2005/7/31 ローマの信徒への手紙13章8-14節 シリーズ(27)

愛によって、あなたは完成に向かう

A 「愛すること」に要約される神様の掟

お金や物などの物質的な負債を踏み倒そうとしたり、働かせた労務などに対して報酬を与えなかったり、あるいは悪意がなくても借りっぱなしで忘れてしまうと人間関係を損ねることになります。借りっぱなしではいけないというのは、よい人間関係を維持する基礎です。わざわざ聖書で言われなくたって常識でしょう。

信仰の本質は、決して道徳的に問題のない人になることではありません。しかし行き過ぎた律法主義は、借りっぱなしの言い訳を信仰的な動機にこじつけてしまうということがあるのです。ここで言う律法主義とは、新約聖書で非難されているユダヤ教徒のそれだけではありません。(マタイ15:3-9) 文字で書かれた経典や法律あるいは言い伝えを盾に、返すべきものを返さないということは、どんな信仰、思想の持ち主にも起こりうることであり、クリスチャンであっても例外ではありません。クリスチャンの律法主義は、それが人々を神の国から遠ざけるという点でより深刻です。だから当たり前のこととはいえ、どのようなことであっても借りっぱなしではいけないということを心しておくことは大切です。「借りがあってはいけない」の「借り」と前回メッセージの「すべての人に自分の義務を果たしなさい」の「義務」はギリシャ語では同じ言葉です。前回に教えをもう一度違う表現で言い換えているわけです。

ところがこの原則にはたった一つだけ例外があります。それは愛です。パウロは義務を果たすこと、負い目をそのままにしないことよりも、もっと大切なこととして「互いに愛し合うこと」を伝えようとしているのです。

1)互いに愛し合いなさい (8a)

互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。(8a)

「愛し合うということにあっては、借りがあっていい」のでしょか?いったい愛し合うことにおいて借りがある貸しがあるとはどのような意味なのでしょうか? 愛は自身を相手に与えることです。しかも見返りを求めることなく与えることです。それはイエス様の十字架で完全に示されました。見返りを求めないのですから、貸し借りという概念はもうここには成り立たないのです。多くの人が、愛を誤解しています。愛以外の、貸し借りの計算のできるもののように誤解しているのです。私がこんなにしてあげているのに、あなたはこれだけしかしてくれない、と感じるならあなたの行為は愛の行為ではありません。彼女がご飯を作ってくれたから、僕は片付けをしなくちゃ、と考えるのは、愛ではなく、料理の対価を払おうとしているに過ぎないのです。

 イエス様は、私達が何かを差し上げたから、命を下さったのでしょうか?いいえ私たちが信じる前に、何の対価もなしに下さいました。イエス様は後払いでいいよとおっしゃったのでしょうか?つまり、あとで払ってもらえることを信じて先に下さったのでしょうか?これもいいえです。人の罪の重さは、人が自分では負いきれないほどに重いものです。だからこそ、イエス様は私たちが生まれる2000年以上前に、見返りを受けられることなどお考えにならずに下さったのです。この愛に対して対価を払える人は一人もいません。私たちの「行い」では、どんなにがんばっても到底足りることがないほどの無限の恵みでした。この恵みが私たちを愛する者と変えてくれるのです。あの十字架の出来事により、罪赦されて神の子供とされた、ということを信じ、イエス様と共に歩み始めると、十字架の愛の力強さ、素晴らしさはあなたにとってさらにリアルなものとなります。神様がイエス様の十字架を通して示された愛こそが、あらゆるものの中でもっとも尊いことを知ります。ヨハネによる福音書の3章16節は、人に神様の愛を伝えるために、よく取り上げられる節ですが、皆さんには、それ以上に自分自身に向けて語られている言葉として読むことお勧めしたいと思います。世の中は移り変わり、価値観も変わります。人は死ぬ時、自分の体も含めて物質的なものを全て手放すことになります。しかしそれでも失わない物があると聖書は教えています。コリントの信徒への第一の手紙13章13節です。そしてその中でもっとも大いなるものは愛なのです。なぜなら信仰も希望も愛の上に建てられているものだからです。

 神様はこの愛で愛し合うことを私たちに求められます。しかしそれは十字架の愛を人に与えることで少しずつ返済するということでは決してありません。前にも触れましたが、それは何年かかっても払いきることが出来ない大きな恵みだからです。そうではなく、十字架の愛で赦された私たちは、義務や負い目ではなく、神様に与えられた喜びとして「愛し合う」ことができる人に変えられたのです。それでも私たちが時々、愛することを義務や重荷と感じてしまうのは、私達の体に罪の性質が健在?だからです。誰かを愛すると、愛で応えられることが多いので、応えられることに慣れてしまいます。すると私たちはいつの間にか、見返りを求めないという愛の本質を忘れて、応えられないことに苛立ち、失望するようになってしまいます。この罪の性質を黙らせる方法はたった一つだけです。それは、神様を礼拝することを生活の第一優先におくことです。特に人々と共にささげる礼拝は、私たちが「互いに」愛し合う存在であることを意識できる点で不可欠であり、個人礼拝、家庭礼拝だけでは得られない恵みがそこにはあるのです。

 私たちは礼拝の中で、神様の限りない愛を思い出し、それが見返りを求めないものであることを憶えます。聖書の言葉という力を手に入れ、祈りやミニストリー、会話を通して癒され、慰められ、励まされて、愛するために再び教会の門を出てゆくのです

2)愛だけが律法を全うする (8b-10)

人を愛する者は、律法を全うしているのです。 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。 愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。

当時のユダヤ人社会の正しさの基準は律法でした。この律法を日常生活の隅々にまで反映させるために、律法の細則が作られ、それは時代が進むにつれて膨大なものになってゆきました。そしていつの間にか、その原点は忘れられてしまいました。

 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」はモーセの十戒の後半の人間関係についての戒めの部分です。元はこのシンプルなモーセの十戒に始まった律法の全体がたった一つのことに要約したのはパウロが始めではありません。イエス様はマタイによる福音書の22章で、神様との関係においては「心を尽くし精神を尽くし、思いを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい」(申命記6章5節)が、そして人間関係においては「隣人を自分のように愛しなさい」(レビ記の19章18節)が聖書の教えの原点であることを教えています。律法を知らない民であっても、イエス様を通して愛を知り、愛を行う者は、律法の細則に通じていなくても、神様の掟に忠実な者なのです。

 パウロはここでは触れませんでしたが、人を愛することの前提として神様を愛するということもここで確認しておきましょう。イエス様は第一のこととして、主を愛することをあげられました。主を愛することなしに人を愛することは出来ません。私たちの内には涸れることのない愛の泉はありません。それはイエス様の内にあるものなのです。前の項でお話しした、礼拝中心の生活の大切さは、この涸れることのない泉から汲み続ける必要から来ているのです。

B 時は近づいているから

1)目を覚ましていなさい (11-12)

更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。 夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。

この世界には、始めもなければ終わりもないという考え方もありますが、聖書の世界観は「世界には始まりがあり、終わりがあるということを教えています。さらに聖書は、歴史の中で最も重要な出来事として、神様であるイエス様が人として来てくださったことをあかししています。歴史家が、歴史全体を把握するためにいろいろな歴史の区分を提唱しているように、クリスチャンの中でも、創造から終末までを細かく区分して理解しようとする試みがなされていますが、救いの知識として本当に必要なのは、イエス様が人としてこられる前と後の区分だけです。これは一般の歴史の見方にも反映されていて、紀元前、後 (A.D.とB.C.) と区分されているわけです。イエス様の到来は終末の始まりです。

 パウロの時代の人々は、神の言葉である旧約聖書−律法がありながら、実際には神様との関係が壊れた殺伐とした社会を暗闇のように感じていました。イエス様の登場はそこに夜明けを感じさせたのです。確かに終末の時は始まったのです。しかし社会が完全な夜明けを迎えるまでの時間は彼らの予想をはるかに超えたものでした。当時の多くのクリスチャンは自分たちが生きている間にイエス様が再び来られることを期待していたようです。そして2000年たった今でも、私達は夜明けを予感しながらも闇の中をあるいています。

 「夜明けがいつやってくるのか、そのあとはどうなるのか」ということは、いつの世も「ある種の」人々にとっては最大の関心事のようで、「○○の大預言、終末は○○○○年に」といった本が繰り返しベストセラーになって人々の心を乱しました。しかし今のところ全ては偽の預言だったわけです。クリスチャンでさえこの過ちを犯し、私が生きているうちに終わりは来ると宣言する人が出てきます。多くの場合、すぐ来る終末に備えて、地上に宝を持っていても意味がない、もっと神様に(実は私にあるいは私の組織に)献金や伝道をすることによって捧げなさいという文脈で用いられます。

そして、わたしたちが命じておいたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい。 そうすれば、外部の人々に対して品位をもって歩み、だれにも迷惑をかけないで済むでしょう。

兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。 イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。 主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。 すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、 それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。 ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。 兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。(Iテサロニケ4:11-5:1)

 目を覚ましていなさいということは「終末が今か今かと恐れ、着実な日常の歩みをおろそかにして何かに駆り立てるようにして過ごしなさい」ということではありません。このテサロニケの信徒への第一の手紙4章から5章を見て行くと、パウロは同時代の人々と同じように自分が生きているうちに再臨があると確信していたかのようにも考えられますが、時と時期を知る必要はないとも言っています。時と時期とはそれがいつ来るかということも、どのように起こるかということも、という意味です。つまり、パウロが言いたいのは、終末については聖書に書かれている以上のことを知る必要はない、ということです。この時代にも、もう終わりが来るということで頭がいっぱいになって、仕事もせずに落ち着かず、教会の中だけでなく社会にも悪い影響を与えていたクリスチャンは、この時代からいたということです。パウロはたとえそれが数日先のことであったとしても、落ち着いた生活をしていなさいと命じるために、少々誇張して言ったのかもしれません。

 目を覚ましているとは、世がいまだ闇のようであって、光の子は光の子らしく闇の行いを避けて歩みなさい、ということです。そうしているなら、終わりが明日来ても、これから1000年来なくても、何もあわてる必要はないということです。

2)主イエスを身にまといなさい (13-14)

日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。

終末についての正しい態度は、「それがいつになるか、どんなふうになるか」ということに心を煩わせることではありません。そうではなく、イエス様の十字架によって幕を開けた、歴史の第二幕をイエス様に従う者として歩み通すという態度です。今は確かに闇の中を歩んでいるように感じられます。闇は醜さや汚れを隠します。今や13節に書かれていることなどこの世の常識では悪いことでも何でもありません。クリスチャンがこれらのことを避けようとすると、逆に付き合いの悪いヤツ、物分りの悪いヤツといわれてしまいます。しかし聖書はどんな言い方をしたところで、人間の生き方には二つしかないことを教えてくれます。「自分の欲望を満足させるために生きるのか」「神様に喜んでいただけるように生きるのか」神様と富に兼ね仕えることは出来ないのです。

 アウグスティヌスという人の名前を聞いたことがあると思います。4世紀から5世紀にかけて生きた歴史上もっとも大きな影響力を残した神学者です。彼は真理を知りたいという願いを持ちながら、32歳までクリスチャンになることが出来ませんでした。ところが32歳のある日ミラノのある公園で思い悩んでいた時に、遊んでいた子供たちの歌声が「手にとって読みなさい」といっているように思え、手近にあった新約聖書に手を伸ばし、目に飛び込んできたのがこの個所、「主イエス・キリストを身にまといなさい」だったのです。アウグスティヌスはこの時のことを思い起こして「確かな光が私の心に入ってきて、あらゆる疑いの影が消えてしまった」と言っています。

 クリスチャンになること、それは自分が変わることではなく、変わらなければならないほど問題だらけの私を、そのまま主イエス様にローブのように包んでいただき変えられてゆくことを期待することなのです。普通の衣類はお風呂のあとよく水気をふかなければ、着るわけにはいきません。しかしバスローブは違います。ぬれたままで身を包んでも、水分を吸収して体を乾かしてくれます。イエスキリストはあなたが罪に溺れていても、助け出してくださり、引き上げられても罪に汚れているありのままのあなたを優しく包み、やがて罪の人だったあなたを、愛の人に変えてくださるのです。

今週のメッセージのポイント

直前のテキストで私たちは互いに義務を果たす責任があるということを学びましたが、「愛し合う」ということは私たちに課せられた責任というより、私たちの生活の原動力となるものです。愛するということが私たちの日々の営みを豊かにしてくれるのです。愛は与えることですが、見返りを期待して与えるなら、それはもう愛ではありません。見返りを求めず与え続ける愛。この愛に生きることが、神様の戒めの原点です。主イエスさまが再び来られる日。その日は誰にも知らされてはいません。明日かもしれないし1000年後かもしれません。それがいつになるにせよ求められているのは、終末に相応しい「ただ愛のために」というあなたの生き方です。

話し合いのために

1) 誰かに「愛」って何ですか?と聞かれたらあなたはどう答えますか?

2) 神様は私たちに、どのような生活態度を期待しておられるのでしょうか?