2005年4月10日 

誰に捧げる?あなたの生涯 

ローマの信徒への手紙6:15-23

A 律法から自由なら何をしても良いのか?

1) 「誰の奴隷でもない」ということはありえない(15-16)

では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない。 知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。(15-16)

気付いた人も多いと思いますが、今朝のテキストでも先週と同じようにパウロは「イエス様を主と信じて生きる」ということについての誤解を解くことから話を始めています。クリスチャンとして生きることは、とても狭い稜線(尾根道/ ridgeway)を歩くようなものです。右に行き過ぎれば「律法主義の谷」に転がり落ちてしまいます。かといって左により過ぎれば「無律法主義の谷」に落ち込んでしまいます。そうならないために、尾根道を、足を踏み外さないように注意深く歩かねばなりません。

律法主義とは、与えられた規則を形式的に守ることを大切に考え、形を守れれば正しく、それが出来ない者は罪人だとする考え方です。もうひとつの無律法主義は、「イエス様を信じる人は律法の元にはいないのだ。神様は無条件に赦される方だから、安心して罪を犯そう」という考えです。自分が正しいと信じていた律法主義の人々から見ればクリスチャンは無律法主義に見えたわけです。しかし律法主義と無律法主義は両極端で、どちらに落ちても、結果は同じです。それは人を「罪の奴隷」の状態にしてしまうことです。クリスチャンの道とはそのどちらにも落ちないでしっかり尾根道の上を歩いてゆくことなのです

さて私たちは実際の生活の中でどのように歩んでゆけばいいのでしょうか?「罪の奴隷」なんて状態もいやだけど、神様からも自由でいたい」というのが、この国の多くの人々の言い分です。私が、神様を信じて生きるという決心をなかなか出来なかったひとつの理由も、自分の生活が窮屈になるのではないか、自由が少なくなるのではないか、という心配があったからです。多くの人々は漠然と「神様からも自由でいたい」と思っているようです。しかし神様から自由であるということは、実は「罪の奴隷」なのだということに今日の聖書は気付かせてくれます。

ある本でこんな話を読みました、著者がレストランにいた時のことです。小学校低学年くらいの男の子とまだ幼稚園に行っているような女の子が両親に連れられて入ってきて隣のテーブルについたのです。やがて注文をとりにウエイトレスがやってきました、女の子はメニューも見ずに「アイスクリーム」といったのですが、男の子の方はいつまでもメニューを見ながら迷っていたのです。「アイスクリームにすれば、チョコレートファッジは食べられないし、ショートケーキもいいなあ、でもアイスクリームにしようかな、でも」両親は彼より先に自分たちの注文を済ませましたが、彼はまだ考えていました。やがて母親はウエイトレスにいいました「以上で結構です」。男の子は身をもって学んだのです。「決断しなければ、何も手に入らない」「何かを手に入れようとすれば、何かをあきらめることになる」。

ある人にこう言われたことがあります。「クリスチャンって偉いですよね。毎週、毎週、日曜は教会に行くんでしょ?自分には絶対できないな、それだけでもクリスチャンにはなりたくないですね」その人は体を鍛えるのが大好きで、毎週少なくとも4回は仕事帰りにジムに通って2時間以上汗を流すのです。運動よりカウチポテトが好きな人だったら、そんな生活は絶対したくないでしょう。週に8時間、運動をすることは体にいいことです。私は決してクリスチャンはジムに行かずに6日間はカウチポテトで週に一度教会にくればよいとは思いません。しかしティップネスやセントラルスポーツクラブではあなたの肉体を鍛えることは出来ても、あなたの魂を健康に保つことは出来ないのです。

昔の私のように、クリスチャンになるということを、人生の道を狭くする、だから信仰など持たないほうが良いと誤解している人がたくさんいます。しかし人生一回きりです、その一回きりの人生を人は取捨選択をすることで前に進んでゆくのです。人生の選択を毎日のようにしながら生きているのです。そして何かを選ぶということは同時にそれ以外のものを捨てることでもあるのです。同時に二つの学校に入学することは出来ません。フルタイムの仕事を二つすることも、二人の人と結婚することも、それは確かに可能性を狭くすることです。しかしそれがいやなら、何も選ばないという選択をすることになります。そしてそれでは、何も得られないということを意味します。悪いものを食べたらお腹をこわします。だからといって何も食べなければ飢え死にしてしまいます。心を健やかに保ちたいなら、「悪いものにあたることを恐れて何も選ばないこと」ではなく、「注意深く良いものを選ぶこと」が必要なのです

2) 誰に捧げる?あなたの生涯(17-19)

しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。 あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです。かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい。(17-19)

仕えるという言葉は普段は使わない言葉ですね。特に神さまに仕えるなんていうと、何かすごく特別な修行をするとか、聖職者になるか、教会のお仕事をするのかなどのことを考えてしまいますが、神様に使えるということはもっと日常生活に即したことなのです。私たちは礼拝のときとミニチャーチのときだけクリスチャンなのではありません。24時間年中無休で私たちはクリスチャンです。生涯を神様に捧げるということは、生涯をキリストの体としての教会に捧げることです、それはキリストの体であるあなた自身が、行く所、行く所で、神様からいただいた愛を与えることです。

誰もが与えられている時間や能力・財産を使って何かをします、それらは限られた資源ですから優先順位を考えます。パウロは、その優先順位を決める基準が何かということを二つに分けて「罪に仕える奴隷」「神に仕える奴隷」と表現しているのです。

B 罪の奴隷のままでいるということは(20-21)

あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。 では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない。(20-21)

1) 今では恥ずかしいと思うような生活

私もパウロが言うとおりイエス様を知る前の自分の態度や行動のことを考えると、本当に恥ずかしくなります。「あの日に戻りたい」と歌った人がいましたが、私はイエス様を信じる前の数年間の自分には絶対戻りたくありません。自分勝手で、人の心を省みず、自分中心に世界が回っているかのような傲慢な人間だったくせに、外側は思いやりのあるようなふりをした偽善者でもありました。多くの人の心を傷つけても平気でした。

2) 罪の奴隷行き着くところ<死>

神様と共に歩まない人生は、結局のところ罪に支配された人生です。見た目はそれほど悲惨ではないかもしれません。クリスチャンより自由だと思えるかもしれません。しかし神様の導きを嫌い、そこから自由でありたいと願うことは、太平洋の真ん中でもっと自由に航海したいといってコンパスやGPSを捨ててしまうのと同じことです。きれいに晴れているときは、最高でしょう。しかし人生の航海はそんな時ばかりではありません。予想外の大嵐や海賊に十分な備えはありますか? そして、コンパスなしでは、航海は風まかせ、どこの港にもつけないままこの世の人生を終えることになるでしょう。そんなものが、あなたが手放したくない人生という航海の自由なのでしょうか?


C 義の奴隷となった私たちの得るもの

1) 聖なる生活の実(22)

あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。

私はイエス様を主と信じ従ってゆこうと決心する前の自分が恥ずかしいといいました。今はすっかり聖人になりましたとは全然いえる状態ではありません。でも少しずつイエス様に近づいているという確信はあります。自分ではいやになるほど歩みが遅いと思うこともしばしばですが、それでも少しずつ近づいていけるのは信仰というコンパスを得たからです。

聖なる生活というと、必ず勘違いする人がいます。一日に10章聖書を読むことが聖なる生活ではありません。週に一度断食することや、徹夜の祈りをすることが聖なる生活ではありません。それは無益なことではありませんが、律法主義者でもできることであり、そのこと自体が良い実をみのらせるわけではありません。聖なる生活とは、主の愛に生きることです。あなたが生かされている愛で、人を愛し生かすことです。それは一見、人と変わらない日常の生活を神様に周波数を合わせたGPSを頼りに歩むということです。


2) わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命(23)

罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。

聖書が言う永遠の命とは、もちろん肉体の不老不死ということではありません。肉体はやがて滅びます。しかし私たちの魂は肉体が滅びても滅びないのです。聖書は生と死という言葉を肉体の生死よりもっと根源的な意味で使っています。それは人間の本来にあり方として神様につながっているか、それとも造り主から背を向け離れているかという意味です。生きる、死ぬが問題ではありません。生きている時であろうと、その後であろうと、問題はあなたの魂がどこに、あるいは誰に属しているかということです。あなたの魂は造り主である神様につながっているならば時間を越えて、つまり永遠に生きるのです。聖書はあなたにシンプルな二者選択をもとめます。「サタンに操られる自分の欲望に従うのか?」「それともイエスキリストに従うのか?」ここには「そのどちらも選ばない」という選択肢はありません


メッセージのポイント

クリスチャンになるということを、人生の道を狭くすると誤解している人がたくさんいます。しかし人は信仰以外のことでも取捨選択をしなければ前には進めません。誰でも、「ある信仰を持つ」ということよりもっと幅を狭くする人生の選択を毎日のようにしながら生きているのです。何かをつかむということは同時にそれとは相容れないものを捨てることでもあるのです。何もつかんでいない自由が欲しいですか?それは幻想です。何かをつかもうとしなくても既に手の中にはいろんなものが収まっています。そしてそれこそが問題であることが往々にしてあるのです。 何か目的を定めることは窮屈なことでもありますが、その目的によって定まった方向性はあなたに安定をもたらします。聖書はあなたにシンプルな二者選択「サタンに操られる自分の欲望に従うのか?それともイエスキリストに従うのか?」を求めます。

話し合いのためのヒント

1) クリスチャンは自由ですか、不自由ですか?

2) 「義の奴隷」とはどのような意味ですか?