない。日本人はもっと自国を誇るべきだと言っています。でも誇りに思うことと、いつでも自分を正しいと考えることとは違います。

イエス様が教えられた単純な事実は、大人も子供も、北朝鮮人も日本人も、アメリカ人も皆、罪の下にいるということです。


2) 神様を求めないので迷っている

パウロが引用したのは詩篇の数編の組み合わせです。少なくとも2500年以上も前に書かれているのに。世界は全然変わっていないと思いませんか?ここで興味深いことは、正しくないということの原因を「神様を求めない、神様への畏れがない」と言っており、その結果として世界に、嘘偽り、暴力、破壊、悲惨に満ちており、平和がない指摘している点です。 ひどい事をするので正しくないのではなく、正しくないので問題を起こし続けるというのです。

世界がこのままでいいと思っている人はそう多くはありません。いろいろな努力がなされています。でも問題が自分の側にもあるということを誰も認めたくはありません。そして、あなたにも罪があると言われるイエス様を認めたくないのです。神様を求めるということは、自分の正義ではなく神様の正義に従うということです。神様を畏れるとは、神様の前には自分も不完全で罪深い者だということを認めることです。イエス様は自分の問題の解決を図らなければ人の問題を解決してあげることは出来ないとおっしゃいましたが、人間はそれが一番苦手なのです。自分には目の中に梁があっても気にせず、それでいて他人のことについては目の中に入った小さい塵でさえ目触りに感じます。事態が変わらない理由は、世が、イエス様が来られる前も、来られた後も救い主を無視し続けているからなのです。


B. どうしたら正しく生きられるのか?

それではどうしたら正しくない人間が正しく生きることができるのでしょうか?19-20節を読みましょう

さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。 なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。(19-20)


1) 自分の力で正しくなれる人はいない

どんな時代でもどんな人でも、神様に背を向ける一方で、より正しくありたい、できるだけ多くの人々と平和にすごしたい。という気持ちを心のどこかに持っているものです。パウロは同じ手紙の章で、それを、持ってはいるけれど発揮することのできない「良心」と表現しています。自分の欲望にまかせて生きるのではなく良心に従って生きることが出来るよう、人々は哲学・宗教・倫理学・教育・しつけ・法律など様々な方法を試みてきました。それは様々な努力によって正しくなれるという前提に立ってなされてきました。そしてうまくはいきませんでした。「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」と書かれている通りです。

2) 本当の神に頼ることによって

それでは私たちが正しく歩むことはできないのでしょうか?聖書はたったひとつだけ道があることを教えてくれます。「私は、道であり、真理であり、命です。誰も私を通してでなければ父のもとに行くことが出来ない」(ヨハネ14:6)と言われた方を主と信じることです。口でそう言われただけでなく、私たちの罪の岳十字架の上で苦しみ死なだから、「主イエスを信じなさい、そうすれば、あなたもあなたの家族も救われる」(使徒16:31)のです。このようにして神の前に正しいと認められた人は幸いです。自分の正しさを証明するために人と比べたり、攻撃したりする必要がないからです。

メッセージのポイント

ダビデの時代から今に至るまで、社会の荒廃の原因は神様を無視する人の態度であることを、パウロは2000年近くも前に指摘しています。こんな状況の中で、律法は人に善を行うことのできない弱さを教え、罪の自覚を促し、その心をイエス様の十字架に向ける役割を果たしてくれています。新約聖書(福音)は旧約聖書(律法)を前提として成り立っていて、切り離すことはできません。一方、旧約聖書は、十字架と復活の出来事を通して、初めてその真意を汲み取ることができるようになったといえるのです。ですから聖書は旧約、新約と切り離すことのできない一つの「神の言葉」の書なのです。

話し合いのヒント

1) 正しいってどんなこと? その基準は?

2) 旧約聖書はどのような意味でユダヤ人ではない私たちにとっても「神様の言葉」なのでしょうか?