2005/3/6 メッセージノート
希望 神様からあなたに・あなたから隣人に
ローマの信徒への手紙5章1節〜11節
あなたの心に希望はありますか?あなたにとって希望とはなんでしょう。日本では学校を卒業するときに記念文集を作ることが多いですが。そこにはよく「将来の希望」といった題の文章が見られます。そこには将来の職業についての希望、結婚相手、自分が築く家庭などについて書かれています。聖書は希望の土台が神様であることを教えてくれています。
A. あなたの心に確かな希望はあるか?
1)希望の土台、希望の本質(1-2)
このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。
ここでは、いろいろな希望の中の「神の栄光にあずかる希望」というひとつの希望について語っているように読むことが出来ます。しかし実はこの「神の栄光にあずかる希望」は希望の原点、希望の土台、希望の本質です。神様と常に共に歩めるという希望が、実はすべての希望を支えているのです。
人の生きる目的は何ですか?という質問に対し、あなたはどんな答えを持っていますか? クリスチャンはこう答えます「神様の栄光を表すためです」。それは、自分を御自身に似た姿に造られ、罪という失敗を赦し、愛して続けてくださる方に対する自然な思いです。
作品は芸術家にとって彼の、彼女の栄光です。いろいろなスポーツのチャンピオンはコーチの栄光でもあるのです。成長した子供たちは親の栄光です。神の栄光を表すなんてずいぶん宗教的な響きがありますが、神様があなたを通して働かれ、それが実際に人々の中に実現するということです。
教会はこの神様の働きの最前線として世に置かれているのです。神様を信じない人は自分の栄光、自分の素晴らしさを表そうという希望があらゆる希望の中心にあります。これこそが人の罪の本質です。そのためには他の人の希望はどうなってもいいのです。そしてこの考え方が、実際に目に見える犯罪にいたることもあるのです。
自分自身の栄光を表そうとしても、誰かあなたより強い力を持った者が邪魔をしようとするなら、あなたの希望は打ち砕かれてしまうでしょう。けれども、神様の栄光を表すことを希望の原点においている者の希望は、誰も打ち砕くことは出来ません。
2)希望の母:苦難 (3-4)
そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。
もしあなたの希望が、神様の栄光をあらわしたいという希望の土台を持っているなら、あなたの人生においては苦難さえ益になります。いえ、むしろ苦難は新しい希望の始まりでさえあるのです。
神様が共にいてくださることを知っているなら、苦難は必ず乗り越えることの出来るものであると信じ続けることが出来ます。これが、神様が与えてくださる忍耐です。
そしてこの忍耐の時は、その中にあるときにはただ苦しみを我慢しているときのようにしか思えないかもしれませんが、実はあなたの内面が一番成長しているときです。そしてこの成長は、神様を知らない人が、苦難の荒野としか思えないところでさえ、あなたは希望を見出すことができるようになるということです。
3)希望はあなたを欺かない (5、第一コリント13:4-8a)
希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。
先ほど、「神様の栄光を表すことを希望の原点においている者の希望は、誰も打ち砕くことは出来ません。」と言いましたが、ここにその根拠があります。
自分の栄光に土台を置いた希望はいつかあなたを欺き裏切り絶望に変わってしまうかもしれません。神様の栄光を表すという希望を人生の土台にすえるなら、あなたの辞書に絶望の言葉は必要ありません。それを保障するのは神御自身の霊、聖霊が十字架の上で表された神様の愛を、あなたの心に注ぎ続けていてくださるからです。
この神様の愛がどれほど強力であるかを知りたいなら、コリント人への第一の手紙13章を読んでみることです。
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。 愛は決して滅びない。(第一コリント13:4-8a)
このように愛には大きな力があります。しかし、この部分だけを抜き出して読むなら、「愛がそのようなものであるなら自分には愛はないし、そうであるから愛することはできない」というのが正直なところでしょう。確かに以前はそうだったかもしれません。けれども今は違います。あなたの心に神様の愛が注ぎ続けられているからです。
B. 希望を与える三つの愛
神様の愛についてはあなたにぜひ知ってもらいたいことがあります。それは、この愛があなたの希望を確かに保障するだけではなく、あなたが同じように愛するときに、人々に希望を与えられるのです。それではあなたの希望を確かにし、あなたから人々にも与えることの出来る愛がどのようなものか、どう愛したらよいのかを三つの側面から見てゆきましょう。
1) 犠牲を払う愛 (6-8)
第一のことは「愛するとは犠牲を払うことだ」ということです。
実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。 正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。
犠牲を払う、という言葉は神様には似合いません。むしろ神様に犠牲を献げる、というのが普通です。けれども神様は十字架の上で、ありえないこと、神ご自身を被造物である私たちのために犠牲を払って下さいました。ここの私たちを取り巻く状況がどうであっても希望を持ち続けることの出来る根拠があるのです。あなたがその人に、よろこんで犠牲を払うなら、その人もまた取り巻く状況が困難であっても、あなたを通して示される神様の愛によって希望を抱くことが出来ます。
2) 赦す愛 (9-10)
第二に愛するということは赦すことだということです。
それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。 敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。
自分がどれほど大きな罪を神様に赦していただいたのか?このことをしっかりと思い起こすなら、私達も赦すことが出来ます。赦すとは「赦せないという感情を処理することではありません」これは時間のかかるプロセスです。私たちがすぐにできることは、「赦します」という意志を持つことです。そして赦すことができるよう助けてくださいと祈ることです。私たちの心に傷として残った感情は神様に触れて癒していただき忘れ去るしかありません。忘れることが出来るのは、神様が与えてくださった大切な能力です。神様はかなりひどい心の痛手も少しずつ癒してくださいます。他にも悪条件が重なればトラウマとなってしつこく残り医療を必要とする場合もありますが、大抵の場合は時間が解決してくれるのです。あなたが誰かを赦すのは、あなたにとっても相手にとっても解放の経験となります。こじれてしまったあなたの関係に神様が働いてくださるように祈りましょう。
3) ともに歩む愛 (11)
最後の、愛の側面は「共に歩み続けること」
それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。
神様はあなたと共におられます。大声で励ますわけでも、優しく慰めるわけでもなく、もちろん何か命令するわけでも、意見を言うわけでもないのだけれど、共にいてくださるのです。一緒にいてくれるというだけで、私達には大きな慰めです。この慰めを得ているあなたは、同じように誰かの傍らに立ち、ともに歩むことができる人です。
メッセージのポイント
将来に大きな希望を持って生きることを願うなら、あなたが第一に求めるべきことは神様との和解です。神様との和解なしに、本当の希望はありません。苦難によって吹き消されてしまうような希望は蜃気楼のようなものですが、神様との和解によってもたらされる確かな希望は苦難の中にさえ見出すことができるのです。そしてこの本当の希望は決してあなたを欺くことがありません。なぜ私たちは希望を抱いて生きることが出来るのでしょうか?それは神様があなたを愛していてくださるからです。神様の愛は観念的な愛ではありません。自らを犠牲にし、あなたを赦し、永遠にあなたとともに歩んでくださる具体的な愛です。そしてこれからは、あなたが、この三つの愛で隣人を愛し確かな希望を与えることができます。
話し合いのヒント
1) 今日のメッセージで「希望」についての認識がどう変わりましたか?
2) 希望を伝える人として生きるために必要なものは何ですか?