2005/4/3 メッセージ

洗礼を受ける意味 ローマの信徒への手紙6:1-14

A. 死ぬことであり、生きること?

アナウンスにもありましたが、今月はバプテスマがあります。今日の聖書はバプテスマの意味をよく教えてくれます。バプテスマをどう行うか、という点においては、いろいろな教派や教団で違いが見られます。中にはこのやり方でなければクリスチャンになれないという極端な考えもありますが、それは間違いです。このことについては後半にお話しします。形はいろいろですが、意味するところは同じです。その意味とは「死ぬこと」であり「生きること」です。正反対の二つのことを意味しているなんて不思議ですね。でもこれは一連のことなのです。つまり以前の状態の自分が死に、新しい存在として生き始めるということです。それでは最初の5節を読みましょう。

では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。 決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。 それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。 わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。 もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。(1-5)

1) 古い自分が死ぬために

パウロは「律法を守ることによっては祝福は受けられない。恵みによって神様の祝福を受けなさい」と勧めました。でもそれは「律法を無視して罪を犯し続けても良い」ということではないと言っています。イエス様御自身も「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(マタイ5:17)罪の中に生きていた者が死ぬということはもう罪の支配を受けないでいられるということだからです

「キリスト・イエスに結ばれるものとなるために洗礼を受ける」とあるように、洗礼はキリストの体である教会に連なるための儀式です。忘れられがちなことは、イエス様を主と信じるということはイエス様の体<教会>の一部となるということと同じだということです。このことを忘れて、教会の生きた枝としてつながっていようとする努力しないなら、人は、またいつの間にか罪に対して無力な者となってしまいます。

人は水の中では生きてゆくことはできません。ですから水の中に沈められるということは死ぬということを意味しています。パウロが言っているように、罪の力に支配されていた自分が死ぬということです。イエス様御自身は私たちの死に値する罪を赦すために、身代わりの死を選ばれました。マルコによる福音書10:38-39を読んでみます

イエスは言われた、「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていない。あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができるか」。 彼らは「できます」と答えた。するとイエスは言われた、「あなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けるであろう。(マルコ10:38-39)

イエス様が十字架に架けられる直前に弟子のヤコブとヨハネに話された言葉です。ここではイエス様は明らかに肉の命が奪われることを指して「バプテスマ」という言葉を使っています。

バプテスマの意味のひとつ、死とはただの死ではなく「十字架の死」を意味しています。つまりバプテスマを受けるということは、第一のこととして「イエス様の十字架が自分の罪を赦すためだった」ということの信仰の告白だということです。

2)  新しい自分が生きるために

次にバプテスマのもうひとつの意味「生きる」という側面についてお話しします。6節から11節までを読みましょう

わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。 死んだ者は、罪から解放されています。 わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。 そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。 キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。 このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。(6-11)

先週のイースター礼拝でお話ししたようにイエス様は十字架にかかってくださいましたが、それで物語は終わってしまったわけではありませんでした。イエス様はよみがえられたのです。そこでバプテスマを受けるということは第二のこととして「これからは復活されたイエス様と共に新しく与えられた命で歩みます」という信仰の告白でもあるということです。ここにもうひとつの問題が残っています。「キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」とあるけれどいったいどんな生き方を求められているのだろうかということです。その答えは12節以下にあります

従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。 また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。 なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。(12-14)

「罪のために浪費する人生から、神様のために活用する人生へと転換しなさい。」ということです。私たちは誰でも、キリストの体にしっかりとつながっているなら、後戻りすることなく、永遠に神様の恵みの下にいられるのです。

二つのことをまとめて言うならば、バプテスマとは、「イエス様の十字架と復活によって、私はイエス様の体である教会の枝として、イエス様に従って歩みます」という信仰の告白、表現なのです。

B.洗礼についての誤解

今までバプテスマの意味についてお話ししてきました。この意味を正しく知っているということが一番大切なことなのです。どういうやり方が正しいか、というのは分裂をもたらす議論です。機会があったらヤフーかグーグルで洗礼式の画像を検索してみてください。実に様々な方法があることが分かります。

1) それ自体に神秘的力があるのではない(ローマ10:10)

バプテスマはそのこと自体に何か神秘的な力が働くわけではありません。そうではなく救いの深い真理を意味する、教会に加わる儀式なのです。バプテスマは私たちにとって聖餐式と並ぶ大切な儀式です。しかし大切に思うあまりにこの儀式自体に何か力があるかのように思うならそれは間違いです。信じてからバプテスマを受けるまで、まだクリスチャンではない、まだ救われていないと考えたり、こういうやり方でなければいけないとするなら、それは行き過ぎです。バプテスマはこうであるべきだと考えていることはいいのです。しかしこの私たちのやり方でなければ無効だと言うなら、それはカルト的な教会だと考えなければなりません。

実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。

ローマの信徒への手紙の中のこの言葉にあるように、「心で信じ、人から分かるように信仰を表現して生き始めている」ということが大切なのであって、バプテスマとはその信仰の最初の表現なのです。バプテスマを受けることが救いの条件ではありません。

2) 洗い清めることではない (1ペトロ3:21)

前半でお話ししてきたように、バプテスマはその人の生き方の本質的な変更を象徴する儀式なのであって、人の外側に付いた汚れを洗い流すといった表面的なものではないのです。第一ペトロの3:21にこう書いてあります。

この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。

私達の日常や人生に関わる様々な問題はお手軽に洗い流すことができるようなものではなく、罪にではなく、神様に向かうという方向転換が必要なのです。

「私はイエス様の十字架での尊い犠牲によって正しい者とされたことを信じて感謝し、日々主にしたがって歩んでゆきます」という信仰を形に表したものがバプテスマなのです。

メッセージのポイント

教会の中でも洗礼についての見解は様々です。いろいろな背景を持ったクリスチャンが「洗礼はこうでなければならない」と異なった主張をします。私たちに必要なことは、本質を知って、そこにしっかり立つことです。どちらでも良いこと、聖書が具体的に教えていないことについては、こだわって人を裁いたり、躓かせたりしないよう気をつけましょう。

話し合いのためのヒント

1) なぜ「洗礼」という言葉は適切な訳ではないのですか??

2) 自分が洗礼を受けた(る)ときに家族に何と説明しましたか(しますか)?