2005/7/17 ローマの信徒への手紙13章1-7節 シリーズ(26)

全ての人に対して義務を果たしなさい

人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。(1) 従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。(2) 実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。(3) 権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。(4) だから、怒りを逃れるためだけでなく、良心のためにも、これに従うべきです。(5) あなたがたが貢を納めているのもそのためです。権威者は神に仕える者であり、そのことに励んでいるのです。(6) すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。(7)

聖書は、人生に大きな影響を与える力を持った書物です。人を癒し、立ち上がらせ正しい道に歩ませる力を持っています。それだけに間違った読み方をすると、間違った人生を歩むことになってしまいます。ですから聖書の正しい読み方を身につけることは、非常に大切なことです。ある時代には、信徒は間違った読み方をする可能性があるから、神学的な知識がある教職者だけが読むべきだということで、「クリスチャンが読むべきではない本のリスト」に加えられていたことさえありました。また、今でこそ、多くの人が当たり前のように読み書きが出来ますが、それはここ200年ほどのことですから、クリスチャンが誰でも自分で聖書を読めるという状況はそれほど昔からのことではないのです。聖書を読むにあたった注意しなければいけないことは、聖書の全体のメッセージとの調和、書かれた時代や場所、前後の文脈を無視してはいけないということです。ある部分だけを極端に強調したり、文脈や書かれた背景を無視したりして、今自分がおかれている状況にそのまま当てはめようとするなら、それは神様のメッセージではなく、神様のメッセージを部分的に表面的に利用した、人のメッセージになってしまいます。今朝のテキストもそのような意味で、注意深く読まなければ間違った結論を導き出すことになってしまいます。たとえば私が1節だけを切り取って、聖書がこう言っているからその通りに行いなさいといったらあなたはどう感じるでしょうか?


A. 上に立つ権威とは?

1) 当時のローマの教会の様子

パウロがここで従うべき権威と言っているのは、当時のローマの皇帝を頂点とした権威のことを指しています。教会内の宗教的な権威について述べているわけではありません。その社会の中でクリスチャンか、政治や社会とどのような関わりを持って歩むべきかという具体的な勧めなのです。ですから、わたしたちがこの個所を読むときは、当時のローマの社会とそこに置かれていた教会の様子をできるだけ正確に知った上で、今、自分がおかれている社会、教会にどう適用できるかを考えなければなりません。パウロは、ローマのクリスチャンが熱狂的な政治活動に傾くことを心配していました。ローマに武力闘争を挑む熱心党といわれた人々の影響力はクリスチャンとなったユダヤ人にも大きかったのです。当時のローマ帝国は、もちろんどんな権力にも問題があるように、問題があったにせよ。教会が反対闘争をしなければいけないような状態にあったわけではありません。それでも反ローマ運動をすることが教会の緊急の課題であると考える人々もいたわけです。

どんな時代であれ、どんな国であれ、クリスチャンの政治に対する行動の基準は、それが神様の意思に適っているかどうかという点にあります。相手が誰であれ、正しくないことを正しくないと言い、間違いを正そうとすることは私たちの義務でもあります。しかしイエス様の方法は決して暴力に訴えることではありませんでした。

当時のローマのクリスチャンたちに必要なことは、ローマにしっかりとしたキリストの体=教会を立て上げてゆく事でした。そのことの正しさはそれ以降の歴史が証明しています。教会はパウロの勧めを受け入れて政治的に先鋭化することはありませんでした。やがて皇帝による激しい迫害の時期が来ましたが、教会は抵抗運動ではなく、むしろ耐え忍ぶことによって、強さを増し加えました。そしてローマ帝国はやがてキリスト教国となるのです。ローマは武力で世界を征服しましたが教会は愛でローマを征服しました、そして今、ローマ帝国はずっと昔に滅びてしまいましたが、キリストの福音は世界中に告げ知らされているのです

 しかし当時は、ユダヤ人にとってローマに税金を納めることほど屈辱的なことはないと考えられていました。イエス様に招かれる前のマタイは、ローマの税を取り立てて手数料を得る徴税人でした。罪人として軽蔑される存在だったわけです。イエス様はナショナリズムと手を組めるようなスケールの小さい教えにとらわれてはいけないことを見事な方法で教えられました。三つの福音書に記されていますがマタイによる福音書を開いてみましょう。22章の17節から21節です。

ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。 税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、 イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。 彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(マタイ22:17-21)

教会には置かれている社会に関わる責任があります。しかし、それは教会が果たすべきもっとも大切な責任ではありません。時代が良くても悪くても神の国の福音を宣べ伝えることが教会のもっとも大切な責任です。宣べ伝えるということが単にパンフレットやトラクトを使って決断を迫ることではないということを、もうユアチャーチの皆さんはよくご存知だと思います。宣べ伝えるとは、イエス様にいただいた愛で愛し続けるということなのです。

2) 今私たちにとって

今、私たちの社会に中で従うべき権威とは何でしょうか?自分の国の主権者は誰なのか知っていますか?今では多くの国で「その国の主権は国民にある」ということになっています。中には名目だけで一人の人間に権力が集中している国もあります。主権者である国民が投票によって選んだ政府に権威を行使することを委ねているのは私たちです。王様がいるような国ならわかりやすいですが、私達が権威に従うということはどのようなことを意味するのでしょうか? 私たち皆が主権者なのですから、皆で作り上げてきたルールを尊重し、直すべきところは訂正のルールに従って、変えるということです。このテキストは、今の時代にあっては、たとえ選挙によって選ばれた指導者であっても、任期の間は何も疑わずに従え、と言っているわけではありません


B. 果たすべき私の義務とは?

今日のメッセージを一言で言い表すことができます。それは7節前半の「すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。」ということです。

1) 主権者の一人として

先にお話ししたように、皆さんはそれぞれの国の主権者です。この地上においてはあなたが他の人々と共に王権を分かち合っているのです。このことは、あなたは誰かの権威の下にいるわけではないけれど、あなたが支配していい人もいないということです。では誰に対して私たちは責任を果たすのでしょうか?社会の中での互いに対する責任を果たすことはクリスチャンとして当然のことです。それは消極的には法を守るということです。

2) 神の国の民として

しかし私たちに期待されていることはそれだけではありません。それは私たちが神の国の国籍をも持っているからです。悪い二重国籍者は、二つの国籍があることを、どちらの国に対しても責任を果たさない口実にします。普通の二重国籍者は、どちらかの国に対して忠実であろうとするでしょう。クリスチャンは地上の国と神の国のどちらにも責任を果たす「良い二重国籍者」であることを神様に求められています。神様の働きが忙しいことは社会生活を軽んじる理由にはなりません。同時に社会活動の多忙を理由に、神の国の民としての義務を果たさないでいい理由にはならないのです。神の国の民としては、私達は決して主権者ではありません。主権者である神様に仕える者です。神様が私たちをここに遣わしたのです。それは何のためなのでしょうか?法に忠実な良い市民であることがその目的ではありません。それは日本の市民としての義務に過ぎません。そうではなく、ローマが愛によって変えられたように、あなたの周りを、ご自身の愛で変えるためです。そのことのためにあなたは家庭に職場に教室に派遣されているのです

メッセージのポイント

私たちはこの地上の民主国家の主権者の一人として、それと同時に「神の国」の民として、与えられている義務を果たします。

この地上に生きている限り、私たちはこの二束のわらじを履いています。履いていなければいけないのです。あなたがこの世の歩みの中で神様に本当に仕えてゆくということは、人に対しては何もせず、山の中に隠遁するようなことではありません。私たちは人に仕えることを通しても、神様に仕えているのです。反対にどんなに素晴らしい社会的貢献をしていたとしても、神様に対して義務を果たしているという自覚がないなら、その営みは、神様の意思とはかけ離れたものになりかねません。

ミニチャーチのために

1) 上に立つ権威に従うとはどういうことですか?

2) あなたが神様に果たすべき義務とは?

3) あなたが人々に果たすべき義務とは?