2005/3/27 イースター礼拝メッセージノート
あなたは復活の主を見たか? マタイによる福音書28章
A. 復活された主と出会う方法
1) 証言を信じ歩みだし、主と出会い確信する
二人のマリアは二段階のプロセスでイエス様の復活を確信しました。まず4節までをお読みします。
さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。 (1-4)
彼女たちが最初に見たのは、復活されたイエス様ご自身ではなく、空の墓でした。天使は、彼女たちがはっきりとイエス様が予告されたことを思い起こさせるために語りかけました。5節から7節までです。
天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」(5-7)
天使は彼女たちに二つのことを命じました。ひとつは、遺体がないことを確認しなさい、と、そしてもうひとつは弟子たちにイエス様が復活されガリラヤでお目にかかれるだろうと伝えなさい。ということです。つまり彼女たちは、直接よみがえられたイエスさまに出会うことなしに、空の墓という状況証拠(circumstantial evidence)で墓を後にしたということです。彼女たちの複雑な心境が次の8節によく描かれています
婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。(8)
恐れながらも大いに喜んでいる。どんな心の状態なのか想像がつきますか?とても人間が作り出すことの出来ないような奇蹟の中に置かれた恐れ、自分の経験ではかれない状況に置かれた人間の恐れ、しかしそれは同時に、再びイエス様と会えるという何よりも嬉しい知らせだったわけです。皆さんは最近何かうれしい知らせを誰かに伝えるために走ったことがありますか?
2000年後の時代に生きる私たちも、同じような状況に置かれています。まだ直接会った事のない方を確かに生きていると人々に伝えているのです。「何で目に見えない神を信じられるのか」とクリスチャンはよく問われます。合理的に説明して、と言われてもそれは無理です。説明がつかないでも、人々が信じていることは神様のこと以外にもたくさんあります。最近はエアチケットをインターネットで買うことが出来ます。e-ticketというのですが、最初から、乗り換え便や帰りの便の座りたい席まで指定できて、後がとても楽なのです。いつも、航空券はどこだとチェックインのときにあわてる私にとって何よりもうれしいことは、紙のチケットを持ち歩かなくても良いということです。IDと名前を言えば、それだけで搭乗券が受け取れます。でも最初は不安でした、エアラインのコンピュータに私の名前がなかったら、こっちには証拠がありません。もちろんそんな事故はひとつもありませんでした。私はこの便利な仕組みについて何も知りません。今は何の心配もなく利用しているのは経験している。飛行機がどうして飛ぶのかということだって、利用者の多くは知りません。それでも利用するのは、それが安全にすばやく遠くの目的地まで連れて行ってくれることを知っているからです。大体操縦している機長も見ずに信頼しているわけです。
私たちは神様を説明することは出来なくても、経験を伝えることができるのです。それがイエス様を伝えるということです。彼女たちは会って伝えたのではなく空の墓を見て信じて伝えようとしました。
すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」(9-10)
彼女たちが信じて走り始めると、イエス様は実際に彼女たちの前にその姿を現わされました。私も同じように会いたいと言ってはいけません。イエス様は40日後に天に帰られたのですから、けれども私たちも全く同じようにではなくても、最初に空の墓だけで信じ歩み始めると、その歩みの中で実際に主に出会ったような新たな確信が与えられる経験をするのです。
2)「復活はなかった」とする無理のある説明
11節から15節を読みます。
婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。 そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、言った。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。 もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。」 兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。(11-15)
イエス様の復活を否定する考えは、墓が空になってしまった時からあったのです。聖書そのものの信ぴょう性をうたがう人がいたとしても、墓が空になっていた事を疑うことはできません。遺体があったなら、復活したという主張に対して見せることが出来たのです。彼らは決して弟子たちが盗んだのではないことを知っていました。彼らは完璧な警備で朝を向えたのです。「弟子たちが盗んだ」という嘘は兵士たちにとってはいたくプライドを傷つけられるものでしたから、金を与えなければなりませんでした。弟子たちが本当に盗んで復活したと言い張った、というのは一見、合理的に見えますが、ありえないことです。最初の弟子たちは、ほとんどが殉教の死を迎えます。もしイエス様が、その預言にもかかわらず、いつまで遺体のままでよみがえらなかったとしたら、イエス様は結局、自分を神と思いこんだ変り者か、宗教的詐欺師だったことになります。誰もそんな人のために命をかけたいとは思いません。
B. ここに派遣されている私たちの使命
1) 伝える
この方のために命をさし出したのは初代のクリスチャンばかりではありません。今に至るまでどの時代にも殉教者はいたのです。殉教者なんて恐ろしい感じがするかもしれませんが、クリスチャンは広い竟味では眥殉教者です。自分をすて自分の十字架を負って私に従ってきなさい、というイエス様の呼びかけに応えて歩んでいるのですから。
主はよみがえられた。それがー番自然な結論です。命を失うことになっても、その証言をひるがえさない人が2000年前から今まで、伝え続けているのです。
使徒言行録はイエス様が復活され天に帰られてからの教会の働きが著されています。使徒言行録の著者を知っています。それは福音書の一つを書いたルカです。ルカは自分の福音書の続きとして使徒言行録つまり「ルカによる福音書パート2」を書きました。私たちの「伝える」という働きは、この時のイエス様の言葉への応答として続けられています。読んでみましょう。16節から終りまでです。
さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(16-20)
2) 教える
最後の20節に注目して下さい。イエス様の命令を守るように「教えなさい」とあります。教会の機能はひとつだけではありません。祝祭の家であり、伝道のセンターであり、魂の病院であるとともに、なすべき事を教える学校としての役割を期待されているということです。
メッセージのポイント
「十字架の出来事」それは弟子たちを含め、その出来事を目の当たりにしたほとんどの人々にとって「偉大な生涯の物語」の最終章だと思われました。弟子たちは絶望と恐れのあまりに、イエス様の復活の予告の言葉を全く信じることが出来ずに息を潜めている有様でした。ところが十字架は物語の終わりではなかったのです。イエス様は三日目によみがえられました。今の時代に生きる私たちはイエス様の復活については「証言を信じる」という仕方でしか確認のしようがありません。しかし、イエス様の復活によって始まった「偉大な生涯の物語パート2」は、今でも閉じられることなく、章を重ねています。それはイエス様との出会いによって平安と喜びを得た一人一人のエピソードの集大成です。
話し合いのためのヒント
1) あなたは復活の主に会ったと思えるような経験をしたことがありますか?
2) イエス様は世が終わるまで共におられるといわれました。あなたにはその実感がありますか?