2005/5/22 メッセージ ローマの信徒への手紙9:1-33/シリーズ(19)
躓き、転んで、気が付いた
皆さんはユダヤ人の知り合いがいますか? わたしは、もう長いこと会っていないのですが、一人のユダヤ人クリスチャンの知り合いがいます。彼はクリスチャンになっただけではなく、積極的に同胞にイエス様を伝える働きをしていたので、ユダヤ教徒からは反発を買い、何度も危険な目にあいました。彼が主催する、エルサレムにある聖書研究所は爆破されたことさえありました。家族は安全のためアメリカに住んでいます。21世紀にもパウロのような生き方をしているユダヤ人クリスチャンがいるのです。聖書を読むとき、私達の信仰について考える時、神様とイスラエルとの関係を避けて通ることはできません。日本ではあまり出会う機会がありませんが、アメリカやヨーロッパに行けばユダヤ系の人々がたくさん住んでいて、ユダヤ教の教会、シナゴーグもよく見かけます。私たちはただ彼らを主に従うことを拒んだ民として否定するのではなく、神様がイスラエルの民を今も深く愛しておられることをよく知る必要があります。まわりの無知や偏見によって、苦しみを受け続けてきた彼らにも神様が良い計画を備えておられることをこの9章から11章にかけて学びましょう。
この学びは、ただ自分の属してはいない民族の神様との関係を学ぶことにはなりません。「それでは私は神様とどういう関係を作り上げたらよいのか?」というあなた自身の問いに対する答えともなるでしょう
A.同胞に対する悲しみと痛み (1-18)
1) パウロの場合
パウロの手紙の中には、イエス様を救い主として受け入れることの出来なかったユダヤ人、ユダヤ教徒を厳しく非難しているところが多くあります。けれどもそれは、パウロが彼らから受けた迫害に対する恨みや憎しみからのものではありませんでした。むしろ、彼の心に宿る、同胞に対するイエス様の愛が、時として厳しい言葉となって表されたのです。先ず5節までを読んでみましょう。
わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、 わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。 わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。 彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。 先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。(1-5)
聖書は、パウロの家族についてほとんどふれていません。たった一人、甥が登場(使徒23章)してくるだけです。パウロは、ユダヤ教徒として最高の宗教教育を受けてきた人ですから、彼の家庭は筋金入りのユダヤ教徒だったに違いありません。彼は、神様から与えられた仕事として、生涯を異邦人伝道にささげました。それだけに家族を始めとする同胞に対する働きかけはなかなか出来ませんでした。そのもどかしさは、痛みとも、悲しみとして常に彼の心の中にあったのです。
それでもパウロは働きの手を休めることは出来ませんでした。それは神様が彼に、「神様の恵みはもはや肉としてのユダヤ人にとどまらない。」ことを教えたからであり、彼が全世界に向かって、約束に従って神の子となる人々を求めて旅する使命を確信していたからです。6節から18節までを読んでゆきましょう。
ところで、神の言葉は決して効力を失ったわけではありません。イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならず、 また、アブラハムの子孫だからといって、皆がその子供ということにはならない。かえって、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる。」 すなわち、肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫と見なされるのです。 約束の言葉は、「来年の今ごろに、わたしは来る。そして、サラには男の子が生まれる」というものでした。 それだけではなく、リベカが、一人の人、つまりわたしたちの父イサクによって身ごもった場合にも、同じことが言えます。 その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、「兄は弟に仕えるであろう」とリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。 「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。 では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない。 神はモーセに、「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」と言っておられます。 従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。 聖書にはファラオについて、「わたしがあなたを立てたのは、あなたによってわたしの力を現し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」と書いてあります。 このように、神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。(5-18)
イスラエルは神様に選ばれた特別な民です。しかしそれは彼らが他の民族より優れていたからではありません。神様はただ一方的な恵みによってイスラエルをそのように扱われ、イスラエルを通して世界にその存在を表されたのです。けれども民はそれを特権のように受け取り、やがてそれは、神様の恵みから遠くかけ離れた律法主義、つまり人の意志や努力としての信仰に陥り、神様の憐れみを忘れ去った状態になってしまいました。そしてこの世界のすべてを支配する神様を、民族の神様としてしか受け取れなくなっていたのです。
ファラオとは、イスラエルのエジプトからの脱出を最後まで阻止しようとしたエジプト王です。そんなイスラエル民族にとっては宿敵のような者さえも、神様の計画の中に生かされました。
この個所を読んでゆくと、神様はその時その時、気まぐれに愛したり憎んだりするように受け取れるかもしれませんが、パウロは、「神様に主権があるのだ」ということを主張しているのです。人間が神様をコントロールするのではなく、神様が被造物である人間を主権を持ってコントロールするのです。ユダヤ人に限らず、全能の神様を自分たちの考えの及ぶ範囲で都合よく拝んでいるのは、人間の罪の性質から考えるならば、ごく自然な成り行きなのです。イエス様は、人類の歴史が始まって以来の「罪の歴史」を方向転換させるために来てくださいました。パウロは、このイエス様のスポークスマンです。
2) 私の場合
パウロは、福音が世界中に広がってゆくための最初の働きを神様に委ねられました。エルサレムからローマまで直線距離で2000キロを少し越えるくらいの距離です。それは東京からマニラまでも届かない距離です。しかしこの最初の一歩がなければ、福音はまだ世界中をカバーしてはいなかったかもしれません。その意味でパウロは偉大な働き人でしたが、彼が何をしたかということを単純に言うなら、「自分に起こった神様の恵みの出来事を伝え、自分と同じように神様に立ち返ることを勧めた」ということに他なりません。私たちの使命と本質的には変わりはないのです。
皆さんは誰かに「自分がどのようにしてイエス様を信じるになったのか」ということを話したことがありますか?私はこのような話を聞くことが大好きです。そして必ず感動します。退屈な改心の話はひとつもありません。もちろんそれは、面白おかしい話ではありません。どれも重みのあるエピソードです。そしてどのようなところから解放されたのかということを考える時、そこにはパウロと同様に、同胞、家族に対する悲しみや憐れみがあるのではないでしょうか?皆さんの中には、あなたがクリスチャンになったことを喜んでいない家族や友人がいるかもしれません。それでも私たちは伝えます。それは、私たちが、イエスキリストの福音のみが救いをもたらす唯一の道であることをパウロと同様に確信しているからです。今、聞いてくれない人に無理やり聞かせることはないのです。この人にこそ分かってもらいたいという人に何も出来ないことは、苦しく、悲しいことですが、どんなに親しくても心をこじ開けるようなことは誰にもできません。それは神様がして下さることです。ですから、私達は神様を信頼し、彼らのことはお任せして、今できること、今なすべきことをするのです。それは、あなたを通して神様の助けを必要としている人に手を差し伸べることです。
B.イエス様=躓きの石? (19-33)
1)神様の怒りと憐れみ (19-29)
皆さんは神様に対してどんな印象を持っていますか?怖い方ですか、優しい方ですか? 私たちは伝統的に神様を「父なる神」と呼び習わしてきました。中には実際の父親のイメージが悪いために、神様を素直に「お父さん」とは呼べないという人もいます。神は唯一の方で人と違って助け手を必要とされない方ですから実際は、男性でも女性でもありません。ある人は神様を「完全な男性」と表現しましたが、それだけでは十分ではありません「完全な女性」でもあるのです。
イエス様も神様を当時の人々が分かるように「お父さん」と神様を呼びましたが、それは人間の表現の限界に従ったからでした。
神様がどのような方かということを考える時に、私達が忘れてはいけない原則があります。それは、私達は決して神様のすべてを理解することはできないということです。これを忘れると、神様を人間の所までレヴェルダウンさせてしまうことになります。「神様に私の理解の及ぶ範囲で働いてください」ということは、神様に失礼なだけではなく、あなたの人生に神様が存分に働くことは出来なくてもいい、といっているようなものです。皆さんは子供の時に、いくつもの予防注射をした経験があると思います。あんな痛い思いを自分がしているのに、あなたのお父さんやお母さんは、あなたを助けるどころか、あなたをしっかり押さえつけていたはずです。子供の頃の私たちが、親の心をわからなかった以上に、人には神様のなさることは理解できないこともあるということです。
人が神様を造ったのではなく、神様が人をお造りになったということを、信じたくない人は大勢います。もしあなたが口先で神様を信じるといっても、神様が自分の理解の及ぶものであってほしいと願うなら、あなたは偶像を拝んでいることになります。 あなたは、本当の神様ではなく「あなたが心の中で絵に書いた偽の神様」を拝んでいるのです。それでは私たちは造り主である神様にどう接したらよいのでしょうか?19節から29節までを読んでみましょう。
ところで、あなたは言うでしょう。「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか」と。 人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。 焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。 神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、 それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。 神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。 ホセアの書にも、次のように述べられています。「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。 『あなたたちは、わたしの民ではない』/と言われたその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」 また、イザヤはイスラエルについて、叫んでいます。「たとえイスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われる。 主は地上において完全に、しかも速やかに、言われたことを行われる。」 それはまた、イザヤがあらかじめこう告げていたとおりです。「万軍の主がわたしたちに子孫を残されなかったら、わたしたちはソドムのようになり、ゴモラのようにされたであろう。」 (19-29)
旧約聖書の時代の人々は民族の歩みの中で、神様が、義(正しさ)ということに関して全く譲ることのない厳しい方であると感じていました、しかし一方で、預言者たちは、神様が憐れみの方であるということも繰り返し預言していたのです。そして、それがイエス様の十字架という出来事として、実際に起こったのです。神様の正義を求めるが故の怒りは、イエス様の十字架で憐れみに包み込まれました。私たちはどんなに自分で努力をしても神様の正しさの基準には到底とどかない存在ですが、神様の憐れみが十字架の赦しとして私たちに向けられたのです。
2)イスラエルの民の失敗に学ぶ (30-32)
では、どういうことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。 しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。 なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らは躓きの石につまずいたのです。(30-32)
今までアブラハムやモーセのような特別な人を除けば、誰も目にすることも、耳にすることもできなかった神様の、世界への登場は誰にとっても信じ難い事でした。しかも、一人の人として、その母から生まれたというのですから、すぐに信じられない人がほとんどだったこともよく分かります。
しかもイエス様として姿を表された神様のあり方や言葉は、彼らの期待しているものとはずいぶん異なっていました。イエス様は人々が驚くような癒しや奇蹟も沢山行いましたが、人をひきつけるためではなく、ただ憐れみによってなさったのであって、人々が期待していたように権力をつかむための道具のようには用いられませんでした。ユダヤという小さな社会に革命を起こすためではなく、すべての人の心に革命を起こすことがイエス様の来られた目的でした。
多くのユダヤの人々は、自分の行いによって神様に喜ばれるという考えから抜け出すことが出来ずに、イエス様を通して与えられる恵みを受け取ることが出来なかったのです。
行いによって正しく生きる、〜をする人だから正しい人、〜をしない人だから正しい人という判断は一見合理的に見えますが、この判断には大きな問題があります。人の心の中は神様以外には見えないからです。誰だって外側を見栄えよくしたいと思うでしょう。しかし神様はあなたの心を見られる方です。
イエス様は世界に来て、命を賭けて教えてくださいました。行いによってではなく、神様に対する信仰によって神様に喜ばれるということをです。この信仰とは目に見えるところで、どんなことが起ころうと、神様を信じて従って行くということを意味しています。
3)イエス様なら失望を与えない (33)
「見よ、わたしはシオンに、躓きの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない」と書いてあるとおりです。(33)
イエス様は人々の前に躓きの石として出現します。こんな石が転がっているから、躓いて転んでしまうのです。あなたが日本のような国のクリスチャンホームに育ったなら「なんで自分は、こんなマイノリティーの家に生まれたんだろう。何でほかの家の子のように、日曜日には教会以外にどこにも連れて行ってもらえないんだろう。自分の両親は友達の親とは違うんだろう。」こんな疑問や親に対する反発という形で躓きの石が置かれます。しかしこの躓きを通して、家の信仰から、自分の信仰に変わるのです。しかし中には躓きっぱなしで起き上がらない人もいます。
クリスチャンホームに育たなくたって、皆さんは躓きの石に躓いたはずです。あなたの人生のある一ページに誰かの紹介で、突然イエス様が登場しました。イエス様は2000年前にこの世に来てくださり、私の罪のために十字架にかかってくださった?始めはみんな思ったのです「そんなこと信じられない」けれどもあなたは、躓いて、転んで、考えました。今までの人生のこと、今の自分のこと、将来のこと。そしてイエス様に賭けて立ち上がり歩き始めました。
神様なしの人生は、どこに向かっているのかも分からず、大急ぎで地獄に突っ走っているようなものです。躓きの石のおかげで、転ぶという痛い目に合いますが、そこで転んで考えるのです。もし自分がそのまま突き進んでいたら、もっと大変なことになったと気が付くのです。ひとたびイエス様を信じると、躓きの石はあなたの人生の土台となるのです。パウロだって私たちと全く同じようにイエス様に躓いたおかげで、熱心のあまりにクリスチャンを殺すことさえいとわない者から、神様のための働き手として2000年たっても、多くの人に感謝をもって憶えられている人となりました。
メッセージのポイント
イスラエルの民は神様の救いの計画の中でユニークな役割を担った人々です。イエス様も、パウロも、この民に属するものとして生まれました。神様はご自身を表すのに最も相応しい所として、イスラエルを選ばれたのです。一見イスラエルに対する神様の計画は、うまく行かなかったかのようです。しかしそれは計画の第一段階に過ぎませんでした。神様の救いの計画は彼らが考えているよりずっと大きなもの「全世界の救い」だったのです。その計画には2000年前にイエス様の前に心を頑なにしたイスラエルの民ももちろん入っているのです。イスラエル民族に限らず、世界中のどの民にとっても、「神様が人として世を生き。罪の身代わりとして苦しまれる」というコンセプトは理解しがたい躓きの石です。あなたはそれを自分の理解力ではなく、神様の恵みによって信じることが出来ました。そして今度はあなたが、あなたの愛する人々にこの恵みを伝えてゆきましょう。
話し合いのために
1)あなたは自分の国の人々の心の状態をどのように感じていますか?
2)なぜイエス様は「躓きの石」なのですか?