2005/5/29 メッセージ ローマの信徒への手紙10:1-13/シリーズ(20)

主の名を呼び求めて救われよう

今日のメッセージは「あなたも救われよう」ですが、救うのはあなたがすることではありませんから、「救われよう」というのは変な言い方ですね。でもあなたが何かから救われたいなら、助けてくれと叫び手を伸ばします。この救われたいという意志を表すことが、救ってくれる人に対する目印になるのです。「救い」は誰に必要なのでしょうか?

中には「自分は全く何かから救われる必要なんてない」と思っている人もいます。自分が何から救い出されなければならないのか分からないのは、幸せなようで、最も不幸せな状態です。

また、具体的にここから抜け出したいと切に願っていることがある人もいるでしょう。その人の問題を、そのおおもとまでたどってゆくなら、そこにあらゆる問題からの根本的な救いを見出すことが出来ます。

聖書はその、誰にとっても必要な根本的な救いとは「罪からの救い」だと教えてくれています。今朝は罪からの救いとは何か?どうしたら救ってもらえるのか、ということについてお話しします。先ず1-4節までを読んでゆきましょう

A. 掟ではたどり着けない「正しい」生き方

1) 熱心は解決にはならず、むしろ人を誤った道に導く

兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。 わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。 キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。(1-4)

「なんで、こんなに一生懸命やっているのに報われないのだろう」と思ったことがあなたにもあると思います。誠意を尽くしたのに報われなかったら、それからは自分が傷つかないように適当に付き合おうと思いたくなります。また「正しい人」が不当な目に合っているのを見ていると、「神様、間違っていませんか?」と思ってしまうこともあります。このような問題の根本は「神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかった」という所にあります。ただ一生懸命やれば報われる、熱心なら解決することなんて本当はないのです。もし間違っていることを熱心に行えば、問題は解決するどころかもっと悪い方に行ってしまいます。教会の日本語の聖書には「キリストは律法の目標」と書かれています。皆さんの聖書には「律法の終わり」と書かれているかもしれません。原語は「目標、完成、終わり」の意味を持つ言葉です。イエス様は、単に律法を捨てて、私がその代わりに立ちます。といわれるのではなく。イエスキリストという視点を通して律法が完全なものとなる。ことを言われたのです。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。(マタイ5:17)とあるとおりです。イエス様という基準なしに、誰も正しく歩むことは出来ません。どんなに精密な地図を持っていたとしてもコンパスがあって方位と縮尺がかかれていなければ、何の役にも立ちません。誰もが人生というオリエンテーリングをしています。それぞれの地図には、その人の夢や希望が克明に記されているかもしれません。一見完璧な地図を持っている人もいます。でも残念なことに、多くの人はコンパスを持っていなかったり、縮尺や方位が不正確な地図を頼りに歩いているのです。中には、はたから見ていて、「そんないんちきな宝の地図のようなものを信じて歩いていて、いいんですか?」と聞きたくなるような、危うい歩みをしている人もいます。

2) 律法の義という行き止まり

モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。 また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。(5-7)

5節は旧約聖書レビ記18章の引用です。これが、イエス様が来られるまでの正しさの原理だったのです。けれども律法を完全に守れる人はどこにもいません。律法に問題があったのではありません。問題のない、完全な律法に対して、人間の方がそれにあまりにもかけ離れていたことが問題だったのです。律法の義はそのままでは実現不可能の行き止まりの道でした。

イエスキリストはこれに変えて、私達に守ることのできる新しい原理を与えてくださいました。それが「信仰によって正しい者とされる」ということです。神様に対する絶対の信頼で生きるということです。

B. それでは「正しく」生きるための光はどこにあるのか?

1) すぐそばにある解決の糸口

それなのに人は信頼どころか、神様を無視して、自分が自分にとっての最高責任者だと思い込みたいのです。私は自分の生きたいように生きたい、したいようにしたい、と熱望します。

資格や能力のない人が社長になればその会社は発展することはできません。有能な船長や機長なしに安全な旅は出来ないのです。あなたは自分でハンドルを握る覚悟がありますか? それとも信頼できるあなたの人生のパイロットを雇いますか?どうやって見つけますか?8節を読みましょう

では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。(8)

聖書が御言葉、神様の言葉という時、それは「聖書に記されている言葉」という表面的な意味だけではなく、イエス様ご自身のことを指しています。言葉の全体の意味は読む字や聞く言葉だけにとどまりません。ボディーランゲージも、意味を成さない叫びも言葉のうちです。言葉とはメッセージを交換するということなのです。神様は、御子イエス様として人とコミュニケートすることを決意され、この地に送ってくださったのです。だから聖書はイエス様を「神様の言葉」と表現するのです。その一番分かりやすい例はヨハネによる福音書の第1章にあります。あなたが既にイエス様を主と信じ、クリスチャンとして歩んでいるなら、主はあなたの心に住み、あなたの言葉によって、人はすぐそばに救い主がおられることを知るのです。

あなたはなぜ今ここにいてメッセージを聞いていてくださるのでしょうか? 今この「神様の言葉」を共に聞くところに座っているのでしょうか? それは神様とのコミュニケーションを持つためです。神様とつながっている。これが正しく生きる大切な条件です。聴こうと思えば誰もが聴くことが出来る、そのために教会はこの地上に置かれているのです。

2) 信仰を言い表し、主を信頼して生きよう。

聴こうと思えば誰でも聴ける、裏返して言うなら、聴きたくなければ聴かずに済ませられるということです。9,10節にはどう書いてありますか?

口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。 実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。(9-10)

先月の二人に続いて、今月もイエス様を救い主と信じ、口で告白して、新しい人生を始める決心をした方がこの教会にもいます。誰も人が強制することはできませんが、私は、人生に失望したり、疑問を持ったり、疲れた人にイエス様のもとに帰ることを熱心に勧めたいのです。なぜなら11節にあるように

聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。(11)

とあるからです。主を信じる者は誰も失望することはない。これは信頼できる言葉でしょうか? 少なくとも私にとっては、それは真実だったと証言できます。「アンディさんあなたにはそうかもしれないけれど、神様は私にもそうして下さるのでしょうか?」「あなたは信仰的に強いからそういえるのではありませんか?」そんな風に言われることがありますが、もしあなたがそう思うならば、妻や子供たちにそっと聞いてみてください。私の弱点をひとつくらいは教えてくれると思います。私が牧師としてここに立っているのはただ憐れみによるものでしかありません

(ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。1コリント1:17)

11節に「誰も」とありました。あなたも入っています。例外はないのです。

私はこの教会の牧師とされていることを大変うれしく感じています。あらゆる大陸からここに来てある期間メンバーになって共に歩んでくれた人々がいます。ユアチャーチでは神様に人種の区別がないということを実感できます。最後に12-13節を読んでみましょう。

ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。(12-13)

神様は人種や性別、能力や職業、地位差別なさる方ではありません。人間はしてしまいます。クリスチャン教会も例外ではありません。気をつけなければ、いつの間にかそうなってしまう性質が残念ながらあるのです。心して、神様に喜ばれる教会でありたいと思います。

さて今日のメッセージを聞いて誰に信頼をおけばいいのか心定まった人もいるのではないでしょうか?心定まったらどうするのか?できることはただひとつ「主の名を呼び求める」ことです。主イエス様、私はここにいます。主イエス様私を助け出してください。主イエス様、私に立ち上がる力を、歩き出す力を。主イエス様、愛する者とさせてください。

恐れや不安、怒りや不満を口にする前に、主の名を呼び求めましょう。あなたは神様に愛されている人ですから、人を愛し、人からも愛される人になれるのです。

メッセージのポイント

異邦人伝道に生涯をかけたパウロですが、ユダヤ人同胞がイエス・キリストを主と信じることによって、神様に立ち返ることを心から願い祈ることを片時も忘れることはありませんでした。彼は同胞から迫害され愛想を尽かして異邦人伝道に向かったのではありません。彼は「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」ことをすべての人に伝えたかったのです。パウロが、その困難と危険の連続の生涯を失望することなく、目標に向かって歩み続けることが出来たのは、主を信頼していたからです。そしてその目標とは、私たちが唯一生涯を賭けて追求するのにふさわしい生き方「愛する」ことの実践です。

話し合いのヒント

1) ユダヤ教とキリスト教の類似点と相違点は?

2) なぜ、「主を信じる者は、だれも失望することがない」のでしょう?