2005/6/12 メッセージ  ローマの信徒への手紙11章 シリーズ(22)

あなたが花を咲かせるための「台木(だいぎ)」

私たちの家は(日本ではマンション(大邸宅の意味)と称されるので英語圏の人にとってはとてもおかしいと感じられますが)小さなアパートメントなので庭がありません。細長いベランダで鉢植えの植物を育てています。大きな庭だったら面倒くさくなりそうなので、私にはちょうどいいかもしれません。狭いベランダでさえ、きれいな花を咲かせるためには、結構手間がかかります。私はこの3uでほんの少し神様の気持ちが分かるような気がします。毎日水をやり、病気や害虫に気を配らなければベランダの植物は枯れてしまいます。バラが5種類あるのですが、一番早く咲き出すものは咲き終えてしまいましたが、つぼみがふくらみつつあるのもあります。私たち一人一人に個性があり、神様がそれを喜んでくださっているように、五つのバラの香りはみんな違うのです。バラは苗木で買ってきたものですが、根元をよく見るとみな台木に接木されていることが分かります。売られているバラの苗木は大抵、丈夫な太いいばら(thorn)に接がれているのです。このことは、神様とイスラエルと私たちの関係を理解する良い助けになります。先ず始めに1-4節を読みましょう。

A. イスラエルの残りの者

1)背教の歴史にあっても偶像に屈しない者もいました (1-4)

では、尋ねよう。神は御自分の民を退けられたのであろうか。決してそうではない。わたしもイスラエル人で、アブラハムの子孫であり、ベニヤミン族の者です。 神は、前もって知っておられた御自分の民を退けたりなさいませんでした。それとも、エリヤについて聖書に何と書いてあるか、あなたがたは知らないのですか。彼は、イスラエルを神にこう訴えています。 「主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。そして、わたしだけが残りましたが、彼らはわたしの命をねらっています。」 しかし、神は彼に何と告げているか。「わたしは、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた」と告げておられます。(1-4)

パウロは言います。私も純粋なユダヤ人の一人です。過去のイスラエルの偶像礼拝に汚された歴史の中でも常に、ただ真の神様だけを見上げ、そのために迫害や殉教さえもいとわない人々がいたのです。ですから、十字架の出来事に対する当時の社会の態度からイスラエル全体を「罪深い民」と裁くことは出来ないのです。

2) 行いに頼るなら恵みはありません (5-10)

預言者エリヤの時代「残された者」は恵みによって選ばれた者です。同じようにパウロの時代にも、現代にも、恵みによって選ばれたものがイスラエル民族の中にいるのです。5-10節を読みましょう。

同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています。 もしそれが恵みによるとすれば、行いにはよりません。もしそうでなければ、恵みはもはや恵みではなくなります。 では、どうなのか。イスラエルは求めているものを得ないで、選ばれた者がそれを得たのです。他の者はかたくなにされたのです。 「神は、彼らに鈍い心、見えない目、聞こえない耳を与えられた、今日に至るまで」と書いてあるとおりです。 ダビデもまた言っています。「彼らの食卓は、自分たちの罠となり、網となるように。つまずきとなり、罰となるように。 彼らの目はくらんで見えなくなるように。彼らの背をいつも曲げておいてください。」(5-10)

なぜ、神様はイスラエルの民を選ばれたのか?それを問う事はあまり意味がありません。家具つくりの職人に造られた椅子とテーブルはどちらが先に作られたかだとか、どちらが優れているか議論したりはしません。ユダヤ人であれ異邦人であれ人は誰でも、ただ神様の恵みによってある時代のある国に置かれたのです。人生の価値は国籍や生まれた時代によって決まるのではありません。また能力や行いによって決まるのでもありません。なぜならそれらすべてのものは神様の恵みによって与えられているからです。あなたは、あなたが神様の恵みによって生かされているということを知ることによって、あなたの人生が価値あるものだと知ることが出来るのです。恵みによって選ばれているのですから、私達はユダヤ人であれ、他の宗教を信じている人であれ、無神論者に対してでさえ軽蔑することも誇ることは出来ません、私たちが出来ることは誰に対しても「愛する」ことだけなのです。11,12節を読んでみましょう。

B. 異邦人の救い

1) イスラエルに与えられている救いの希望 (11-12)

では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。 彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。(11-12)

物事を正しく判断するためには出来るだけ広い視野を持つことが必要です。しかし私たちの視野は狭くなりがちです。視野を広げるとは、実は「愛する」ことに他なりません。それはどちらも、自分の考えに固執せずに相手の身になって考えることだからです。個人の関係も国際関係も同じです。ところが、このことを正反対に考えている人々がいます。「その人を愛するということはほかの人はどうなってもいい」「国を愛するということは他の国や国民を憎むことだ」しかしそれはイエス様が下さった本当の愛ではありません。それはいくら愛だと言い張っても、愛と呼ぶ価値のないものです。交通や、通信の発達で世界はずいぶん狭くなりました。どの国も自国の利益だけを追求することは許されない時代となりました。それなのにかつてのイスラエルが陥った誤った選民意識は、今でもはびこっています。自分の民族が最も優れていて世界を支配する権利があるという考えです。どの国も例外ではありません。この国もかつて自らを「神国日本」と称し、その絶対性を主張しアジア各国を侵略しました。そして今でもそのような考え方を変えていない人々が政治的指導者の中にもいるのです。私の国だけは違うといえる人は一人もいません。人間も、人間が作る国も間違いを犯すのです。そのことを知った上で赦し合い、認め合い、与え合う関係を、神様の助けを借りながらたてあげること、それが愛すること、愛し続けることです。神様の計画は今進行中です。民族としてのイスラエルにも救いの希望があるということです。イスラエルを愛することは、私達にとって当然のことです。しかしそれはイスラエルの側に立ってパレスチナを敵にすることではありません。神様はパレスチナ人を愛することも求めておられるのですから。そして神様の救いの計画が全人類に及ぶのであるなら、そこにはあなたの愛する人々が含まれていることを忘れてはいけません。

2) 異邦人にも与えられた救いの希望 (13-24)

さてそれではいよいよ神様とイスラエルと私たちとの関係について考えてみましょう(13-24節です)

では、あなたがた異邦人に言います。わたしは異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。 何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです。 もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう。 麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり、根が聖なるものであれば、枝もそうです。 しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、 折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。 すると、あなたは、「枝が折り取られたのは、わたしが接ぎ木されるためだった」と言うでしょう。 そのとおりです。ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい。 神は、自然に生えた枝を容赦されなかったとすれば、恐らくあなたをも容赦されないでしょう。 だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう。 彼らも、不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう。神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです。 もしあなたが、もともと野生であるオリーブの木から切り取られ、元の性質に反して、栽培されているオリーブの木に接ぎ木されたとすれば、まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう。(13-24)

バラの苗が台木に接木されているのは、台木の野茨が丈夫で根を張りやすい性質を持っているからです。新しく作られた品種はきれいな花を咲かせますが、デリケートで土にしっかりと根を下ろし養分を取り込む力が弱いのです。人間も同じです。健康な台木に接がれなければ良い実を実らせること、きれいな花を咲かせることはできません。では私たちにはどのような台木が必要なのでしょうか?このテキストによれば、それはイスラエルです。といってもイスラエル民族という意味ではありません。イスラエル民族は、人が神様とのよい関係を築くモデルとして神様が選ばれた民です。優れた指導者だった、アブラハム、モーセ、預言者たちは神様という土壌にしっかりと根を伸ばし太い幹でしたが、そこから伸びた枝、イスラエルは腐ってしまったので折り取られたわけです。それではアブラハム、モーセ、預言者たちにつながるということでしょうか? いいえ、彼らは優れた人々で神様を愛する人々でしたが完全ではありませんでした。イエス様は、今までにはいなかった完全なイスラエルとして世界に来てくださった方です。私たちはイエス様に接がれることによって、初めてきれいな花を咲かせることが出来ます。

イエス様に接がれるということは、イエス様のからだの一部になるということです。つまりそれは教会の一員となるということを意味しています。教会が単なる社交クラブではない理由はここにあります。単に人との付き合いを求めて教会に来ても楽しいことはもちろんです。でもそれはディズニーランドに行ってもミッキーと握手しなかったみたいなものです。キリストの体としての教会が、現代に生きる私たちにとって、神様からの心の栄養をいただくことのできる唯一の台木なのです。私たちが教会につながっているというとき、それはこのユアチャーチのことだけをいっているのではありません。世界にはたった一つの教会しかありません。かしらであるイエス様はお1人だからです。ユアチャーチは、このたった一つの幹から出ているひとつの枝なのです。ですから正確に言うと私たちは、世界でたった一つの幹から出ているユアチャーチという枝に接がれているということです。そして同時に私たちは世界中に枝を広げる「ひとつの教会」につながっているということでもあるのです。

バラの木の健康を保ち美しい花を咲かせるために、水や栄養の次に大切なことは健康管理です。デリケートな植物なので、害虫や病気によって害を受けることが多いのです。そこで3uの「主」である私は虫を取り、農薬を散布します。それでも発病してしまったら速やかにその枝を切り取らなければなりません。ほっておけば木全体をダメにしてしまうからです。せっかく育ててきた枝を、病気になってしまったとはいえ、切らなければならないときとても残念な気持ちになります。イスラエルに対する神様の愛と憐れみがちょっぴり分かるような気がします。さてユアチャーチも油断していてはいけません。良い実を実らせず反対に、教会全体に、あるいは社会に悪い影響を与えるようになるなら、神様はユアチャーチという枝を、憐れみを持って、しかし断固として切り取らなければなりません。皆さんもユアチャーチがあらゆる面で健康を保つことが出来るよう祈っていてください。魂の収穫を得ることも大切なことですが、それ以上に教会の健康が保たれるように祈ってください。そもそも教会が健康でなければ収穫を得ることは出来ないのですから。

C. 私たちにとってイスラエルの再興は何を意味するのか?

最後に神様のイスラエルに対する恵みの計画から私たちが何を知ることができるかということを二つお話しします。

1) 取り消されることのない‘神様の賜物と招き’を知るために (25-29)

第一のことは29節にある「‘神様の賜物と招き’は取り消されることのない」ということです

兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、 こうして全イスラエルが救われるということです。次のように書いてあるとおりです。「救う方がシオンから来て、ヤコブから不信心を遠ざける。 これこそ、わたしが、彼らの罪を取り除くときに、彼らと結ぶわたしの契約である。」 福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。 神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。(25-29)

神様は契約を破る方ではありません。イスラエル人は今でも招かれています。福音は全世界を覆っています。まだ完成はしていませんが、教会はすべての言語で聖書が読めることを目指して、翻訳が続いています。この「異邦人のすべてが救いに達するまで」という言葉の解釈は、意見が分かれるところです。はっきりしていることは、異法人の後にはなるけれど必ず救われるという約束がなされているということです。イスラエルに与えられている「賜物と招き」は、私たちが与えられている「賜物と招き」とは異なります。しかし神様が契約を破らないのはイスラエルに対してだけではありません。あなたに対して与えられる賜物も招きも例外ではないのです。こんなにダメな私だから神様の恵みは取り消されるかもしれないとは、決して考えてはいけないのです。サタンは律法主義者の口を通して、「あなたは神様の恵みと賜物にふさわしくない」とあなたを裁くかもしれません。けれども神様はあなたが自分から背を向けない限り決してあなたを見放すことはありません。

2) すべてのものが「神から出て、神によって保たれ、神に向かっている」ことを知るために (30-36)

第二のことは36節の、すべてのものが「神から出て、神によって保たれ、神に向かっている」ということです。33-36節を読みます

あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています。 それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。 神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。 ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。 「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。 だれがまず主に与えて、/その報いを受けるであろうか。」 すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。(30-36)

神様はすべての人をあわれんでくださる方です。例外はありません。人間のほうが意地悪で「あの人とあの人と、それからあの人は憐れまなくてもいいです」と神様に注文をつけるのですが、神様はそんな注文には耳を貸されません。神様はすべてを造られ、すべてを治める全能のお方です。「そのように憐れみ深い神様を信頼しなさい」というのが、ここでのパウロの勧めです。ここにあなたが人生で得られる最高の宝が隠されています。あなたの行く道には、多くの恐れ、苦しみ、怒り、絶望が罠のように、あなたを待ち構えています。そのような道をたどって誰もが宝探しをしています。あなたは誰をガイドとして進んでゆくのでしょうか?誰が本当に当てになるのでしょうか?主を畏れることは、罠から免れることだけを意味するのではなく、最高の宝を手に入れることを意味しています。

主はあなたの時を堅く支えられる。知恵と知識は救いを豊かに与える。主を畏れることは宝である。(イザヤ33:6)

主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。(箴言1:7)

メッセージのポイント

ユダヤ民族やイスラエルという国に対する無知や偏見が、彼らに対する不信や軽蔑を生み出してきました。このことは正されなければなりません。ごく少数の預言者を除き、彼らのうちのほとんどの人は意識することはありませんでしたが、彼らの存在と歴史は、世界を救いへと導くための重要なプロセスだったのです。地球は様々な意味で狭くなりつつあります。国境には昔のような意味を持ってはいません。人々は、自分の欲望を充足するための自分好みのグローバル化を企て、それらがあらゆる所で衝突しています。私たちが期待し、そのために働くのは、特定の国や地域、勢力の利益のためのグローバル化ではなく、神様によるグローバル化、「神の国の到来」です。

話し合いのヒント

1) 私たちにとって、神様がイスラエルを憐れまれることにはどんな意味があるのでしょうか?

2) 今日まで4回、神様のイスラエルに対する計画を中心にメッセージを聞いてきましたが、この一ヶ月を通し てイスラエルについての認識はどう変わりましたか?