2005年4月24日メッセージ 

心の中の「黒い犬」 ローマの信徒への手紙7:7-25 シリーズ(15)

A.罪の正体を知る

1) 律法や掟を触媒(catalyst)として力を発揮する悪 (7-13)

では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。 ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。 わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき、罪が生き返って、わたしは死にました。そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました。 罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです。 こういうわけで、律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです。 それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。(7-13)

私たちの内には、人よりもより良いものを、より多く自分のものとしたいという気持ちがあります。そしてこの気持ちは、ブレーキをかけなければ人を殺してしまうまでにエスカレートしてしまうこともあります。もしあなたが南海の孤島に一人で暮らしていて、他の人の存在を知らなかったとしたら、自分の内側にあるこの気持ちは起こりません。比べる対象がないからです。けれども私たちは社会の中で生きています。アダムも神様に造られてほんの短い時間、エヴァが登場するまでは、孤島の一人暮らしだったわけです。しかしエヴァが登場して罪の歴史が始まるのです。エヴァは善悪を知る木の実を蛇に誘惑されて食べてしまいます。誤解しないで下さい。私は女性に、罪を持ち込んだ責任があるといっているのではありません。もし蛇がアダムを誘惑したなら、やはり同じことが起こっていたでしょう。エヴァがおいしそうに食べて、しかも自分より賢い者となって、アダムは自分だけ神様の言いつけを守る気はなくなってしまいました。それでも二人だけでいる場合には、互いにいとおしく思う夫婦でしたから、多少の喧嘩はあったでしょうが関係がおかしくなることはありませんでした。しかしもう次の世代の人間、二人の間に生まれた子カインは弟アベルに嫉妬して殺してしまいます。

神様が十戒を与えられたということは、神様の掟が初めて字に書かれた、誰にでも分かる形で示されたということです。しかし掟が与えられたことによって、人の欲望が無くなるわけではありません。むしろ十戒で「むさぼるな」と命じられることによって、むさぼることの喜びと、神様の戒めを守りたいという気持ちとの間に激しい葛藤が生まれます。私たちは「いけない」といわれると余計にそこから目を離せなくなってしまう厄介で不思議な性質を持っているのです。やがて良心は欲望に飲み込まれ、罪責感を軽くするために、魂は神様から遠ざかってゆく。このように罪は巧妙に人の心を支配してきました。

どれほど私たちの心が「いけない」ということに無力であるか、ひとつ実験をしてみましょう。これから皆さんにしてみる禁止は、全く難しいことではないし、それを破っても何の罪にも益にもならないことです。それでもこの禁止を守ることはとても難しいですよ。

皆さんの心の中に「黒い犬」が住み着いていることを御存知でしたか?そんなものはいないと思いますか?それではこれからあなたの心の中に「黒い犬」が住み着いていること証明してみたいと思います。それではこれから少しの時間、静かにしてみます。どんなことを思い浮かべても結構ですが、「黒い犬」のことだけは思い浮かべてはいけません。いいですか?「黒い犬」のことだけは思い浮かべないでくださいね。

思い浮かべるなといわれると余計に考えてしまいますね。私たちの心の欲望も、律法で禁止されることによって「罪」となり魂を蝕んでいきます

2) 罪は人をその内側からコントロールする (14-17)

罪は外側からあなたに影響を及ぼすのではありません、人をその内側からコントロールしています。14-17節を読みましょう。

わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。 わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。 もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。 そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。(14-17)

ここでパウロが自分のこととして告白しているように、罪に対する無力はすべての人にとって共通の問題です。こうしたほうが正しいということを行えずに,それをするべきではないということをしてしまい。後悔します。何度でも後悔します。住んでいるのが黒い犬くらいなら問題はありませんが、「罪」が住んでいるのでは、物事がよくならないのは当然です。心の中の罪は、あなたの言葉や行いとして表れ、あるものは実際に「法」を犯す、犯罪になってしまいます。それ以外のものは、人によって罪とされなくても、神様の目から見れば立派に?罪なのです。もう一度創世紀の時代まで遡ってみましょう。蛇はエヴァに食べるように強制したわけでも、命令したわけでもありません。エヴァは後で「蛇にそそのかされたので」と言い訳しましたが、それは正しい答えではありません。本当は自分が食べたいと思い、神様の命令と秤にかけた結果、(自分の意志で)食べました、というのが正しい答えです。アダムも同じです。「あなたが与えた女が」とエヴァのせいにし、ひいては神様あなたのせいですとでもいいたげな言い訳です。つまり二人とも自分たちの内側の罪の誘惑に従ったのです。すべての人が罪の下にあるという事実がここで明らかになりました。

B. 「内なる人」対 「内なる罪」

1) いるにはいても力のない 「内なる人」 (18-23)

18-23節を読みましょう。

わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。 わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。 もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。 それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。 「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。(18-23)

「内なる人」とは誰でしょうか?あなたの心には「罪が住み着いている」先ほどお話ししましたが、その罪がどんなに力を振るって、あなたの肉体を支配しても、あなたの心から決して追い出すことの出来ない「私を造ってくださった神様に従いたいという願い」があなたの「内なる人」です。「良心」といってもいいかもしれませんが、パウロがあえて「内側の人格」というような言い方をしたのは、「内なる人」こそが、再び神の前に立つことのできる本来の自分自身なのだということを伝えたかったからです。

しかし、この「内なる人」がなんとも頼りない、多くの人が痛切にそう感じておられるのではないでしょうか? 「クリスチャンのくせに」「クリスチャンらしくない」そんな風に自分のことを思ったことはありませんか。しかしそれでも神様は「あなたはクリスチャン失格!」とは決しておっしゃいません。むしろそれをささやくのは、あなたを神様から引き離したくてたまらないサタンの方です。イエス様は私たちが弱いことをよく御存知です。イエス様が私たちを受け入れていてくださるのは、罪を犯さない人ではなく、神の律法を喜んでいる人です。たとえ何回も過ちを犯してしまっても「それでも私は神様の律法を喜ぶ! 神様、罪深い私をどうぞ見放さないでください」と叫ぶ人です。

2) 「内なる人」は主イエスキリストによってのみ罪に打ち勝つことが出来る (24-25)

最後に24-25節を読みます。

わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。 わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。(24-25)

私はよく結婚式の説教で、「結婚はゴールインではありませんスタートです、とお話しします。クリスチャンも同じです。信仰を持ってスタートラインに立ったのです。そのときのあなたの「内なる人」はまだ小さくて弱くて頼りないものでした。今もそうですって?いえ、その今よりもっと小さく弱かったはずです。

パウロは、聖書の中で「内なる人」という表現を3回しか使っていません。ここの他には、コリントの信徒への第二の手紙(4:16)と、エフェソの信徒への手紙(3:16-17)で使っています。私たちの「内なる人」頼りなく、惨めな状態であっても、わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。と言うことが出来る根拠を、この二つの個所は教えてくれます。

だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。(コリントの信徒への第二の手紙4:16)

ここでわかることは、私たちが、気がついても、つかなくても、「内なる人」は日々新しくされているということです。もうひとつは、「新しくされる」ということです。誰が新しくするのですか?あなたではありません。神様がなさっているのです。エフェソではどのように書かれているでしょうか?

どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。(エフェソの信徒への手紙3:16-17)

ここでも神様が変えて下さっていることがわかります。しかもただリフレッシュされるだけではなく、聖霊の力によって強くされるのです。

そしてここには、なぜ神様がそうして下さるのか、という理由が明らかにされています。それは、私たちを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者とするためです。それは同時に、聖書が私たちに聖霊に満たされなさいと命じている理由でもあります。どうぞ皆さんも、聖霊に満されることを求めて下さい。けれども満された証拠は異言を語ることでも預言を語ることでも、まして聖霊に酔ったようにたおれることでもありません。そのようなことは今月世間をさわがせた、キリスト教会を名のる京都のカルト宗教にもできることです。聖霊に満されている本当の証は、その人が愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者となり豊かな実を実らせていることなのです。

神様の恵みは尽きることがありません。いつでもあなたに充分に注がれています。だから私たちの「内なる人」が頼りなく、惨めな状態であっても、わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。と言うことが出来るのです。

 それが私たちに求められるすべてです。神様はあなたの行いに期待しておられるのではなく、あなたの信仰に期待しておられます。ここで言う信仰とは何でしょうか?それは、神様があなたを日々作り変え、愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださっていることを確信することです。どんな状態に置かれていても、この神様の働きを信頼し、期待し、絶望しないことです。


メッセージのポイント

私たちの日々の歩みから平和と喜びを奪い去るのは、私達の内に働く「罪」です。この罪に対して対抗できるのは、「イエスキリストと共に生きる」ことだけです。クリスチャンとは、イエスキリストと共に生きることを決意し、イエスキリストとともに歩み始めた人のことです。この決意は同時に、罪を敵とする決意ですから、クリスチャンに対して「内なる罪」が日々戦いを挑んでいるということを忘れてはなりません。この地上での罪との戦いは勝利を約束されている戦いです。しかし勝利を約束されているといっても、罪という敵の前で「信仰」という武器を放棄してしまえばその人は再び罪のとりこになってしまいます

話し合いのヒント

1) 律法や掟が罪の働きを強めてしまうのはなぜですか?

2) 罪に対抗するあなたの武器は何ですか?