2005/6/26メッセージ ローマの信徒への手紙12章3-8節 シリーズ(24)
違っているから素晴らしい
A. キリストの体の一部分としての私たち
1)自分を正しく評価する(3)
わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。
教会はキリストの体ですが、人の集まりという面もあることは否定できません。赦された罪人の集まりです。私たちは完全ではありません。完全な頭であるイエス様は敢えて不完全な私たちを体としてくださったのです。ですから、そこに人間的な問題が起こっても不思議はありません。パウロはここで思い上がった人々に対して一言言っておく必要があったのです。思い上がりはキリストの体の調和を壊してしまうからです。しかしそれはもちろん皆が自分を安く見積もるべきだということではありません。ある人々は反対に自分を過小評価します。 それでは調和を壊しはしなくても、器官として期待されている働きも出来ません。ユアチャーチには自分を過大評価している人はいません。むしろ、みんなもっと自分に高い評価を与えてもいいのではないかと思います。私たちは自分を過大にでも過小にでもなく正しく評価することが大切なのです。
2)ひとつの体と多くの部分(4,5)
というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。
互いに部分だということにはいくつかの大切な意味があります。先ず一つは、一つの目的のために異なる働きをしているということです。私たち個人としてもそうですし、その個人が集められた共同体であるユアチャーチも「ひとつの」教会に対してそのように存在しているのです。ユアチャーチという目に見えるクリスチャンの一つの群れが、神様の目的に適ってよい働きをするために、どれほどの種類の働きがあるか考えてみたことがありますか? ユアチャーチが委ねられた働きをしていくために、様々な働きがあり、それを私たちは自分にできることをして分け合っているのです。そしてそれはすべて一つの目的のためであることを忘れてはいけません。それは世界が再び造り主を認め、愛と平和を回復することです。神様の世界規模の大きなプロジェクトの小さな一部をここでユアチャーチが担っているのです。私たちはこのプロジェクトの大切な働きとして、私達の手のとどく範囲で、日々キリストの愛で愛し、キリストの平和を実現しつつあるのです。家庭の中で、職場や学校で。
第二に互いに対する責任があるということ。 もし一人が、あるいは一つの教会がイエス様の目的とは外れた目的に向かうなら、なすべき働きをせずに自分勝手に歩むなら、それは体全体の痛手となるのです。ですからユアチャーチはキリストの全体の教会に対して誠意を持って責任を果たして歩みます。いつの間にか存在の目的がずれてしまっていないか?するべきことをしているか?するべきでないことをしてはいないか?真剣に吟味するのです。このことはユアチャーチに対する私たち一人一人のあり方にも、当てはめて考えることが出来ます。
体の一部が健康を損ねるように、私達にも、働くより、休むこと、癒されることが必要なときもあります。傷ついた、疲れた魂に、癒しと休養と慰めを与えることも教会に与えられている大きな責任なのです.
B. 賜物=体の一部として働くために必要なもの(6-8)
聖書には「賜物」という言葉がよく出てきます。英語では単にギフトですが、日本語の「賜物」は普段はあまり使いません。もっと身分の上下がはっきりとあった古い時代の言葉だからです。そしてその意味は、地位の高い人からいただくもの、という意味です。聖書に出てくる賜物は、神様からのいただきものです。皆さんはこの言葉の原語を知らず知らずのうちに使っています。「カリスマ」ということばです。聖書の本来の意味からは少しずれた使い方がされています。皆さんに注目していただきたいことは、聖書ではこの賜物について三つの個所で詳しく書かれているのですが(今日のテキストと1コリント12章、エフェソ4章)どれも、キリストの体としての教会の働きとの関連で語られている、ということです。つまり、これらの賜物はすべて、神様の働きのために、先にお話しした一つの体の一つの目的のために、その一部分である私たちが用いるために与えられたものだということです。
わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。
1)自分に与えられている賜物を知る
ずっと以前に自分に与えられている賜物は何だろう?という確認をするために教会で賜物のテストというものをやってみたことがあります。どのような賜物が自分に与えられているかを知ろうとするペーパーテストです。もちろんそれではっきりと分かるわけではありませんが、自分の賜物を知るためのヒントにはなるでしょう。コリントとエペソも見ておきましょう。賜物は生まれつきの才能や努力の結果ではありません。神様が一方的に与えてくださる特別な能力です。もちろん賜物ともって生まれた才能が重なってよく用いられることもありますし、賜物を活用するにしても努力や工夫を重ねることによって私たちはもっとよく仕えられるようになるのです。ですから決して才能や努力は必要ないと言っているわけではありません。これら三つのテキストは賜物をリスト風に書いていますが、それが今の時代の教会で、どのように用いられているかという点では、あいまいな部分が多いのですが、無理やりに関連付ける必要もありません。わかっていることは神様がそれぞれの教会に特別な役割を与えられてその地域に遣わしてくださっているということです。そしてその働きに必要な賜物を私たち一人一人に分け与えられて下さっています。一つ一つの教会働きのためにはそれぞれ異なった賜物のミックスが必要です。そこで私たちにもユアチャーチが神様の期待に応えて働いてゆけるように、必要な賜物を一人一人別々に与えてくださっています。誰もが同じことを同じようにできる必要はないのです。賜物のあるなしは少し続けてやってみるとわかるものです。クリスチャンになったばかりの人は自分についての先入観を持たず。いろいろ試してみることです。
あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。 神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。 皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。 皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。 あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。(コリント12:27-31)
そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。 こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、 ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。(エフェソ4:11-13)
2)与えられている賜物を活かす
与えられている賜物を活かすということですが、裏返せば与えられていない賜物のことで悩む必要はないということです。誰もが良い教師である必要はありません。人前で祈ることが苦痛以外の何ものでもないとしても、恥じる必要もなければ無理やりに祈る必要もありません。どうにも人をもてなすことがダメな人が自宅でミニチャーチのホストになることはないのです。ただわすれないでいただきたいのは、神様があなたに必要な賜物は必ず与えられているということです。自分にも楽しんでできるはたらいが必ずあるということです
メッセージのポイント
クリスチャンになるということは、人間的な組織の一員となることではありません。パウロは、教会はキリストを頭とする「ひとつの」体である、と表現しています。クリスチャンになるとは、この体の一部となるということなのです。ユアチャーチはこの「一つの体」の日本という国の、東京の町田にある出張所です。ユアチャーチは、世界に「一つ」の教会の一つの部分としての働きをするために存在しています。そしてユアチャーチ自体がたくさんの異なった働きをする部分、つまり私たち一人一人から成り立っているのです。私たちはそれぞれ異なった賜物を与えられているのですから、個人の働きの違い、それぞれの教会の働きの違いがあるのは当然です。また賜物は神様からの一方的な恵みですから、働きについて人と比べて劣等感を感じたり、優越感に浸る必要は全くありません。大切なことはあなたが自分に与えられている賜物を惜しまず用いて神様に仕えることです。
ミニチャーチのために
1)キリストの体とは何ですか?
2)あなたに与えられている賜物はどのようなものでしょうか?