2005/7/3 メッセージ  ローマの信徒への手紙12章3-8節 シリーズ(25)

私の愛は本物か?

ホームセンターに行くとありとあらゆる種類の接着剤が置かれています。用途に従って適切なものを選ばないと、十分な強度が得られないばかりか、素材を痛めてしまうこともあるので、選ぶのに気を使います。ところでホームセンターには絶対売っていない種類の接着剤があります。それは人と人をつなげる「接着剤」です。正確に言うと心と心をつなげる「接着剤」です。みんなが必要としていますが、多くの人は間違った接着剤で失敗をしているのです。「お金」で「教養」で「容姿」で人を一時的にひきつけることはできるかもしれません。でも心と心をつなぐのはそれらではないのです。ではどこで、心と心をつなげる「接着剤」を手に入れることが出来るのでしょうか?それは教会です。いくら位で買えますか?いいえ、お金は必要ありません。欲しければただで与えられるのです。

A. 互いに愛し合うとは (9-16)

愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、 兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。 怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。 希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。 聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。 あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。 互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。(9-16)

偽りのないとは、真実で純粋なものだ、ということです。一見、愛情の表現に見えるような言動も、裏に自己中心的な、あるいは打算的な意図が隠されているなら、それは、愛ではありません。先週、私達は皆キリストの体として結び合わされて、一つの目的のために用いられるとお話ししました。私たちを結び合わせるものこそ「愛」です。夫婦であれ、親子・兄弟姉妹であれ、教会の仲間であれ、この「偽りのない愛」で結び合わされている関係なら誰もそれを引き離すことはできません。今朝はこの「偽りのない愛」を三つの側面から見てゆきたいと思います。

1) 相手を尊敬する

「偽りのない愛」は、尊敬するという心からの態度に表わされます。神様が求められ尊敬は年令や身分・地位の高低には関係ありません。聖書は親に子供に対する尊敬さえ求めています。子供を自分のものだと思っていたら尊敬することは出来ません。子供たちはあなたとは違う存存で、「あなたの子」である以前に、神様があなたに育てることを委ねた神様の「愛する子」です。マリアとヨセフはイエス様が自分達の子供であると同時に神様のひとり子であることを知っていました。肉親として出来る限りのことを行ったと思いますが、かなり小さな頃からイエス様の言動を理解できないこともありました。マリアとヨセフは、神様のイエス様に対する計画を完全には知らなかったからです。私たちも相手が誰であれ、その人に対する神様のプランを十分に理解することはできません。しかし、そのプランのゆえにその人を尊敬するのです。

2) 共に主に仕える

第二の愛の表れ方は非常にユニークです。礼拝すること、主に仕えること、祈ること。それらは直接的には神様に向ってなされることです。しかし、このことが互いに対する愛の表われでもあるのです。愛することは、自分の欲求を求めることでも、相手の欲求を満たしてあげることでもありません。神様があなたを使って与えようとするものを与えるのです。もちろん私たちは、神様ではありませんから、間違えることも多いのです。だからこそ互いが見つめ合うばかりではなく共に神様を見上げ、仕えることが大切です。二人が共に主に仕える時に、相手の本当のニーズも見えてくるのです。

3) 共に喜び共に泣く

三つめの愛の表われは、「共に喜び共に泣く」ということです。愛しているということは、その人の喜びや悲しみを、自分の事として喜び悲しむということでもあります。

これが出来るようになるためには、まず神様の助けが必要です。私たちの肉体に残る罪の性質は、人の痛みには冷淡で、自分の痛みには大袈裟です。自分が得られないものを人が得た時、素直に喜べず、なんで私ではないのですか?と、放蕩息子の兄が父親に文句を言ったように、神様に文句を言ってしまう私たちです。少しずつでも日々変えていただくためには、祈り続けることです。

そして、ただそれだけではなくセンスをみがくための日頃のトレーニングが必要です。「どうかミニチャーチに参加してください」と私がいつもお願いするのは、このことにもっとも相応しい場所がミニチャーチだからです。

B. 敵を愛せるか?(14,17-21)

今まで私たちが互いに愛し合うということについて、聖書から学んできました。簡単な事ではないけれど具体的な三つの指針が与えられたので、少しずつやってみようと心の中で決心した人もいるでしょう。そんな人をがっかりさせたくないのですが、神様があなたに跳んでもらいたいハードルはもう少し高いのです。

あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。(14)

だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。 できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。(17-21)

1) 敵を愛する?(マタイ 5:43-48)

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。 あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。 自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。 だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5:43-48)

イエス様の教えの中でもこの「敵を愛する」という事ほど私たちを困惑させるものはありません。世の中の常識は今でも敵を憎むことを当然としています。それはとても困難な要求に感じられます。完全な者になれということも、自分自身のことを考えてみるなら全く不可能なことのように感じられます。イエス様が敵をも愛しなさいといわれるとき、私達はどのような態度をもって望んだら良いのでしょうか?

2) 理想と現実のギャップをどう乗り越えるのか?

イエス様が「完全になる」ということについて話されたことを記録している個所はここを含めて2箇所しかありません。もう一つの個所は同じマタイによる福音書の19章21節です。

イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」

イエス様は人間が自分の行いによって完全になることは出来ないことを十分知っておられます。なぜなら完全な者とは罪のない者ということだからです。でも神様はイエス様の十字架の出来事を通して、私たちを罪のないものと認めてくださいました。このことから、イエス様が使う意味において、私たちは既に完全なものと認められているのです。それは御子イエス・キリストを信じ従っているからです。私たちの完全とは、永遠の命が与えられているということなのです。

福音書のイエス様の言葉に従って、パウロはここでも具体的な提言をします。呪うのではなく祝福しなさい。悪を悪で返さず、善で悪に対抗しなさい。復讐は神様に任せておきなさい。

私たちは敵が苦しむことではなく、悔い改めて神様を信じ、やがて愛し合うことができるものとなれるように祈ることが出来るのです。どうか彼らがこの呪われた状態から解放され祝福の中に入れてくださいと祈ることが出来ます。この時まだ相手はあなたのことを愛してはいませんが、このことを行う時あなたは敵を愛し始めています。感情は伴わなくてもいいのです。この手紙を書いたパウロ自身が教会の迫害者であったことを思い出してください。神様はあなたにとって最悪の敵でさえも愛し合うことが出来るものと変えてくださるのです。復讐は最悪の選択です。憎しみに対して憎しみで返せばさらに大きな憎しみによって攻撃されるという事実を、私達は今の世界のあらゆる所で見ています。

偽りのない愛で人を分け隔てなく愛しなさいという神様の命令に応えられる方法がどうやらはっきりしてきたのではないでしょうか?それは「神様を信頼する」ということ以外にはありません。イエス様に従って歩んでゆくならば偽りのない愛で愛せるようになるのです。

メッセージのポイント

パウロは信仰者の人間関係の基本をここで教えています。それはパウロ独自の考えではなく、イエス様の言葉や旧約聖書の教えが土台となったものです。パウロは先ず、互いに愛し合うことを勧めます。単に愛し合わなければいけないというだけでなく具体的な指針を与えてくれているのです。愛するとは、相手を尊敬し、相手と共に主に仕え、共に泣き共に笑うことなのです。パウロはさらに踏み込んで、仲間や家族だけではなく私たちに敵対するものに対してさえ、イエス様に倣って、愛することを勧めます。なぜ敵の祝福を祈るのか、復讐をしてはいけないのか?それは相手にとってもあなたにとっても主権者は神様だからなのです。

ミニチャーチのために

1) ユアチャーチでは互いに愛し合うということが、どのような形で現れていますか?

2) 敵を愛するとはどのようなことなのでしょうか?