2005/10/2 メッセージ(マルコによる福音書1:1-20)
神の子イエスキリストの福音の初め
罪のないイエス様がなぜ、悔い改めのバプテスマを受けたのか?
1) 先に遣わされた使者・バプテスマのヨハネ(1-8)
神の子イエス・キリストの福音のはじめ。 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。 荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」そのとおりに、バプテスマのヨハネが荒野に現われて、罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを説いた。 そこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。 ヨハネは、ラクダの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。 彼は宣べ伝えて言った。「私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。 私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。」(1-8)
マルコは他の福音書と異なり、イエス様の誕生や幼少時のエピソードには触れずに、イエス様の宣教活動に集中している一番シンプルな福音書です。「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」と書き始めますが、最初に登場するのはイエス様ではありません。バプテスマのヨハネ(洗礼者ヨハネ)です。
数百年も前から旧約聖書の中で預言者たちは救い主が来られることを預言していましたが、それがこの時、人々の前に成就しようとしていました。マルコはイザヤ書の預言として紹介していますが、正確には、前半はマラキの預言(3:3)で後半だけがイザヤの預言(40:3)です。
救い主の宣教活動の始まりです。ヨハネは救い主の来られることを伝える最後の預言者になるとともに、救い主を自分の目で確かめることの出来た唯一の預言者になったのです。それは預言者の時代が終わり救い主の時がやってきたということを意味しています。それは、すべての人を解放するリレーチームの最終ランナー・イエス様に、直前の走者・バプテスマのヨハネがバトンを渡す瞬間です。新しい時代がここに到来しようとしていたのです。
ヨハネは、自分が最終走者ではなく、イエス様に救いのバトンを渡す直前の走者であることを知っていました。
ヨハネが生まれる前に、天使はヨハネの父ザカリアに、ヨハネがどのような役割を担って生まれてくるかを伝えました。ルカが伝えています。
彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子どもたちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。」(1:17)
先週のメッセージで、「神様が、心離れてしまったイスラエルの民の中にも、神様が少数の者を残される」とイザヤが預言したことをお話ししましたが憶えていますか?ヨハネはイザヤが預言した残された民を整えて新しい時代に備える、という役割を持っていたのです。ヨハネは、誰がすぐに現れる救い主の目に適う者なのか、知っていました。罪を悔い改め神様に立ち返る者です。ヨハネは彼の元にやってくる者に、悔い改めのバプテスマを授け、悔い改めに相応しい生き方を命じました。
今私たちは父、子、聖霊の御名によって、バプテスマを受けます。このバプテスマは、罪の自分が死に、神様に従って歩む「新しい人」として生まれること、イエス様を頭とする共同体の一部となることを意味していますが、ヨハネのバプテスマと同じく悔い改めのしるしでもあるのです。バプテスマを受け新しい命、永遠の命をいただくということは、徹底的な悔い改め、すなわち罪人であったそれまでの自分の行き方徹底的に否定することでもあるということを、私たちはしっかりと心に刻みつけておかなければなりません。そうでなければいつの間にか罪の泥沼に再びはまり込んでしまうおそれがあるからです。
2) イエス様、ヨハネに洗礼を授けられる(9-11)
そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。 そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。 そして天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」(9-11)
さて、イエス様とヨハネ、二人が最初に出会ったのはいつでしょう?ルカによると、ヨハネの母エリザベトとイエス様の母マリアは親類でした。ともに母親の胎内に宿っている時に、マリアはエリザベトを訪ねています。マリアが挨拶するとエリザベトの体内のヨハネは喜び踊りました。それが最初の出会いです。もちろん互いに顔と顔を見合わせたわけではありませんが。それからおよそ30年後のこの日まで、ザカリア家とヨセフ家の交流について聖書は何も語っていません。ヨハネは死海にヨルダン川が注ぐあたりの荒野で預言者として活動を始め、イエス様は家族と過ごしたガリラヤ湖畔の町ナザレを離れ南に向かいます。ここで二人は、最後の預言者と救い主として再会するのです。
ヨハネにとって、イエス様がバプテスマを授けて欲しいと願われたことは、驚きでした。ヨハネのバプテスマは悔い改めを決意した者のしるしです。ヨハネはイエス様が悔い改めの必要のない特別な方であることを知っていたからです。
イエス様は、「悔い改めの必要なすべての人とともに歩まれる」という意思をはっきりと示すために、バプテスマを受けられました。イエス様は、あなたが悔い改めを必要なほど罪深いことを責められる方ではありません。ただ素直に悔い改めることを求めておられるのです。
新しいミニストリーを始める時
1) 準備は出来ているか?(12-13)
そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。 イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた。(12-13)
主はヨハネのバプテスマを受けてすぐ活動を始められませんでした。イエス様に下った聖霊は、イエス様に、世を支配するサタンの誘惑に勝つことを求めました。ちょっと昔にキリスト教会ではやった言葉で言えば「霊的戦い」です。イエス様の勝利は当然です。しかしサタンには、イエス様と彼に心から従って歩む者に対しては勝ち目はないということを、はっきりさせておく必要があったのです。これはイエス様のミニストリーを始めるにあたって欠かすことのできない準備でした。今、私たちもここを読むことによって、主のミニストリーがサタンを敵とする戦いであるということ、主が勝利なさることを知るのです。
あなたはこれから、どのように主に仕えてゆきたいと思っていますか?私たちが何か新しい働きを始める時にも、「この働きを主とともになしとげる」という確信を得るために単なる「心の準備」以上の霊的な準備が必要なのではないでしょうか?すなわちそれは、充分な祈りの準備、神の言に聞くという準備です。
この教会を始めるにあたって私たちもまた、多く祈らされ、神様の言に耳を傾けさせられました。サタンの仕業かと思えるような中傷や、もっと楽な道を選べば、という、誘惑もありました。しかし、この時に時間をかけて備えをしたので何回かの大きな変化にもかかわらず私たちの確信はゆるがないのです。そして神様はこのミニストリーを今も豊かに祝福して下さっておられるのです。
2) タイミングは悪くないか?(14-15)
ヨハネが捕えられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。 「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(14-15)
イエス様の宣教の最初の言葉です。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」イエス様はこれより早くも遅くもない、このタイミングで、福音を信じなさいと宣べ始めたのです。解放の時が来た。神の国が近づいたのです。
どんなに私たちが急いでも、神様の時が来なければ物事は動き出しません。コヘレト3章は、すべての事に神様の定めた時があると教えています。時々思わぬ早さで物亊が運んでしまうこともありますが、大抵の場合、神様より私たちの方がせっかちなので、神様のタイミングを遅いと感じてしまいます。イエス様のGOサインをいつも正確に受けとることのできる人はいません。しかし出来るだけ注意深く、自分の感情にたよらずに聞くように心がけなければ失敗を続けることになります。
3) ともに歩む人はいるか?(16-20)
ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」 すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。 また少し行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネをご覧になった。彼らも舟の中で網を繕っていた。 すぐに、イエスがお呼びになった。すると彼らは父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して、イエスについて行った。(16-20)
さあ霊的な準備もできました。神様のGOサインも出ています。イエス様がはじめに手を付けたことは、弟子を集めることでした。イエス様は、この働きをー人だけでなさるつもりはありませんでした。イエス様はその働きが、ご自身が地上で歩まれる時間より、はるかに長期戦になることを知っておられました。だから後の時代の教会の歩みのために、弟子を選び出す必要がありました。彼らを育ててイエス様が天に帰られた後も福音を伝え続けることができるようにすることが宣教と同時に大切な仕事だったのです。これは現代の教会の課題でもあります。牧師であれ、他のリーダーであれ自分と同じことをする人を育てる責任が与えられているのです。来週ミニチャーチについてお話しする予定ですが、このミニチャーチライフこそ、このことを実践する最高の機会です。ミニチャーチが教会の成長の鍵であると同時にあなた自身の成長の鍵なのです。リーダーにとってもメンバーにとっても、そうなのです。
皆さんも、ミニチャーチに仲間を誘い、ともに歩む人を見つけ、互いの成長を助けて、イエス様が始めてくださった働きに加わってください
メッセージのポイント
イエス様が宣教を始めるためになさった事柄は、真の神様でありながら真の人として歩もうと決意されたイエス様に相応しい事柄でした。バプテスマだけではなく誘惑を受けたり、ともに歩む仲間を集めたりしています。もしあなたが何か新しい働きを担いたいと願うならば、イエス様がなさったように、良い備えをしなければなりません。
話し合いのヒント
1) なぜ罪のないイエス様が、悔い改めのバプテスマを受けられたのでしょう?
2) 聖霊様がイエス様を荒野へ連れ出したのはなぜだと思いますか?