2005/6/19 メッセージ  ローマの信徒への手紙12章1-2節 シリーズ(23)

神様に仕えたい?それでは礼拝から始めましょう!
(礼拝:クリスチャンの最優先事項)

シリーズでお話ししている「ローマの信徒への手紙」ですが、いよいよ終盤にさしかかります。先週まで「人が救われるとはどういうことか」「救いにおける、神様とユダヤ人と私たち」といったキリスト教信仰の根本的な教えについてお話ししてきましたので、ちょっと抽象的で難しいところもあったかもしれません。ここからは「キリスト者の倫理」が説かれています。もっと難しそう? いいえ、それは普通の言い方をすれば「私たちの生活がキリストにあってどう新しくされていくのか」という具体的なことなのです。私たちの歩みにとって大切なことが具体的に語られているので、もっと身近に感じていただけると思います。今日のテキストは、この「私たちの新しい生き方」の土台となる事柄について書かれています。

キリストによって新しくされた人の生活を表現するのにふさわしい言葉は「仕える生活」そしてそれはそのまま「愛する生活」と言い換えることも出来ます。私たちは誰に仕え誰を愛するのでしょうか?それは第一に神様であり、そして人です。今日のテキストはこの生活を成功させるために、私達が知っておかなければならない「仕える生活」は礼拝なくしてありえないということを教えてくれています

1)神様が求めておられる礼拝とは?(1)

こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。

礼拝は守るものですか?楽しむものですか?出席するものですか?礼拝をささげるという言い方もあります。心を込めて礼拝することを神様が喜んで受け入れてくださるので、ささげるわけですが、ここでパウロはとても重要なことを教えています。礼拝の本質は、自分自身を神様にささげることだというのです。私たちのちょっとクールな歌を、気の利いた祈りの言葉をささげるのではないのです。礼拝のたびごとに「私はここにいます。私はあなたのものです。私を用いてください。」という心からの願いが、歌になり、祈りになり、献げものになって神様に届くこと、それが礼拝の真の姿なのです。しかし、私たちはここに書かれている「神に喜ばれる聖なる生けるいけにえ」といえるようなベストコンディションでいつも臨めるわけではありません。神様を悲しませ、罪深く、弱々しい状態のひとは礼拝をささげる資格がないのでしょうか?決してそのようなことはありません。神様は私たちの「心は燃えていても肉体は弱い」(マタイ26:41)ことをよく御存知です。むしろありのままの自分を見て「神様私を憐れんでください」と言う人を受け入れてくださるのです。(ルカ18:9-14) ですからここで言われている、喜ばれる、聖なる、生きている、という言葉を表面的に理解しないでください。神様は、ただあなたの心の思いが、素直にご自身に向けられていることを求めておられるのです。

もちろん、神様は私達がずっと弱いまま、聖くないままでいなさいと言っておられるのではありません。神様があなたを変えてくださるのです。この順番を間違えないで下さい。あなたが自分を聖く正しく強くして神様の前に出るのではありません。そうだとしたら誰にも礼拝をささげる資格はないでしょう。そうではなく、あなたが礼拝をささげ続けることを通して神様が「変えてくださる」のです。2節を読んでみましょう

2)礼拝を通して変えられる(2)

あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。

ここに「神様が変えてくださる」とあります。そしてまた、ここには何が私たちの弱さ、醜さの原因なのかが触れられています。それは「この世に倣う生き方」です。それでは、世に倣うというとはどういうことなのかを考えてみましょう。この世の原理は、「自分が中心」と言う考え方です。Me-ism と言う言葉を聞いたことがありますか?Love me. Give me. Look at me. 「最も大切なことは、自分の願いをかなえること」。世界はこの思考に支配されています。しかし誰もがあからさまにそう思っているわけではありません。それはとても巧妙に、ちょっとみたところMe-ism には見えないような形で私たちに影響を与えています。たとえば、ある人は、Me-ism はいけない、人は国に献身しなければいけない、国のために命を捨てられなければいけない、と主張しています。また別の人は、自分の思い通りに子供を育てるのではない(ここまではいいのですが)、子供の思いをかなえてやらなければ、と考えます。どちらも一見Me-ismを否定した考えのように思えます。けれどもこれらの考え方はMe-ismの変形に過ぎません。自分のMe-ismをあきらめて誰かのMe-ismの実現に手を貸すことに過ぎないのです。神様は個人中心主義も国家中心主義も子供中心主義も賛成なさいません。それらは本当に、その人のためにも、国家のためにも、子供のためにもならないからです。自分のために生きるというなら、あなた自身があなたの偶像になってしまいます。国に自分をささげるなら国はあなたの偶像です。子供にささげるなら子供があなたの偶像になります。

神様が求めておられるのは「神様中心」ということです。こう言うと神様を信じない人々は「神様だってMe-ism じゃないか」と言い返すでしょう。しかし神様は世界を創造したお方です。初めからすべては神様に属するものなのです。神様だけが偶像ではないのです。神様はご自身に属するものを返して下さい、とおっしゃっているのであって、あなたに属するものが欲しいと言われているのではないのです。

ですから、変えられるということは新しくされる、ということでもありますが、本来の姿に立ち返るということでもあるのです。

イエス様は「私に従いなさい」といわれました。皆さんはこの呼びかけに応えてクリスチャンになりました。イエス様はあなたにちょっとそこまで気楽なお散歩に誘い出して下さったのでしょうか?ショッピングモールに行ってあなたの欲しい物を買ってあげるから私に従ってきなさいとおっしゃったのでしょうか?いいえ、イエス様はこういわれました「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。(ルカ9:23)」 厳しいですね、あなたはもはや自分のためにでも誰かのためにでもなくただ神様に従って自分のなすべきことを行いなさいといわれているのです。神様は、礼拝することを第一にするあなたをそのように歩む人へと変えてくださるのです。

一節で使われている「礼拝するという」という意味のギリシャ語は、仕える、奉仕するという意味も持つ言葉です。日本語の「奉仕する」という言葉は何か具体的な仕事を自発的にする(でも心の中は全然自発的ではない)という意味が強いので、私は教会の中では私たちのあり方を表現する時には「仕える」、具体的な仕事で仕えることは単に「働く」と言うことにしています。掃除をすること、アナウンスをすること、ワーシップを導くこと、メッセージをすること、海外に伝道に行くこと。それらは大切なことですが、礼拝することがその中心になければむなしいのです。

このことをイメージするのに最も相応しいテキストはルカによる福音書の10章38-42節です。イエス様のために働きたいのならイエス様があなたに何を求めておられるのか知らなければ、見当はずれのことをしてしまうかもしれません。マルタはイエス様をもてなそうと一生懸命でした、一方マリアはイエス様の言葉を一言も聞きもらさないようにイエス様の足元に座り込んでいました。普通に考えるならマルタの憤慨ももっともでしょう。けれどもイエス様はマリアではなく、イエス様のために甲斐甲斐しく働いているマルタを諌められました。誰でもイエス様のために働きたいと思うなら、先ずマリアのように主のすぐそばにやってきて、よく聞かなければなりません。パウロも同じローマ書10章で「信仰は聞くことから始まる」と言っています。

たとえばワーシップリーダーの一番大事な条件は、その人自身が日々礼拝することを大切にしている人であることであって、歌がうまい、楽器がよく弾けるということではないのです

「働きの現場」に立つために必要な力も知識もすべて主との親しい交わりから得ることの出来るものです。そして公の礼拝はその大きな部分を占めています。それで私は金曜の夜の礼拝、平日の朝の礼拝を始める決心をしたのです。といってもここにいる皆さんは日曜日にも来られる人です。皆さんにしていただきたいことは、日曜日に来にくい友達に日曜以外の礼拝に週に一度、来るように勧めることです。また、まだ自分のミニチャーチがない人なら自分でも来てみていただきたいのです

メッセージのポイント

神様は私たちが生活のプライオリティーの第一のこととして、「礼拝する」ことを求めておられます。第一節を率直に言い換えるなら「何かを犠牲にしてでも礼拝することを守りなさい。礼拝を犠牲にしてするほどの価値があるものはありません」ということです。礼拝するということは、もちろん形式的に日曜の礼拝に出席するということではありません。毎回日曜日に出席できなくても、礼拝を守ることはできるのです。クリスチャンになれば誰でも、神様のために自分を活かして働きたいと願います。それは大変尊い願いです。しかし生活の中心に「礼拝」がなければよい働きをすることは出来ません。「礼拝」という神様との親密な時を定期的に守り続けることによって、神様をよく知ると同時に自分自身をよく知ることが出来るのです。自分と神様との関係、自分と他のクリスチャンとの関係をもっと良いものにするために、自分に与えられている賜物、自分の果たすべき務めを正しく知るために、心からの礼拝をささげ続けましょう。

ミニチャーチのために

1)世に倣う生き方とはどのようなものなのでしょう?

2)なぜそれほどまでに礼拝が大切なのですか?