2005/9/18-24 メッセージノート ローマの信徒への手紙16章(シリーズ最終回)

エンドクレジット(End Credits) 

皆さんは映画を見に行く時エンドクレジットが終わるまで席に座っていますか?それとも話が終わるとエンドクレジットは見ずに席を立ちますか?私はよっぽど期待を裏切られた映画以外は最後の最後まで見ています。スタッフやキャストの名前が次々に出てくるだけなので面白くないと感じるかもしれませんが、最後まで見るともうちょっと得するかも。私が最後まで席を立たない理由は、暗いうちに歩き始めえて転ばないため とか 思わず流した涙を拭いてしまうため ということもあるのですが、感動した時には製作に関わった全ての人々に敬意を払いたいということもあるのです。また、どこかで見た風景だなと思っていたのが、本当に自分の知っている所で撮影されていたことをエンドクレジットで確認できたりするとちょっと得した気分になります。中には、エンドクレジットのところどころでNGシーンが挿入されていたり、エンドクレジットの終わりに、もうひとつ短い映像が映っていたりして終わりまでいてよかったと思います。

A あなたは素晴らしいティームの一員(1-16、21-24)

1)パウロもティームの一員だった

1-16、21-24節には映画のエンドクレジットのように多くの人々の名が記されています。16節まではこの手紙をローマまで届けようとしている女性とローマにいる人々についてかかれています。 21節からはパウロとともにいる人々からローマにいる人々への挨拶が記されています。パウロの宣教といっても多くの人々が様々な働きで協力しています。

ユアチャーチも一つのティームです。私たちはティームのー員です。無駄な人、役割のない人は一人もいません。スポーツのティームや会社のプロジェクトティームとの違いは、私たちの役割のすべてが「愛」が形を変えたものだということです。皆さんは自分の役割や働きを楽しんでいますか?愛は強制されて働かせるものではありません。楽しんでいないなら、ちょっと考えて見る必要があるでしょう。もっとも愛がなくても楽しめることがあります。歌うことや楽器を演奏することもそうジョンや私はセッションを始めるとなかなか終りません。みなさんから見るとワーシップリーダーと牧師のセッションですから、いつもワーシップしているように見えるかもしれませんが自分たちの楽しみでやっていることもあるのです。そこで私たちはワーシップする時には神様に心の焦点を合わせることを意識しなければなりません。ワーシップする事とワーシップソングを歌う事とは違うのです。私たちはこのティームの一員であることを喜び楽しんでいます。でもそれは第一に自分の心を満たすためではないのです。それは神様に従って人々の心を満たすためです。

私たちは組合わされて神様の働きを担っています。それぞれが自分の負いやすい荷を担って歩んでいるのです。

2) メンバーはそれぞれ異なった役割を担っていた

去年TVドラマに出るという経験をしました。といっても私は役者ではありませんから「牧師」の役しか出来ません。予算の少ないドラマだったので結婚式のシーンで本当の牧師を使うことになったのです。たった30分のドラマなのに長い時間をかけて撮影してゆきます。私も沢山演技して役者の気分を味わったのですが、編集された出来上りを見るとエキストラと同じ位存在感がなくてがっかりでした。それでもエンドクレジットには、いつもTVに出てくる人々とならんで私の名前が出ていたので満足しました。そこには画面には出てこない多くの人々の名前も記されていました。タイムキーパーやカメラマンの乗った台をレールの上で動かすアシスタントなどです。このような人々がいなければ30分のドラマも作れないのです。

ユアチャーチのティームにもいろいろな役割がありますが、ドラマと違うところは、「みんなが主役であると同時に、誰かが主役であるための裏方を努める」という点です。私たちは皆、宣教の最前線に遣わされています。あなたが日曜日の午前中以外にいる所です。そこであなたはパウロのようにイエス様を紹介します。そこにいるのはあなただけかもしれません。しかしあなたは教会から送り出されてそこにいます。あなたのために祈っているミニチャーチの仲間に支えられてそこに立っているのです。そしてあなたもまた誰かの働きをいろいろな方法で支えているのです。日曜日の礼拝を開くためにも実に様々な働きが必要です。

B ティームを誤った教えから守るために

1) 不和やつまずきをもたらす人々を警戒する(17-18)

16節まで、挨拶の言葉を述べてきたパウロですが17節から再び勧めの言葉を始めました。先ず17−18節を読んでみましょう。

兄弟たち、あなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに反して、不和やつまずきをもたらす人々を警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。 こういう人々は、わたしたちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている。そして、うまい言葉やへつらいの言葉によって純朴な人々の心を欺いているのです。 (17-18)

私たちのティームに一致があることは、神様の意思です。サタンにとっては破壊してしまいたくイライラしていることでもあるのです。そこでサタンは、人々の心の隙間に入り込み、そこから破壊活動を行おうと試みるのです。私たちの心の隙間とは何でしょうか? それは、ねたみ、利己心、恨み、軽蔑といったものです。これらは私たちのもつ罪から出るものです。

幸い今のところユアチャーチではそのようなことは起こってはいませんが、教会では時々、聖書の教えに反する教えを、聖書が教えているかのように教え、教会を分裂させてしまうような人が現れます。教会の分裂には健康な分裂もあります。たとえばパウロとバルナバはアンティオキアの共同牧会者であり、宣教のパートナーでもありましたが、あるとき互いに妥協できない相違に直面しそこから別々の道を歩み始めました。神様は両方の働きを祝福されました、これは健康な分裂です。パウロとバルナバは激しい意見のぶつけ合いを経験しましたが、二人とも利己的ではありませんでした。問題は神様に仕えているといいながら、自分のために、自分の考えでキリストの体をコントロールしようと思う人です。誰でも神様に従おうとするのでなく、じぶんのうちに働く罪の性質に従ってしまうなら、それは結果としてサタンに従ってしまうことになるのです。ここを読むとローマの人々は聖書を正しく学んでいたのです。しかし後になって、それとは違う教えをする人が現れ混乱がおきていたようです。それはどんな教会にも起こりうることです。18節には、問題の人物は、うまい言葉、へつらいの言葉で人の心に取り入ると書かれていました。「良薬は口に苦い」(Good medicine tastes bitter) ということわざがあります。私たちの心も耳ざわりのよい教え、目新しい教えに飛びついてしまう傾向を持っています。「よい説教は耳に痛い」のです。

2) 善悪のセンスを身につける(19-20)

それでは、どうしたら教会を間違った教えから守ることが出来るのでしょうか?19節と20節を読んでみましょう

あなたがたの従順は皆に知られています。だから、わたしはあなたがたのことを喜んでいます。なおその上、善にさとく、悪には疎くあることを望みます。 平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう。わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。(19-20)

それは第一に従順であるということです。従順であるということはリーダーを盲信するということではありません。私たちの従順とはイエス様に対する従順であり、イエス様の体である教会に対する従順です。私たちは互いに体の一部として尊重し合うことを、この数ヶ月のローマの信徒への手紙のシリーズメッセージで学んできました。ここにしっかりとつながっているということが、ここで言う「従順」です。

パウロはその上に、良いことには敏感で、悪いことには関わってはいけないと勧めています。パウロの教えに従うためには何が正しく何が悪いのかというセンスを磨かなければなりません。このセンスは、神様との親密な交わりと、信徒の交わり、つまり礼拝とミニチャーチによって磨かれます。磨くということは簡単なことではありません。時間がかかります。労力がいります。犠牲を伴います。しかしこれらのことを惜しんでいるなら、聖書を教えながら実はイエス様の愛とは程遠い誤った教えに振り回されてしまうかもしれません。


C 宣教によって強くなる(25-27)

それでは25節〜27節までを読んで見ましょう。長い重要な手紙の締めくくりに相応しい内容です。

神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです。 その計画は今や現されて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました。 この知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して栄光が世々限りなくありますように、アーメン。(25-27)

1) 明らかになった神様の計画を伝える

パウロは自分のライフワークを神様の言葉のメッセンジャーだと自覚していました。パウロが生涯をかけて人々に伝えたかった「福音=良い知らせ」とは「イエスキリストについての宣教」ですと宣言しています。神様の計画はイエス様の十字架によって明らかになりました。しかしその計画は既にイスラエルの民に対する神様からの働きかけを通して始まっていたのです。預言者たちの書き物とは旧約聖書のことです。イエス様が登場しない旧約聖書も、実はイエス様が主であることを間接的に指し示す、神様の言葉なのです。神様の愛に生き、神様の愛を伝える。それはあなたのライフワークでもあります。

2) 伝えることで自分も強くなる

25節の前半に「神様は、宣教によってあなたがたを強める」と書かれています。神様は私たちを日々成長させていてくださいます。神様の私たちに対する教育方針はOJT(実際にやってみながら学ぶ)です。あなたが得たことを伝えることによってあなたも成長します。教室で先生に教わったことを、今度は誰かに教えてみると、その知識は自分にとっても確かなものになります。また自分が教えてみることで、自分の理解が不足している部分もわかるのです。宣教とか伝道とか聞くと、それは伝道者とか、宣教師の仕事と考えてしまいがちです。しかしそれは私たちのティームの働きです。

「そうですね、じゃ私は裏方でいいです」とは言わないで下さい。メッセージの始めの方でお話ししたことを思い出してください。私たちのティームは、ドラマ制作のティームとは違い「みんなが主役であると同時に、誰かが主役であるための裏方を努める」とお話ししました。私たちは皆、宣教の最前線に遣わされています。あなたがこれから教会の扉をあけて向かおうとしている日常があなたの最前線です。そこであなたは、神様からいただいた愛で愛します。そこにいるクリスチャンはあなただけかもしれません。しかしあなたは教会から送り出されてそこにいます。あなたのために祈っているミニチャーチの仲間に支えられてそこに立っているのです。そしてあなたもまた誰かの働きをいろいろな方法で支えているのです。

メッセージのポイント

宣教は、一個人の働きではなく、教会というティームによってでなければ出来ない働きです。ティームは人と人とのネットワークです。そこには常に、ティームを誤った方向に導いていこうとする人々が入り込む危険もあるのです。この危険を回避するために必要なことは、私たちがもっと神様に近づき、また神様の言葉である聖書に親しむことによって「善悪を見分け、善に従うセンス」を磨く以外にはありません。宣教とは恵みを独り占めにせずに与えることです。それはイエス様の姿勢に他なりません。私たちは伝え続けることによって、少しずつ主と同じ姿に変えられてゆきます。それがクリスチャンの成長、強くなってゆくということです。

話し合いのために

1) パウロが挨拶に言葉を中断してまで言っておきたかったこととはどのようなことだったのでしょうか?

2) あなたの同労者、協力者、援助者は誰ですか?