2005/11/6 メッセージ(マルコによる福音書シリーズA1:21-28)

神様の権威があなたの力

A. 律法学者の教えvs.イエス様の教え(21-22)

一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。(21) 人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。(22)

今朝のメッセージの舞台、カファルナウムはガリラヤ湖北西岸のにぎやかな町でした。この地方での宣教の中心的な町です。この町のシナゴーグと呼ばれるユダヤ教の会堂でイエス様は教え始められました。

4つの福音書にはそれぞれ特徴があります。それで私たちはイエス様がどんなお方なのかをいろいろな角度から知ることが出来るのです。今日のテキストにもマルコの特徴のひとつがよく出ています。あなたが今まで知らなかったイエス様の一面を今日発見してください。聖書の学者たちが福音書の違いを研究するのに用いる方法のひとつは、言葉の使い方の特徴に注目することです。この二つの節に教えるとか教え律法の教師(律法学者)という言葉が四つも出てきます。どれも同じギリシャ語の語源を持った言葉です。他の福音書と比べマルコはこれらの言葉を多用しています。つまりマルコは、イエス様の先生としての側面をよく描いているということです。ここでマルコはイエス様がどう教えられたかを律法の教師と比較して述べています。その違いは、そこに居合わせた人にはすぐにわかるほど決定的なものであったようです。


1)表面的 vs. 本質的

 ラビと呼ばれていたユダヤ教の教師は律法をどう守るかについて教えました。それは事細かな作法のようなものでした。彼らの教えを学んで守れば、その社会の中で神様の前で正しい人、常識的な人と認められることは出来ました。しかしそれは、心の奥底にまでしみこんでくるような人生に関わる深い教えではありませんでした。

 イエス様の教えは、当時の人にしてみればほとんど革命的なものでした。それは表面的に神様に従うための作法を教えるものではなく、人間の絶望的な罪深い状態をはっきり宣告した上で、そこから再び神様に、今度はしっかりと結びつくために必要な、心の革命を説いたのです。「定められた決まりを守っていれば正しい」という人間観には限界があります。ラビの教えには、人の深刻な罪をどう克服できるのかという点が欠けていました。どのようにすれば幸せになれるか、どうすればあなたの人生を改良することが出来るかを説く本は今でも沢山あります。どれも具体的な数字で心をくすぐります。「一週間でセレブな女になる」とか「子供をエリートにする3歳からの教育法」「あなたもできる、30歳で年収5000万円を実現する7つの法則」とか、つい手にしてみたくなりますが、それを読んで夢がかなう人はほとんどいないのです。それを読んだからそうなれたという人は多分読めなくてもなれたに違いありません。しかも、そうなれたからといって幸せが保証されたわけではないのです。

イエス様は、今まで誰も教えようとしなかったことを教えられました。それは、律法を守ることよりはるかに意味がある事でした。それは「神様の本質=愛」です。神様を愛しなさい、互いに愛し合いなさい。そのために今までの在り方、生き方を改めて神様に従いなさい。そこに、あなたの悩み、問題の解決があるのです。


2)伝統的 vs. 根本的

律法学者は自分たちの教えを集めた「律法の守り方」みたいな本にまとめて、それを教えていました。確かにその原点は旧約聖書の律法にあったのですが、いつの間にか、神様の言葉である聖書ではなく、その「ミシュナー」と呼ばれる彼らの伝統を教えることが中心となっていました。イエス様は、ラビたちが忘れてしまった聖書の教えの核心に人々の心を向けさせるために教えました。イエス様の教えは、当時の人々にとっては新しい教えと受けとられましたが、実は人間の伝統によって背後に隠されてしまった神様からのオリジナルメッセージに再び光をあてる根本的な教えだったのです。

 私たちもまたラビたちと同じ過ちを犯す危険を抱えています。イエス様の福音ではなく、自分の教会の伝統を神様の教えとして教えてしまうという間違いです。たとえば、礼拝の時のドレスコードとか、禁酒・禁煙とか、この形式の洗礼でなければ救われていない。といったことに厳しい教会があります。どうか特定の教会を非難していると誤解しないで下さい。地上にあるすべての教会はこの間違いを起こします。どんな教派・教会でも独特な文化・伝統があるのです。それ自体は、素晴しい事です。多くの場合その教会の在り方にかなってできてきた伝統だからです。しかし、それをクリスチャンであることの条件であるかのように教え命じるなら、キリストの体の他の部分(教派や教会)を否定することになってしまいます。さらに悪い事に、伝統はどんどん大きくなっていちばん大切なところを隠してしまいます。

 多くの方がユアチャーチの文化を好んでくれます。私たちも大好きです。しかしそれが、私たちが人々に伝えたいことではありません。伝えたいのは主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」というキリストの福音です。皆さんは毎週の日曜の朝をどんな気持ちで迎えていますか?それは自分の罪を悔いて十字架の下にひざまずいている私が、罪赦されて復活のイエス様に近づく、そんな気持ではないでしょうか?ここに信仰の原点があることを忘れないようにしましょう。


3)エリート向け vs. 万人向け

 当時のユダヤ教は、「立派な人向け」の宗教になっていました。教養があり、経済的余裕がある人、地位がある人でなければ、守ることの出来ない教えでした。けれどもイエス様は、そうではない大多数の人々に向かって教えられました。今日の個所では会堂の中で教えていますが、イエス様は会堂の中よりむしろ、人々の中に入っていって教えられることを好まれました。イエス様が教え始めると、その権威に皆が驚いたようですが、それは大学教授の講義のような難解なものではありませんでした。子供でもわかるようなたとえを用いて話されました。

 たとえのすぐれたところは、同じ話をしても、その人の霊的な理解力によって、その人にふさわしいレベルの理解を与えることができるという点です。イエス様の弟子たちの中に高等教育を受けた人はほとんどいなかったのです。イエス様のたとえの本質を理解せずに、その真意を聞き返したりもしています。イエス様は、人々が理解するべきことには理解を与え、隠されておくべきことは、たとえによる表面的な理解しかお与えになりませんでした。完全な理解はイエス様の復活を待たなければなりませんでした。しかし今聖書の真理は、あらゆる人々に開かれています。小さな子供からお年寄りにまで、読み書きのできない人にも、語られることによって開かれているのです。

B. 権威に基づく力の表れ(23-28)

人々が直感したイエス様の権威は実際の力となってその場で現れました。

そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。 「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」 イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、 汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。 人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」 イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。(23-28)

 この男が騒ぎ出した時、会堂内は異様な雰囲気になりました。しかしイエス様の「黙れ。この人から出て行け」の一言でこの人を苦しめていた悪霊は去ってしまいました。イエス様には、エクソシストの呪文も、道具も、作法も必要ありませんでした。ただ一言「黙れ。この人から出て行け」でよかったのです。イエス様の権威は、内容が素晴らしいというだけでなく、実際の力も伴っていたことが、目に見える形で証明されたのです。

 今では、悪霊を追い出す、という機会はめったにお目にかかれません。発達した精神医学が、イエス様の時代であれば悪霊の追放しか方法のない状態の人々のほとんどの症状に効果的な治療法をもっています。もちろん、だからといって悪霊追放は現代の教会には必要ないと言い切ってしまうことはできません。なぜ精神的な問題が起こるのかという根本的な原因を人は突き止められないからです。実際に医療では解決がつかず、追い出して解決することもあるのです。

 しかし、悪霊の追い出しを誰もがする必要はありません。それはエキスパートに任せておけばよいことです。それよりもここに私たちが学ぶべきより重要なことがあります。それは神様から私たちに与えられている権威が非常に大きいということ。そして、それをあなたが実際の力として用いることが出来るということです。あなたの祈りが、あなたのアドヴァイスが、あなたの行動は、神の国の力として、人の生活に変化をもたらすということを信じ、実際にやってみてください。必ず素晴らしいことが起こります。なぜそのようなことを言えるのでしょうか?それは私たちが権威を持ち、力を発揮されたイエス様の体の一部とされているからです。

メッセージのポイント

イエス様が宣教を始めた時、人々は新しい聖書の教師の一人が登場したとしか考えませんでした。しかしイエス様は、聖書の教師ではなく、聖書の証する神様御自身でした。誰かが書いた本について教えるのと、自分の書いた本について教えるのと、どちらが権威を感じるでしょうか?しかもイエス様は知識として教えるだけではなく、聖書の伝える神様の言葉を、実際の生活の中でどう用いるか、実際にやってみせ、弟子たちにも実習をさせました。だから、ご自身が天に帰られてからも、クリスチャンはキリストの体として、人々に愛と希望と信仰の力を与え続けてこられたのです。もし私たちが教養として聖書を学ぼうとするなら、それは生活の力とはなりません。聖書を数ある人生の処方箋のような書物と同じように読むことも可能です。しかし聖書は神様の言葉です。この言葉を身につけることは、この地上には勝るもののない神様の権威を帯びるということなのです。

話し合いのヒント

1)律法学者の教えとイエス様の教えはどう違っていたのですか?

2)あなたの信仰には神様の権威と力が現れていますか?