2005/10/30 メッセージ
「礼拝をもっと楽しもう!」

牧師となって数年後に、神様はもっと違う礼拝を求めておられるのではないだろうか?と思い始めました。本を読んだり、いろいろな教会を訪ねたりして求め続けましたが、最後にヴィンヤードという教会を訪ねて、答えを発見したのです。今でこそ世界中に何百とある教会ですが、その時には南カリフォルニアでムーヴメントが始まったばかりの頃でした。そこで「礼拝を楽しむ」という言い方を聞いたとき、ちょっとカルチャーショックを受けたのです。それまで礼拝は厳粛に神様に奉げるものだ。と感じてきましたし、神学校でもそう教わりました。「礼拝を楽しむ」なんて言葉は私の辞書にはなかったのです。

A.礼拝はお祭りだ

1)基調は喜びの表現です(サムエル下6:12-16)

なぜクリスチャンは日曜の朝に礼拝を行うのでしょうか?ユダヤ教徒は土曜日を安息日、聖なる日と考えていました。ユダヤ人である初代のクリスチャンたちは、安息日の習慣を守りながらも、週の初めの朝に集まり礼拝することを始めたのです。それは、イエス様が復活されたことこそが、希望と喜びの原点だったからです。だから礼拝は第一に主イエス様との交わりを喜び楽しむお祭りなのです。サムエル記下6:12-16を読んでみましょう

神の箱のゆえに、オベド・エドムの一家とその財産のすべてを主は祝福しておられる、とダビデ王に告げる者があった。王は直ちに出かけ、喜び祝って神の箱をオベド・エドムの家からダビデの町に運び上げた。 主の箱を担ぐ者が六歩進んだとき、ダビデは肥えた雄牛をいけにえとしてささげた。 主の御前でダビデは力のかぎり踊った。彼は麻のエフォドを着けていた。 ダビデとイスラエルの家はこぞって喜びの叫びをあげ、角笛を吹き鳴らして、主の箱を運び上げた。 主の箱がダビデの町に着いたとき、サウルの娘ミカルは窓からこれを見下ろしていたが、主の御前で跳ね踊るダビデ王を見て、心の内にさげすんだ。 (サムエル下6:12-16)

ダビデ王は優れた政治的指導者であったばかりではなく、ワーシップリーダーとしての賜物を豊かに与えられていた人でした。神様の臨在を象徴する神の箱を自分の町に迎え入れた時の様子です。ダビデを始めとして民は喜び歌い踊らずにいられなかったのです。けれども、その中で一人だけさめた目で見ていた人がいました。王妃のミカルです。彼女は前の王サウルの娘です。由緒正しい王の娘としてのプライドが、羊飼いから王に成り上った夫ダビデの心からの礼拝の表現を理解できなかったのです。私たちの心にもミカルが住んでいて、礼拝のすばらしさを十分に受けとれないということが起こります。

2) 私たちはなぜ歌うのでしょうか?(詩編33:1-3)

主に従う人よ、主によって喜び歌え。主を賛美することは正しい人にふさわしい。 琴を奏でて主に感謝をささげ十弦の琴を奏でてほめ歌をうたえ。 新しい歌を主に向かってうたい美しい調べと共に喜びの叫びをあげよ。(詩編33:1-3)

それは、神様が私たちの歌を喜んで下さるからです。昔から歌は神様に対する私たちの大切な表現です。また歌だけでなく楽器の演奏やダンスも神様に対する表現であることがわかります。神様の恵みは曰々新しく、私たちをとりまく環境もどんどん変化してゆきます。だから新しい歌が生れるのです。

3) 礼拝の時は一方通行ではありません(使徒言行録16:25-26)

真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。 突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。(使徒言行録16:25-26)

パウロとシラスは捕らわれていても礼拝をささげました。しかも真夜中にです。礼拝は私たちがささげるものですが、神様はそれをどこかで聞いているのかいないのかわからないような方ではなく、そこに神様もいて下さり叫びを聞いて応えて下さるのです。この時は、牢の戸はみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまいました。一瞬にしてすべての囚人が神様の手で解放されてしまったのです。しかしもっと不思議なことに、囚人たちは一人としてそこから逃亡しようとしませんでした。それが地震といったような単なる自然な出来事ではなく神様の臨在が深く支配していたことが分かります。この神様の臨在が私たちのこの場に満ち満ちて現されることを願うなら、私たちにはなすべきことがあります。それがBの私たちが礼拝において神様に奉げるいくつかのことです。

B.礼拝においてあなたが神様に献げるもの

1) 讃美・感謝・願い・愛・悔い改めを歌や祈りとして(詩編44:9,27/116:1,2/51:3-4)

44:9 我らは絶えることなく神を賛美し/とこしえに、御名に感謝をささげます。

44:27 立ち上がって、我らをお助けください。我らを贖い、あなたの慈しみを表してください。

116:1-2 わたしは主を愛する。主は嘆き祈る声を聞き わたしに耳を傾けてくださる。生涯、わたしは主を呼ぼう。

51:3-4 神よ、わたしを憐れんでください御慈しみをもって。深い御憐れみをもって背きの罪をぬぐってください。 わたしの咎をことごとく洗い罪から清めてください。

紹介した以外にも詩編には、様々な内容の神様に対する表現が礼拝においてなされていることを発見できます。詩編は元来、読むためのものではなく歌うための「ワーシップソング集」です。皆さんが主に向かって歌う時も、どうか心を込めて思いの全てを主に向かって表現してください

2) 感謝のささげもの(マラキ3:10, IIコリント9:6-7)

十分の一の献げ物をすべて倉に運び/わたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと万軍の主は言われる。必ず、わたしはあなたたちのために天の窓を開き祝福を限りなく注ぐであろう。(マラキ3:10)

つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。 各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。(IIコリント9:6-7)

今私たちは、動物の犠牲を求められてはいません。しかし神を信じて従う者にとって、このマラキの原則は今も有効です。献金は私たちの捧げる礼拝の一部です。ただ私たちは、それを礼拝のプログラムの中で行うことはしません。それは聖餐式を礼拝の前に行うのと同じ理由です。つまり、クリスチャンではない方のための配慮なのです。


3) 礼拝の祭司としての務め(サムエル下6:17-19)

人々が主の箱を運び入れ、ダビデの張った天幕の中に安置すると、ダビデは主の御前に焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげた。 焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげ終わると、ダビデは万軍の主の御名によって民を祝福し、兵士全員、イスラエルの群衆のすべてに、男にも女にも、輪形のパン、なつめやしの菓子、干しぶどうの菓子を一つずつ分け与えた。民は皆、自分の家に帰って行った。(サムエル下6:17-19)

ダビデはこの時、ただ自分が喜び踊っていただけではなく、人々に対して祭司としての様々なケアをしていたことが分かります。私たちの礼拝においても、その中で多くの祭司的務めがなされなければ礼拝は成立しません。礼拝一時間前に来て掃除や印刷をする人々がいます。礼拝の中ではワーシップリーダー、ワーシップティーム、メッセンジャー、メディアティームが働きます。これらの働きも礼拝の一部です。そしてこれらの務めは、その教会のメンバーに託されているのです。

C.礼拝においてあなたが神様から受け取るもの

1) 霊的な糧(詩編119:105-107)

礼拝は一方通行ではないとお話ししましたが、それでは神様は礼拝の中でどのようなものを与えてくださるのでしょうか?先ず始めに詩編119:105-107を読んでみましょう。

あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。 わたしは誓ったことを果たします。あなたの正しい裁きを守ります。 わたしは甚だしく卑しめられています。主よ、御言葉のとおり命を得させてください。(詩編119:105-107)

礼拝に中で説教者は、神様の言葉を人々に伝えます。人はパンだけで生きているのではなく、神様の口から出る言葉によって生きるのです。どんなに体に必要な栄養をとっても、心の栄養が欠乏すれば人は「生き物」としての命は維持できても、「人として」生きてゆくことは出来ません。説教者を通して語られる神様の言葉を真剣に受け取り、日常生活に活かしてください。

2) 心と体の癒し(詩編41:5)

詩篇の中でも、「癒してください」という痛切な叫びが多く聞かれます。そして神様はその叫びに応えてくださる方です。どうか皆さんも大きな期待を持って礼拝にいらしてください。神様は礼拝の中で瞬間的に癒してくださることもあるのです。

わたしは申します。「主よ、憐れんでください。あなたに罪を犯したわたしを癒してください。」(詩編41:5)

3) 神様の導き(詩編107:28)

苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと主は彼らを苦しみから導き出された。(詩編107:28)

実際の道に迷うことがあるように私たちの心も迷子になってしまうことがあります。自分はどこにいるんだろう、どこから来たのだろう、どこに向かっているんだろう。人生の正確な地図を持っている人はいません、しかし神様はそれをお持ちです。私たちは地図をもってはいませんが、正確な地図を持っておられる神様に従って行くなら、正しい道をたどることが出来るのです。あなたが心の迷いの内にあるのなら、礼拝の中で心に叫ぶことが出来ます。神様は従って来る者に、正しい道を示してくださいます。

メッセージのポイント

礼拝を楽しんでいますか?礼拝は週に一度の祝典です。そこで私たちは神様とともに歩めることを喜び、心を込めて愛と感謝と希望を神様に向かって表します。神様もまた私たちの表現に応えて、様々な形で私たちを恵みのうちに満たしてくださいます。この恵みを糧として私たちはその週を力強く歩むことが出来るのです。礼拝はミニチャーチとともに教会の両輪です。礼拝とミニチャーチがあなたの生活の優先順位の最上位におくことこそが、豊かに実を結ぶ歩みの秘訣です。

話し合いのために

1) あなたにとって礼拝とは何かと問われたらどう答えますか?

2) ユアチャーチでは礼拝の始めに30分以上歌を歌います。なぜですか?