2005/7/31 ローマの信徒への手紙14章1-12節 シリーズ(28)
強い信仰・弱い信仰
ユダヤ教の影響を色濃く残していた当時の教会の中には、律法で決められていた規定をクリスチャンも守るべきだというユダヤ教の背景を持った人々の考えと、異邦人クリスチャンのそういったものからはもはや自由なのだから規定にとらわれる必要はないと考えとの間で、対立があり使徒たちの会議が開かれなければならないほどでした(使徒言行録15章)。
この手紙を書いたパウロは、イエス様に出会うまで人一倍熱心なユダヤ教徒でしたが、律法の行いや規定を守ることが信仰の本質ではないことに気付きました。救いがユダヤ人にとどまるものではないことを悟り、異邦人の使徒として活動したのです。パウロは律法の精神の大切さは認めましたが、細かい規定自体にはとらわれる必要がないと思っていました。コリントの信徒への第一の手紙8:4-6を読んでみましょう。
そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。 現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、 わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。
ギリシャ人やローマ人など異邦人が中心となった教会にとってそれは大きな励ましでした。しかし、ユダヤ教の影響の強いユダヤ地域の教会はもっと保守的でした。様々な律法の規定を異邦人クリスチャンにも守らせるべきだと考えていたのです。
A 信仰の強い人と弱い人の違い(1-5)
信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。 何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。 食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。 他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです。 ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。(1-5)
1)同じ信仰の確信が与えられていても表現は異なる
パウロも参加したエルサレムでの会議で出された妥協案は異邦人クリスチャンは全ての規定を守る必要はないが「偶像に備えられたものは避けなさい」など、特にユダヤ人クリスチャンの嫌うことはしてはいけないというものでした。
このように書き送られると、それが信仰的にとても重要なことだと考え、何かの間違えで口に入ったら自分は穢れてしまう、なんとか避けなければと思う人々がでてきます。 彼らがここで言うところの「信仰の弱い人」です。
一方、パウロの理解の通りに、偶像という実体のないものに備えられた肉で穢れるなんてありえないと考える「信仰の強い人」は、それが偶像にささげられた肉でも気にせずに食べていました。
問題は、彼らが互いに相手を裁きあっていたことです。弱い人は強い人を「神様の教えに忠実ではない」と非難しました。強い人は弱い人に「無知で迷信深い」と馬鹿にしました。
同じ問題は、やはりユダヤ教を背景にした考え方の特別な日や季節を重んじるかどうかという点でも起こっていました。
受け取った信仰の真理は同じでも、その表現となるとその教会、あるいは個人の置かれた文化によって変わってくるのは当然です。それはそれでいいのです。たとえば他国から来たクリスチャンが、入り口でスリッパに履き替える日本の教会に来て靴のままで入ってしまうといったことが起こります。誰も神様の家に来たのに靴のままで入るなんて不信仰だなんて言いません。ところが人は他を知らないといつの間にか「自分のやり方が最高」と考えてしまうのです。女性は礼拝ではスカートをはくべきだと教える教会に行ったことがあります。男性席と女性席と離れて座らなければならない教会もあります。それらは信仰の本質ではありません。文化の問題なのです。文化の問題を絶対化するところに問題が生じるのです。
2)大切なのは相手も体の一部だということを喜ぶこと
文化の違いをどう考えたらよいのでしょうか?二つのことを手がかりに考えてみましょう。第一に、コリントの信徒への第一の手紙12章にあるように、どんな文化の影響の下にある教会もみなキリストを頭とする体の一部だということです。 同じようになる必要もないし、なることは出来ないのです。神様はそれぞれの教会に別の働きを与えておられます。それなのに与えられている自分たちの特長を捨ててしまったら、その働きが出来なくなってしまいます。違うことを恐れてはいけません。
もうひとつは、4節の警告です。私たちはそれぞれにイエス様の僕です。神様がこのようにするべきだと命じておられる、と自分の心の確信に従っている人を裁くことをしてはならないのです。 私は先に例を挙げた男女別席の教会のメンバーにはなりたいとは思いませんが、そこを教理的に間違っているとは思いません。ローカルルールなのですから、そこのメンバーになりたい人が 「郷に入れば郷に従え」(do as the Romans do)ばいいのです。困ったことは、特殊なルールを一般化して、そうではないものに対して、クリスチャンなら誰でも私たちのルールに従うべきだと考えてしまうことです。
パウロはここで言う強い信仰を誰もが持つべきだとは言っていません。互いの信仰を尊重し合うべきだと言っているのです。
B 強くたっていい、弱くたっていい(6-12)
1) こだわらないほうがいいことは忘れる(6)
特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。(6)
私たちには他の教会を次のような理由で裁くことはできません。大きすぎる・小さすぎる、にぎやか・静か、年齢層、どんな系統。 賛美歌を使うの?聖歌を使うの?それとも全然違う歌を?メッセージが長すぎる、短すぎる。自分の教会に、どうしても耐えられないような不満があったらどうしますか?自分の好みに変える努力をしますか?それはあなたにとっても、教会にとっても不幸なことです。それよりは牧師に理由を話してみましょう。 もしかしたら牧師も同じことに問題を感じていて、変えたいと思っているかもしれません。 そうであればあなたは牧師と共に教会を前進させる働きを担うことが出来るでしょう。 しかし彼・彼女が、あなたが問題と感じていることを、確信を持ってそのようにしているのであれば、あなたはもっと自分に合った教会を探すべきです。
時々教会を変わりたいと思う人に対して、ここを去ったら祝福されないとか、救われないとか、地獄に落ちるといわれたら、急いで逃げ出しましょう。そこは残念ながら教会でさえなかったのです
2)ここだけは譲ってはいけないことを憶える(7-12)
それはイエス様、おひとりが主であるということです。クリスチャンとは、教会の主であり、私たち一人一人の主であるイエス様の僕です。私たちはこの主であるイエス様のために生きているのです。
わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。 わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。 キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。 それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。 こう書いてあります。「主は言われる。『わたしは生きている。すべてのひざはわたしの前にかがみ、すべての舌が神をほめたたえる』と。」 それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。(7-12)
7節から8節を予備知識なしに読むと、狂信的だと感じる人がいるかもしれません。実際歴史上、何度となく「神様のために生涯を捧げなさい」と勧めながら実は自分への忠誠を要求した偽牧者、宗教家が、このような聖書の個所を自分に都合よく教えるというがありました。今も昔も変わりません。
しかし聖書を全体としてみてゆくなら、イエス様だけがすべての人の主だと知ること、主に従うことを人生の目的にすること、それがどんなに実りの多い人生になるか、ということが分かるのです。多くの人は自分を主とする生き方に限界を覚え、主に従う道を決断しました。それは、決して宗教的指導者の言いなりに生きるということではありません。自分で考え、自分で祈り、最善を尽くして従って行くのです。もちろん教会はキリストの体です。クリスチャンは一人で生きてゆくことは出来ません。生涯、自覚的に体の一部でい続けなければいけません。それは頭であるイエス様につながっていることの目に見える保障だからです。
もうひとつ忘れてはいけないことは、いつかやがて自分のことについて神様に申し述べる時がくるということです。誰にもあなたを裁く権利はありません。また同時に、あなたも誰かを裁くことを許されてはいません。裁くのは神様だけです。ただあなたはいつの日か、神様の裁きの座の前に立つのです。
今週のメッセージのポイント
一言でキリスト教会といっても様々な考え方を持った人々の集まりです。それぞれの信仰の表現は、教派や教会によって異なります。私たちの内には、違いを認められない狭い心があり、認め合うのではなく、裁き合ってしまうことがしばしばです。自分や自分たちのグループのあり方を大切にするあまりに、それ以外のあり方を否定するのは誤りです。大切なことは、それが「主のための行いなのだ」というあなたの確信であり、他の人々のあり方を裁く権利は私たちにはないのです。それは自分勝手にということでは決してありません。いずれ、私達一人一人が神様の裁きの座の前に立つことになるのです。人間の営みは完全ではありません。日々誠実に「主のために」という思いを尽くして歩めばよいのです。
話し合いのために
1) なぜパウロはこのようなことをローマの信徒に書き送る必要があったのですか?
2) あなたは信仰の強い人、弱い人?