2005/2/20 メッセージノート 

アブラハムの神・ダビデの神・ の神

ローマの信徒への手紙4:1-12

今朝はクイズから始めましょう。このメッセージの題ですが、アブラハムの神、ダビデの神とあってそのあと字を打ち忘れたわけではありません。ここの何という言葉が入るのでしょうか?それがクイズの問題です。アブラハムの神、ダビデの神といってももちろん別の神様ではありません。三番目の神様も同じ神様です。誰の神様なのでしょう?アブラハムの神、イサクの神とくれば、ヤコブの神ということになるのですが、皆さんの聖書にはその言葉は出ていません。何人かの方の聖書にはあるかもしれませんが?お分かりですか?私の聖書には出ていますよ。この裏表紙の内側にAndy H.Nagaharaと書いてあるのです。そうです、Andy と書く必要はありません。それぞれ御自分の名前を入れてください。さあこれでメッセージを落ち着いて聞くことが出来ますね。

さてあなたの信じている神様はどのようなお方ですか?

創世記を読むと神様がアブラハムに偉大なことをしてくださったことが分かります。サムエル記を読めばダビデがどれほど神様に深く愛されたかを知ることができます。あなたは、理屈では「自分は彼らと同じ神様を信じている」ことを知っています。けれども本当に神様が自分を彼らと同じように取り扱ってくださると、確信している人はそう多くはありません。この手紙を書いたパウロは、アブラハムとダビデの人生に神様がどのように関わられたのかということを通して、読む者が神様からの恵みをフルに受け取ってもらいたいと願ってこの部分を書いています。同じ神様を信じているということは、神様があなたにも同じレヴェルのことをして下さるということです。同じくらい大きな恵みを期待してもいいということなのです。私たちは神様の恵みを安く見積もりがちですが、神様はもっと多くをあなたに与えたいと思っていらっしゃいます。それでは先ず神様がアブラハムにどのようなことをして下さったのか見てゆきましょう。最初の5節を読みましょう。

A. アブラハムの神 (1-5、創世記12:1-4)

では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。 もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。 聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。 ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。 しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。

1) 呼びかけ、旅立つことを命じる方

アブラハムは75歳になって突然神様に、今までとは違った全く新しい人生をはじめなさいと呼びかけられました。そのことが記されている創世記の12章にはこの様に書かれています

主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。 わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。 あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る。」
アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。
(創世記12:1-4)


ここは聖書にアブラハムが初めて登場したところですここから25章まで彼の生涯の物語が始まります。まだあまり旧約聖書に親しんでいない人でも興味深く読むことができる部分ですから、ぜひ今週読んでみてください。

誰の人生にも転機といわれるときがあります。両親からの独立、就職、結婚、転職。でも皆さんの人生最大の転機は、イエス様を主と信じクリスチャンとなったときだと思います。それは時代や場所、形は違っていてもアブラハムの身に起こったことと全く同じです。

私たちは神様を信じることができると、やっと本当の落ち着き場所に帰れたと感じて、ここに到着したという感覚が強いのですが、それだけで満足しているなら、神様の恵みを十分に受け取ってはいないことになります。その転では皆さんにもっと貪欲になってもらいたいと思っています。

あなたはここに到着して人生のハッピーエンドを先取りしたかのように感じてはいませんか?まだ早すぎます。神様はあなたをアブラハムに呼びかけられたように新しい冒険旅行に招いてくださっているのです。

しかし、この旅は一週間後には日焼けしてduty free shopの袋をぶら下げてうちに帰ってくる、気楽なハワイ旅行ではありません。二度とここには帰ってこない、「神の国」への海外お引越しです。

もちろん私たちの旅は、心の旅ですから実際に肉親と会えなくなってしまうわけでも、持ち物を大幅に整理しなければならないわけでもありません。ここに私たちがよく注意しなければいけない点があります。イエス様はすべてをすてて私に従いなさいとおっしゃいましたが、クリスチャンとなったその日、あなたの物、家族・仕事は実際のところ全くそのままで、なくなりはしないのです。ただ所有権は神様に移るのです。いいえ、実は本来の所有者である神様にお返しすると言った方がいいでしょう。あなたはアブラハムのように地上ででは旅人です。それは一見、他の人と全く同じように生きはいるけれど、もはやすべての重荷を神様におゆだねして、足どり軽く歩き出す、ということです。

私は今、重荷と言いました。人生の重荷とは、あなたを押しつぶしてしまうような大きな深刻な間題とは限りません。負債も重荷ですが実は財産も重荷なのです。自分の物だから守らなければならない、増さなければならない。私の大切な人たちだから私がなんとかしてあげないとか。持っていない事よりも、持っている事の方が不自由な場合もあるのです。すべての物事はふさわしいタイミングで神様が与え、神様が取り去ります。私たちは今持っている物を自由に楽しむことが出来ます。それは、すべて神様があなたに委ねておられるからなのです。アブラハムはこの信仰を持っていたのです。あなたも神様の呼びかけに応えて、心の整理をつけ、すべての所有権利証を神様にお返しして神の国を目指して旅立ったのです。

2) 将来の祝福を約束してくださる方

多くの人は、手放すということを大変恐れます。しかし、いらないものを沢山持っていれば、神様があなたに本当に必要なものを与えようとしても、あなたの手はふさがっていて受け取ることが出来ません。神様はあなたが、あらゆる所有権を放棄して歩み始めるなら、あなたを空っぽのままで置いておかれる方ではありません。

神様はアブラハムに将来の大きな祝福を約束してくださり、その言葉どおりに、祝福の第一歩として、老齢のアブラハム夫妻に子供イサクを恵んでくださいました

3) その働きによって正しいと認められる者はいない

アブラハムは偉大な人だったのでしょうか?いいえかれは普通の人でしたが、素直に神様の声に従ったので、偉大な働きをさせていただけなのです。彼には私たちと同じように打算的な面、人間的な弱い面もありました。旅立ったあともたびたび、神様を信頼しきることが出来ずに失敗を繰り返しました。それでも神様は彼を見捨てずに導き続けてくださいました。その同じ神様があなたに「踏み出しなさい」と呼びかけておられるのです。あなたが正しいかどうか、優れているかどうか、価値があるかどうか、神様はそんなことには関心がありません。神様が関心を持っておられるのは、あなたが神様の呼びかけに応えて歩みだし、歩み続けるということなのです。

B. ダビデの神(6-8、サムエル記下11-12章、詩編32編)

1) 赦された罪人の神

6節から8節までを読みましょう

同じようにダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。 「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、幸いである。 主から罪があると見なされない人は、幸いである。」

ここは詩編32編からの引用です

ダビデはイスラエルの王の中で最も偉大な王です。神様にもよく用いられ、どの王よりも神様を愛する人でした。詩編にあるワーシップソングを多く作った人でもあり、たくみに琴を奏でる人でもありました。そんな彼でも、とても人間として赦されないような罪を犯してしまったのです。

自分の権力を乱用し、自分に忠実な部下の妻を奪い、彼を戦争の一番激しいところに送り殺させてしまいました。

このことを、預言者を通して神様から責められ、彼は深く悔い改めました。彼のこの人間的な弱さが、その後の彼の家にたくさんの悲劇をもたらすことになります。

ダビデはその後の生涯を過ごすに当たって自分が赦された罪人だということを忘れませんでした。そして罪深い自分でさえも神様がどれほど愛してくださっているかという感動を歌に残しています。どんな大きな罪であっても神様が赦せない罪はありません。自分の内面の醜さを認めるのは辛いことですが、恵みを受ける第一歩です。そこではじめて、赦し清めてくださる方に助けを求めることができるからです。

2) 行いの正しさで、正しいと認められる者はいない

幸いなことに神様は行いの正しさによって人間を評価する方ではありません。もしそうであったならば、アブラハムもダビデも、私もあなたも皆失格です。しかし神様は、あなたの悔い改めと、新しい献身を喜んで認めてくださる方なのです。

C. あなたの神(9-12、1コリント4:15-16)

それでは9節から12節までを読みましょう

では、この幸いは、割礼を受けた者だけに与えられるのですか。それとも、割礼のない者にも及びますか。わたしたちは言います。「アブラハムの信仰が義と認められた」のです。 どのようにしてそう認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。それとも、割礼を受ける前ですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受ける前のことです。 アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。 更にまた、彼は割礼を受けた者の父、すなわち、単に割礼を受けているだけでなく、わたしたちの父アブラハムが割礼以前に持っていた信仰の模範に従う人々の父ともなったのです。

1) アブラハムのようにただ神様を信頼して

2人の旧約聖書の登場人物の歩みから私たちは何を学ぶことができるでしょうか?アブラハムの神、ダビデの神は、パウロの神でありあなたの神でもあるのです。まとめとして3つの事をお話しします。第一は、アブラハムのように神様の呼びかけに応えて、新しい道を歩き出そう、ということです。

それはイエス様を主と信じて従おう、という人生最大の決断だけではありません。その後の信仰の歩みにおいても時々に転機が訪れるものです。神様はその後にも何度かアブラハムに呼びかけられました。失敗を恐れてふみ出さないよりも、ふみ出して失敗する方がマシです。アブラハムの歩みを読めば、呼びかけに応えて歩みはじめたアブラハムの歩みも失敗だらけだった事がわかります。しかし、そのたびに神様は助けの手をさしのべました。信仰の歩みにカーナビはありませんし、信仰の道は乗れば目的地にあっさりついてしまうフリーウエーではないのです。

モーセに導かれたイスラエルの民はエジプトを出てカナンの地に入るまで40年もかかりました。いくら徒歩の大集団だったとしても、数ヶ月もかければ十分な距離です。人々にしてみれば、神様はなんで40年も荒野をうろうろさせるのだろうと感じたことでしょう。しかし神様は彼らにそのプロセスが必要な事を知っておられたのです。先ずふみ出します。そしてふみだしたら、ただ主を信頼して歩み続けましょう。

2) ダビデのように赦されていることを忘れずに

第2のことはダビデのように、大きな罪を犯すような失敗しても、心から悔い改めるなら、また神様とともに歩く人になれる。ということです。神様は赦された罪びとの神様です。そして私たちもまた自分が赦された罪びとに過ぎないということを忘れてはいけません。このことによって私たちは、謙遜でいることが出来、自分が罪を犯しやすい性質を持っていることを自覚することが出来、他の罪人の罪を裁くのではなく赦すことができるからです

3) あなたをアブラハム・ダビデ・パウロのように模範とする人々のために

最後のことは、これから誰かがあなたの歩みを模範に信仰の旅を始める。ということです。パウロはコリント人への手紙の中でこんなことを言っています。

キリストに導く養育係があなたがたに一万人いたとしても、父親が大勢いるわけではない。福音を通し、キリスト・イエスにおいてわたしがあなたがたをもうけたのです。 そこで、あなたがたに勧めます。わたしに倣う者になりなさい。(1コリント4:15-16)

よくパウロと正反対のことをいう人がいます。「私なんか見てはいけません、弱く、ダメなクリスチャンですから、そうではなく、こんな私でも愛してくださっているイエス様を直接見上げてくださいね」

これは一見謙遜に見えますが、実は責任を回避しているに過ぎません。確かに私たちは罪深く、偉大でもなく、模範にはなれそうもないと感じてしまいます。しかし誰も神様を直接見られる人はいないのです。どこに神様の手を見るかといえば、信じる人の日常の歩みの中にそれを見るのです。さっきクリスチャンの歩みは所有権証書を神様にお返ししたものの歩みだと言いましたが、そこにはあなた自身の所有権も含まれていることを忘れてはいけません。あなたもあなたのものではなく神様のものです。神様のものを勝手に価値がないといってはいけません。あなたがアブラハムのように、ダビデのように、ただ素直に神様に従って行けば、その歩みは、これからあなたを見る人にとって見習う価値のあるものとなるのです。


メッセージのポイント

クリスチャンとして歩むとは、神様に従って歩むとはどのようなことなのか?答えは聖書の中に出てくる人々の歩みに見出すことが出来ます。神様に対する信頼の原型を私たちはアブラハムに見ることができます。また赦された者の歩みの模範をダビデに見ることができます。私たちの正しさの根拠は、働きの成果でも、品性でもなく、神様への信頼と感謝にあるのです。

話し合いのヒント

1) 「義とされる」とはどういうことですか?

2) 神様はもうあなたを罪があるとは見ていません。それはなぜでしょうか?