2005/8/21 メッセージノート ローマの信徒への手紙15章1-6節(シリーズ第30回)
希望を運ぶ教会
パウロは「偶像にささげられた肉の取り扱い」という具体的な問題の解決から話を進め、ここではそれをキリストの教会の大切な在り方についての教えにまで深めています。最初に今日のテキスト全体を読んでみましょう。
わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。 おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。(1-2)
キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」と書いてあるとおりです。(3)
かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。(4)
忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、 心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。(5-6)
A ユアチャーチ:名前の意味を忘れない
名前はその人の人生に大きな影響を及ぼします。もう亡くなったジョニーキャッシュというカントリーシンガーは「スーという名の少年」(A Boy Named Sue)という曲を歌っています。酔っ払った父親に女性の名を付けられた少年の悲しい人生を歌ったものです。
ですから普通、両親は子供の将来の幸せにつながるような名を真剣に考えるのです。同じ意味で教会の名前は大切です。この教会の名前を決める時、その名前が教会のあり方をよく表している、同じ名前の教会がない、それでいてシンプルで、一度聞いたら決して忘れないような名前であるという条件に合った名前にするべきだと考えました。始めのうちは、教会の名前を言うと必ず聞き返されていましたが、最近では、大分知名度があがってきて、私のことは知らなくても、教会の名前は知っていたということが良くあります。もっとも英語で教会の名前を聞かれると会話は混乱します。でもそれが狙いです。ユアチャーチの名前を聞いた人はもう二度と忘れることが出来ないのです。もっとも名前が印象的でも内容が伴わなければ意味がありません。ユアチャーチという名前の本当の価値は、教会のあり方をよく表現しているというところにあるのです。皆さんは人に教会の名前を聞かれてちょっと恥ずかしいですか?変な名前なんていわれたりして。でもあなたがその意味を教えてあげたらきっと興味を持ってくれて、時々その人と教会の話しができるようになるはずです。
1) あなたの隣人のための教会 (1-2)
ユアチャーチの‘あなたの’(ユア)には二つの意味があります。それは第一に教会は神様のものだということを意味しています。教会は人間の所有物ではありません。そしてもうひとつは、自分以外のすべての人のためのものだということです。前後しますが先ず、ユアチャーチが、あなたの隣人のための教会だということから考えてみましょう。一節と二節をもう一度読んでみます。
わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。 おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。(1-2)
強い者が強くない者の弱さを担う、強い者が自分の満足を追求するなら弱い者は取り残されてしまいます。コンテキストでは宗教的な習慣を巡って、教会の中での「強い信仰・弱い信仰」という観点から語られている言葉ですが、一般的な強者・弱者の関係においても必要な配慮です。この国では貧富の差が激しくなってゆく傾向にあります。勝ち組、負け組みという分類で人を二分する考えがはびこっています。また国際競争力を増すためには、福祉予算を削っても軍事力や経済力を充実するしかないという考えが主流を占めています。それは強い者が自分の満足を求めるという考え方です。
この考えは、聖書の教えることとは正反対です。それでは聖書は誰の満足を追求するべきだといっているのでしょうか?それは神様の満足です。そして神様の満足とは、隣人を満足させるということに他ならないのです。見えない神様に仕えるということは、神様に礼拝をささげるということだけではないのです。隣人に仕えるということでもあるのです。
あなたは、「教会は自分の満足を求める所ではない」という言葉をアーメン、その通りですと言って受け入れられるでしょうか?それは「自分はもはや自分のために生きるのではない。神様のために、隣人のために生きよう」と決意することです。それでは、あなたの隣人とは誰のことでしょうか?それは今あなたと共に礼拝をささげている一人一人です。また、ここにはいなくても、あなたがその人の幸せを心にかけている人々のことでもあります。ユアチャーチが、いろいろな人々にできるだけ違和感を持たずに来てもらえるように努めているのはこのためです。もっとも、それではユアチャーチのメンバーは自分のためには何も得られないということではありません。イエス様の「先ず神の国とその義を求めなさい。そうすれば全てのものは添えて与えられます。」 という言葉を思い出してください。あなたの必要を神様はよく御存知です。そして誰かを通して必要を満たしてくださるのです。さてこのことは「神様のもの」ということに矛盾しないでしょうか?3節を読んで考えてみましょう。
2) 神様ご自身の教会 (3)
キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」と書いてあるとおりです。(3)
イエス様が地上を歩まれていた時の行動の指針を御存知ですか、それは「父の意思を行う」という事でした。それでは天の父の意思とは何でしょう?それは神の国を実現することです。知らず知らずのうちに神様に背を向け、負う必要のない重荷を背負った人々の荷を降ろし神の国の国民として迎えることです。そしてその働きをキリストの体である教会に委ねられました。教会のあらゆる営みはただ神様の意思を行うことなのです。だから私たちはまだ重荷をすっかり下ろしてはいない人のためにこれは「あなたのための教会です」と言い、実際にそのようであるように努めるのです。神の国は、すでにその市民である私たちが互いに「あなたの国」といえ、また招き入れたい人に「あなたの国」ですといえます。でも誰のものかといえば、私たちは「神様、それはあなたのものです」としか言いようがないのです。教会は神の国のこの世に置かれた大使館です。ですから、それは王である神様のものなのです。
私たちは、人々の慰め、励まし、喜びのために存在していますが、私たちは神の国の大使として、それを行っているのです。
B だからユアチャーチは
さてメッセージの後半です。ユアチャーチは神様のために隣人のために存在します。とお話ししてきました。だからユアチャーチはどのようにあり続けるのかということを3つお話しします。
1) 善を行って隣人を喜ばせ、互いに向上につとめる (1-3)
ユアチャーチは神様のために隣人のために存在します。だからユアチャーチは善を行って隣人を喜ばせ、互いに向上につとめます。もう一度1から3節までを読みましょう
わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。 おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」と書いてあるとおりです。
隣人、そして互いに、とありました。教会に始めてきてくれた方に、あるいはまだ来ていない人に、主人に仕える僕のように、心から仕えます。そして互いに仕え合うのです。そのことが隣人を真の喜びに導き、互いの向上につながるのです。それは神様の教会に対する願いです。
2) 聖書から忍耐と慰めを得て希望を持ち続ける (4)
ユアチャーチは神様のために隣人のために存在します。だからユアチャーチは、聖書から忍耐と慰めを得て希望を持ち続けます。4節を読みましょう。
かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。(4)
私は牧師として20年ほどの歩みをしてきました。様々な問題に直面してきました。もう止めていいといわれたらどんなにうれしいだろうと思ったこともあります。痛みを伴う、大きな方向転換をしなければならなかったことも何度かありました。教会はイエス様の体ですが、この世に置かれた現実の体です。希望を失った者は人に希望を伝えることは出来ません。希望を運ぶ教会は試練を受けても決して希望を失いません。それは神様が聖書をとおして忍耐することを教え、同時に深い慰めを受けているからなのです。誰もが忍耐や慰めそして希望を求めています。問題は誰に、何に求めるかです。ドラッグディーラーに求めれば、ひどい気持ちの時も一時的にハイになれる薬を売ってくれるでしょう。でもあなたはやがて廃人になってしまいます。そこには希望はありません。仕事に打ち込むことで忍耐と慰めを得ようとがんばる人もいます。しかし仕事はやがてできなくなる時がやってきます。友人や大切な人にそれを求める傾向もあります。でもその人自身が確かな希望の根拠を持っていないなら、やはりそれも一時的なものでしかないのです。趣味やスポーツに打ち込むことも一時的に現実を忘れさせてくれます。でもそれは本当の慰めではありません。もしあなたがそう聞いたことがなかったのなら、どうぞ心に留めてください。あなたが忍耐することが出来るようにしてくれ、本当の慰めを与えてくれ、決してなくならない希望を与えてくれるのは神様であり、その言葉が記された聖書なのだということをです。
3) 心を合わせ声をそろえて、神様を礼拝する (5-6)
ユアチャーチは神様のために隣人のために存在します。だからユアチャーチは、心を合わせ声をそろえて、神様を礼拝します。
5節6節を読みましょう。
忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、 心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。(5-6)
教会は神様のものです。つまり、私たちは神様のものです。神様のために日々を生きてゆくために与えられる霊的な糧は礼拝で与えられます、そして私たちが心を合わせて礼拝をささげているなら、この体は調和が取れているということになります。礼拝の中で神様は大きな力を発揮されることを知っていますか?皆さん一人一人にお願いしたいのです。神様を礼拝するときは大きな期待を持って臨んでいただきたいということです
メッセージのポイント
教会は自分を喜ばせるために存在しているのではありません。人々に滅びることのない希望を提供するために存在しています。そして教会とはビルディングのことではなく、私たち自身です。私たちが共に心を合わせて歩んでいるなら、世界にはまだ希望があるのです。あなたが皆と声を合わせて神様に礼拝をささげることを第一としているなら、どんな困難があっても、あなたは希望を与え続ける人であり続けるのです。
話し合いにヒント
1) ユアチャーチが名前に相応しい教会であるために大切なことは何ですか?
2) なぜ“礼拝第一”が大切なのでしょう?