2005/3/12 メッセージノート
命−あなたは本当に持っていますか?
ローマの信徒への手紙5章12節〜21節
A. アダムに象徴される私たちの罪の性質
1) 神様が人を罪人として造られたわけではない (12-13)
このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。 律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。(12-13)
人は最初から罪人として作られたのではありません。最初の人が自分の意志で罪人となったのです。自分を造ってくださった神様の期待される行き方ではなく、自分の欲望に従うことを選んだのです。それ以降、人は自分の欲望に従って生きるものとして母の胎から生まれることになります。ここで言っている「すべての人が罪を犯した」というのは、アダムとエヴァが選び取った罪の性質を持って誕生したということです。
2) 罪の報酬=死 とは何か? (14、6:23)
しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。(14)
13節では、すべての人が罪を犯したとあるのに、ここでは「罪を犯さなかった者」とあって分かりにくいかもしれません。ここでの罪とは、アダムが禁止されたにもかかわらず犯してしまったような、意識的な違反のことです。ここでモーセのときまでと限定して言っているのは、モーセの時代にイスラエルの民には律法が与えられたからです。律法が与えられてから、人々は罪ということをもっと意識的に考えるようになりました。しかし罪の性質自体は、アダムから始まってすべての人に共通な人間のもって生まれた性質として受け継いできたのです。律法を与えられたイスラエルの民も、それを自分の力で守ることは出来ませんでした。ですから何人であれ、イエス様の十字架と復活まで死は等しく人を支配しました。
ここで言う死とは、肉体の死のことではありません。実はそれよりもっと深刻な魂の状態のことです。肉体がやがて朽ちることは今でも避けることは出来ません。問題は魂なのです。
さてここに罪の報酬は死(罪が死をもたらす)とあります。罪という言葉にはもともと「的外れ」という意味があるという事を以前お話ししました。魂がつながるべきところにつながっていない、ともいえます。電気器具はコンセントにプラグが差し込まれていなければ動きません。最近はコードレスで使えるものも増えてきましたが、定期的に充電しなければやはり止まってしまいます。魂は神様につながっていなければ死んでいるのです。 あなたの魂がいつも喜びや希望で満たされ、それがあなたの生活にも反映されるためには、体に酸素や栄養が送り込まれていなければ肉体が死んでしまうように、魂にエネルギーが注ぎ込まれていなければならないのです。アダムの選択は自分でこの補給線を外してしまうようなものでした。それ以来人は、魂を満たすものを求めてさまよっているのです。このさまよっている状態こそが魂の死です。
来るべき方とはイエス様です。しかしなぜアダムがイエス様の原型といえるのでしょうか?確かに二人がもたらしたものは正反対なものでした。アダムは罪とその報酬である死を、イエス様は和解とその結果である永遠の命をもたらしました。同じローマの信徒への手紙の6章23節にこう記されています。
罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。(6:23)
それでは15節以下でイエス様のアダムと似ているところ違っている所を見てゆきましょう
B. 永遠の命に導くイエス・キリスト (15-21)
1) アダムとの類似点 (15-19)
しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。
この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。(15-16)
共通点は、一人の人によってもたらされたということです。もたらしたものは正反対でしたが、罪も和解も一人の人の決断によってもたらされたのです。 罪の裁きは、どんなよい行いをもってしても償うことが出来ません、問題はアダムのときに背を向けてしまったという点にあるのですから。一方、救いの恵みによれば、どんなに罪の行いがあっても、赦され、神様と和解する道が開かれるのです。
一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。 そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。 一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。(17-19)
2) あなたに必要なたった一つの手続き (20-21)
律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。 こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。(20-21)
神様はイスラエルの民を選び律法を与えられました。彼らはそれを真剣に守ろうとしました。彼らはすべてを創造された唯一の神様に従うべきことを知っていたのです。神様は律法をイエス様が来られる準備としてイスラエルの民に与えられました。しかし彼らは、律法を、やがて来られる救い主の準備としてではなく、それ自体を形式的に守ることに気をとられてしまいました。そしてイエス様が来られても救い主として受け入れることが出来なかったのです。罪は私たちを神様から引き離します。そして神様から引き離された魂は死んでいます。しかしイエス様が来られて以来、神様の恵みが私たちの前に差し出されているのです。
アダムの状態で、つまり死んだ状態でいるためには何の手続きもいりません。すべての人は生まれながらにしてその状態だったのですから。けれども、死から命へ、罪から義へと魂の状態を変えるためには、たった一つのアクションが求められているのです。それは差し出された手を握り返すことです。神様はあなたに「私はあなたの罪を赦すために子イエスを十字架に架けました、あなたはこのことを信じますか?イエスを主と信じ、従いますか?それなら私と握手しましょう。それが私とあなたとの和解のしるしです。私は永遠にあなたと共にいるでしょう」
メッセージのポイント
なんとなく神様の存在を信じている人はクリスチャンでなくても沢山います。しかし聖書はイエス様を通してでなければ、人は神様と和解することは出来ないと断言しています。なぜイエス様でなければならないのか?あなたが自信を持ってイエス様を人に伝えたいなら、この疑問に答えられなければなりません。その答えが今日のメッセージです。神様が聖書によって、和解の手続きとしてイエス様を示されているのです。始めに背を向けたのは私たち人間です。和解の唯一の方法は、神様が示された提案に合意することしかありません。神様の和解の手はすべての人に差し出されています。あとは、その人が握り返すのかどうかにかかっているのです。
話し合いのためのヒント
1) なぜイエス様は第二のアダムといわれるのでしょうか?
2) イエス様とアダムが対照的なのはどのような点ですか?
3) 命とは何ですか?一般的な意味と聖書の教える意味とはどう違いますか?