2005/10/23 メッセージ イザヤ書シリーズA(1:21-31)

悔いて、改めなさい

今日取り上げるテキストは、イスラエルの堕落と回復の預言を通して誰もが堕落する可能性を持っていること、そして堕落してもやり直す道があることを教えてくれます。人生のやり直しのキーワードは「悔い改める」です。この言葉を中心に私たちが神様との関係を確立し、それを保ってゆくためにはどうしたらよいかを考えてゆきましょう。最初に今日のテキストの全体を読んでゆきましょう。

どうして、遊女になってしまったのか忠実であった町が。そこには公平が満ち、正義が宿っていたのに今では人殺しばかりだ。 お前の銀は金滓となり良いぶどう酒は水で薄められている。 支配者らは無慈悲で、盗人の仲間となり皆、賄賂を喜び、贈り物を強要する。孤児の権利は守られずやもめの訴えは取り上げられない。(21-23)

それゆえ、主なる万軍の神イスラエルの力ある方は言われる。災いだ、わたしは逆らう者を必ず罰し敵対する者に報復する。 わたしは手を翻し灰汁をもってお前の滓を溶かし不純なものをことごとく取り去る。(24-25)

また、裁きを行う者を初めのときのように、参議を最初のときのようにする。その後に、お前は正義の都、忠実な町と呼ばれるであろう。シオンは裁きをとおして贖われ、悔い改める者は恵みの御業によって贖われる。 背く者と罪人は共に打ち砕かれ、主を捨てる者は断たれる。(26-28)

慕っていた樫の木のゆえにお前たちは恥を受け、喜びとしていた園のゆえに嘲られる。 お前たちは葉のしおれた樫の木のように、水の涸れた園のようになる。 強い者も麻の屑となり、その行いは火花となり、共に燃え上がり、消す者はいない。(29-31)

A.堕落は裁きを招く

1) 正義はなぜ失われているのか(21-23)

どうして、遊女になってしまったのか忠実であった町が。そこには公平が満ち、正義が宿っていたのに今では人殺しばかりだ。 お前の銀は金滓となり良いぶどう酒は水で薄められている。 支配者らは無慈悲で、盗人の仲間となり皆、賄賂を喜び、贈り物を強要する。孤児の権利は守られずやもめの訴えは取り上げられない。(21-23)

21-23節をみてください。イスラエルは、神様が人々を愛し、祝福するための最初の足がかりとして、直接ご自身をあらわされた民です。しかし、イスラエルは最初の恵みと信仰を忘れ次第に神様に背くものとなってゆきます。かつては公平で、正義があったのに、それらはやがて軽んじられるようになり、ついには忘れ去られて、人々の心は堕落し、堕落は社会全体に現れていたのです。

私たちは堕落という言葉をめったに使いません。堕落とは、持っていた良い性質を失い、罪深い者となり、態度にもそれが反映されることです。創世記の天地創造の記事を読むと、神様はあらゆるものを創造され、最後に人を造られたと書かれています。そして創られたものの全てをご覧になられ、極めて良かったと感じられたのです。

今私たちの社会は、「極めて良い」と言えるでしょうか?また神様はそう評価してくれるでしょうか?残念ながらそうではないでしょう。正義がどこにもないわけではありません。弱い者に手を差し伸べる働きも、あちこちでなされています。しかし、それが何か特別に素晴らしいことに見えること自体が、不公平と悪が地に満ちている証拠です。

私たちが、犯罪を犯して後悔しているのでもない限り、自分が堕落しているなどと考えもしないのは、私達が生まれながらに堕落した心を持って生まれてくるからです。

「罪のない子供」といった言い方をしますが、聖書は大人であれ子供であれ罪のないものは一人もいないと指摘します。子供は誰からも、「人のおもちゃを奪いなさい」と教えられないのに、一緒に遊んでいる子の物を取り上げます。その子が抵抗すると、「相手が抵抗したら、力で言うことを聞かせなさい」と教えられてはいないのに突き飛ばして、泣かせてしまいます。誰かが、それを聞きつけて叱ると、「自分の立場が悪くなったら嘘をついてその場を切り抜けなさい」と教えられたわけでもないのに「ちがうよ、この子が先に僕をぶったんだ」と嘘をつくのです。この性質は、自然になくなったりはしません。それはむしろ、知恵と体力と経験が増すとともに、悪質に、巧妙になってゆきます。

小学校でのいじめや暴力が社会問題として取り上げられますが、同じことが大人の間で起きています。大人に子供たちを責める資格はありません。社会の不正義をそのままに教室の中で正義を回復することはできないのです。

2) この状態は変わらないのか? (29-31)

次にテキストの順番が前後しますが、29-31節を読んでみます。

慕っていた樫の木のゆえにお前たちは恥を受け、喜びとしていた園のゆえに嘲られる。 お前たちは葉のしおれた樫の木のように、水の涸れた園のようになる。 強い者も麻の屑となり、その行いは火花となり、共に燃え上がり、消す者はいない。(29-31)

こうして人は、大人であれ子供であれ、自分の欲望に従って欲しいものを手に入れ、できるだけ人には与えないように努めます。人より多く、人よりも良いものを、人よりも高い地位を。自分の痛みには敏感で、人の痛みには無関心に。

しかし、ある人はふと、この生き方の虚しさに気付きます。樫の木のように堅く確かなはずだった自分の価値観が、実は何の価値もないものであることに気付くのです。そのことを認めることは難しいことです。しかしそこに身を置き続けるなら、この状態は変わりません。それは神様があなたに与えたかけがえのない、価値ある人生を、慢性的な自殺として浪費することに他なりません。

作家の三浦綾子さんは第二次世界大戦が終わる前に、小学校の教師をしていました。彼女は政府の方針のままに、天皇を神とあがめ、天皇のために全てをささげることが日本人にとって一番大切なことだと教えてきました。戦争が終わったとたんに、今まで教えてきたことを全て否定して、民主主義を教え始めることに、それが正しいことであっても、そうしなければならないことに大きな虚しさを感じたそうです。社会も、自分の心に中も混乱していた中で、彼女は一生ベッドの上で過ごさなければならなくなるかもしれない重病にかかるという重荷を負いました。自殺をも考えましたが、彼女は友人を通してキリストを知り、1999年に亡くなるまで、小説、随筆を通して、信頼すべきは、権力者でも、自分でも、財産や名誉でもなく、神お一人であることを伝え続けました。多くの人が慕っていたものに失望しますが、多くの場合は、また別の虚しいものを慕い始めます。これでは状態を変えることは出来ません。たった一つの回復への道は、あなたの造り主のもとに帰ることです。聖書は、神のもとに帰る道が2000年前に私たちに示されたことを教えてくれます。ヨハネによる福音書14章6節でイエス様はご自身についてこう証しされました。

イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。

3) 神様は見過ごしにはなさらない (24-25)

第二次世界大戦が終わって60年、この国は経済的には豊かになりましたが、公平と正義は行き渡ってはいません。弱者への配慮も十分ではありません。心の荒廃はむしろよりひどくなっています。神様はこの状態をどう見ておられるのでしょうか?24節と25節を読みましょう

それゆえ、主なる万軍の神イスラエルの力ある方は言われる。災いだ、わたしは逆らう者を必ず罰し敵対する者に報復する。 わたしは手を翻し灰汁をもってお前の滓を溶かし不純なものをことごとく取り去る。(24-25)

イスラエルが神様に背き続け欲望のままに歩んだ結果は、聖書に明らかです、イザヤの預言の通りになりました。私たちの社会も同じことが起こるのでしょうか?先にお話しした三浦綾子さんと同世代に人々は、あの敗戦をきっかけとして本当に価値あるものを摸索しました。リバイバルといわれるような状況が起こりました。しかしここでまかれ芽を出した種の多くは育ってゆく途中で失われてしまいました。高度経済成長といわれた時代です。人々は心の豊かさを軽んじ、物質的豊かさに目を奪われました。そのあとやってきたバブル経済といわれた時期、この傾向がピークに達したので、このバブルがはじけた時、人々は心を神様に向けるのではないかと、海外のクリスチャンたちは期待しました。でも私は、このくらいのショックでは神様に心を向けないほどこの民は頑固だと思っていました。残念ながらその予想は当たってしまいました。この国がこのまま突き進めば、イスラエルと同様、国自体がなくなってしまうほどに出来事が起こっても不思議はありません。神様は忍耐強いお方ですが、それをいいことに国が欲望のままに進んでゆくなら、その日はやがてやってくるでしょう。私たちはその日が来る前に一人でも多くの人々が、主に立ち帰ることができるよう働いているのです。

B.悔い改めが回復をもたらす

1) まずは神様との関係回復から(26-28)

残っている26-29節を読みましょう

また、裁きを行う者を初めのときのように、参議を最初のときのようにする。その後に、お前は正義の都、忠実な町と呼ばれるであろう。シオンは裁きをとおして贖われ、悔い改める者は恵みの御業によって贖われる。 背く者と罪人は共に打ち砕かれ、主を捨てる者は断たれる。(26-28)

神様は堕落したイスラエルを回復されるために興味深いプロセスをたどる、とイザヤは預言しています。裁きを行う者と参議を最初の時のようにするとは、良心に従って正しく、裁くもの、民を導く者が立てられるということです。その働きによって神様に忠実な正義の町が実現するというのです。神様は、世界全体を空気を入れ替えるように変えようとなさるのではなく、そこに住む人の心を変えることから始められるのです。それが私たちの心におこる「悔い改め」ということです。この言葉は日本語では「悔いる」と「改める」という二つの言葉を合わせた言葉です。後悔し、方向転換をするという意味です。「今までの歩みは間違っていました。神様ごめんなさい」ということと「今度こそ正しい道を神様に従って歩んで行く」ということです。世界について、職場について、家庭について嘆く前に、あなたがするべきこと、それが、「悔い」と「改め」です

2) 世界の回復のためにあなたのできること(マタイ 5:13-16)

個人の悔い改めが、神様との正しい関係の回復となり、それが社会全体に影響を及ぼすのです。あなたが神様との関係を回復したら、あなたはこの世界の回復のために働くことが出来るのです。イエス様はこの社会に置かれたクリスチャンの役割をわかりやすい言葉で教えてくれています。マタイによる福音書5章13-16です

「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタイ 5:13-16)

これが、私たちがこの社会の中に置かれている理由です。少量の塩でも料理の味をしっかり調えることが出来るように、神様の者となったあなたは、その良心に従って社会に働きかけることが出来ます。塩が瓶の中に固まっているように、教会の中にとどまっているなら役には立てないのです。ユアチャーチは塩として社会に貢献しているでしょうか、世に希望の光としてとどいているでしょうか?このことにおいて神様の期待に応えてゆけるよう、みんなで歩みを続けてゆきましょう。

メッセージのポイント

イスラエルの堕落と裁き、回復についてのこの預言は、私たちに「悔い改める」ことの重要さを教えてくれます。神様に従って行く道は、間違えること、迷うことが赦されないものではありません。失敗しても気付いて再び立ち返るチャンスが与えられるのです。

また「悔い改め」は個人にだけではなく、民族、国家、社会にも求められているということを教えてくれています。私たちには「自分が神の義に適った者になる」ということだけではなく「私の国、私の民が、神の義に適ったものになる」という課題が神様から与えられているのです。

話し合いのヒント

1) 神様との関係回復の第一歩として必要なことは?

2) 贖われるとはどういうことでしょうか?