2005/11/13 メッセージ
説教についての説教
先々週、礼拝についてお話ししました。今朝のメッセージの主題は、その礼拝の中の、今こうして始めているメッセージについてです。
私が10代だった頃、30歳以上の人の言うことは信用してはいけないと堅く信じていました。その私が今50歳になって、皆さんの前でお話ししています。毎週毎週、辛抱強く30分時には40分近くも。もしこのことが皆さんにとって何の役にも立たないことだとしたら、私はみなさんの貴重な時間を奪っていることになります。しかし、神様はこんな私を通しても語ってくださることを私は信じています。でなければ私はここに立つことは出来ませんし、神様が、私が語ることを望まれないなら、ここから取り去られるでしょう。皆さんは宝石箱に入った石ころと、古新聞に包まれたダイヤモンドのどちらかを差し出されたらどちらを選びますか?私のお話しは後者です。私の言葉は古新聞のようであっても、そこにくるまれているダイヤモンドのような神様の真理を受け取っていただきたいのです。
A. 説教とは何でしょう?
ユアチャーチでは週に何回か礼拝が行なわれ、毎回必ず牧師の話があります。最近は「メッセージ」と呼ぶことが多いのですが、伝統的には「説教」と呼ばれています。 説教とは何でしょう?元々は「教えを説く」という意味なので、あいまいな「メッセージ」という言葉より、この方が正しいのですが、説教という言葉は、親や先生から聞きたくもない小言を長々と言われる、というイメージが強いので、ソフトに言い変えているわけです。誰も「牧師のお説教があるから教会に行ってみない」なんて誘いたくないですからね。
1)なぜ日曜礼拝で説教がなされるのでしょうか?(申命記8:2-3)
それは肉体的な栄養だけでなく、霊的な栄養「神の口から出る言」がなければ、人は人として生きてゆくことが出来ないからです。申命記はその大切さをこのように伝えています。8:2-3です。読んでみましょう。
あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。 主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。
説教は礼拝の重要な要素の一つです。先々週の礼拝についての説教の中で、礼拝は一方通行ではないとお話ししました。説教は神様から与えられる霊的な食事の部分です。食事をしなければ元気が出ません。全く食べなければ命が絶たれてしまいます。あなたの魂も同じです。皆さんの周りにビタミン補給にすごく気を使っている人がいると思います。食事に気を使うだけでなく、食事だけでは足りないといくつも錠剤を飲んでいる人もます。健康オタクというのだそうですが、皆さんは現代人に最も不足しているビタミンが何か知っていますか?これは、どんな食事をしても摂取できません。これが足りないと何が起こるかというと、すぐイライラして人間関係が悪くなってしまいます。これを取り入れるのに有効な方法の一つは日曜日の説教を聞くことです。それはビタミンI(愛)といいます。英語ではヴァイタミンL(Love)が不足しないように教会では毎週説教がなされるのです。
2)説教は神の言?それとも人の言葉?(1テサロニケ2:13)
このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです(1テサロニケ2:13)
説教は、週の初めの日の礼拝の中で説教者によって語られ、人々によって聴かれる「言」です。皆さんはここで何を聴くことを期待しているのでしょうか?聖書のわかりやすい解説ですか?笑える話あるいは泣ける話ですか?私が皆さんに期待していただきたいことは、そこで神様があなたの本当の必要に応えて語りかけてくださる、ということです。それは時には受け入れることが困難なことかもしれません。時には耳に痛いことかもしれません。それでもしっかり心にとめいただきたいのです。時々、礼拝後に、「今日の説教は、先週私に起きた問題に対する答えでした。なんで私の問題を知っていたのですか?」と尋ねられることがあります。牧師は皆さんの霊的な必要に応えるために、それぞれの日々の生活を見回っているわけではありません。私の体は一つです。そんな時間はありません。私は優秀なスパイを雇って皆さんを監視しているのです。「聖霊様」です。聖霊様はみなさんの日々の歩みをよく見守っていてくださり、皆さんの必要をご存知です。そして私が説教の準備をするときに、どのように語ったらよいのか教えてくれるのです。もちろん具体的に誰が失恋したとか教えてはもらえませんから安心してください。
説教で耳に聞こえてくるのは説教者の声です。そこに神様の言葉を聞くには、注意深さが必要です。なにしろ一人の罪人を通して神様が語って下さるのですから。牧師の言葉が神の言ではありません。ましてや説教者が神様として語るのでは決してありません。神様はいつも私の説教を聞いていて下さっていると思います。そのことに畏れをもって語っています。
3)ユアチャーチの説教
説教には、いろいろなスタイルやアプローチがあります。同じ聖書の個所が語られるにしても、教会、説教者、時代、文化によってずいぶん異なったものとなるのです。ユアチャーチではほとんどの場合、牧師である私が説教をします。神様は説教を通してユアチャーチというひとつの群れに対して必要な言葉の糧を下さいます。ほとんどゲストを招かない理由はここにあります。礼拝の説教は霊の主食です。この食事をおこたるなら、どんなに沢山、信仰の本を読んだり、特別集会のようなものに熱心に出かけても健全な成長は望めません。私は第二テモテの4章を説教を語る際の戒めとしています。
神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。 御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。 だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。 しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。(2テモテ4:1-5)
B. 説教を生活に適用する
神様の言葉は私たちに不可欠な栄養だとお話ししてきましたが。皆さんが説教から栄養を得て、実際の歩みの力としなければ意味がありません。しかし説教を普段の生活の力とする、といっても、どうしたらよいのかわからないと思っている人も多いと思います。そこで三つのヒントを差し上げたいと思います。
1)説教の聴き方(申命記6:4-9)
そのひとつは、説教の聴き方にあります。
聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。 あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。 今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。 更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。(申命記6:4-9)
このテキストはユダヤ人にとって神様がモーセを通して語られた多くの言葉の中でも最も重要なものとして彼らの心に刻みつけられています。実際に小さな箱を左腕と額に紐で付け、この部分と他の三つの部分が書かれた羊皮紙をいれ祈る時に手を置くのだそうです。そして、この内容は私たちにも命じられていることです。
モーセは「聞けイスラエルよ」と呼びかけました。聞くということは読むことと違い神経を集中しなければ、聞き漏らしたり、聞き間違えたりしてしまいます。書かれたものなら何度か読み返せばいいのですが、耳に語られたことは自分で注意して記憶するしかありません。
神様が説教者を通して私に語られるという期待を込めて注意深く聞いていただきたいのです。そしてその私とは、誰とも係わりのない孤立した私ではありません。キリストの体、しかもユアチャーチという目に見える枝に実際につらなっている私なのだということも忘れないで下さい。
2)聖書を読むこととともに(使徒言行録17:11)
ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。 そこで、そのうちの多くの人が信じ、ギリシア人の上流婦人や男たちも少なからず信仰に入った。
私は毎日皆さんが私の言葉を思い起こしてほしいのではありません。そこで発見したダイヤモンドを生きる力に変えてほしいのです。その週のテキストが何をあなたに語っているのか、そこが重要なのです。私たちは毎週、同じテキストの同じ説教を聴きます。そこで語られた基本は同じでも、それをどう生かすかは、一人一人にとって違うことです。その週の生活の中で、初めの日に与えられた神様の言葉を生かすためには、語られた言葉を思い起こすだけでなく、語られたテキスト自体を何度も読み返すことが、助けになります。
なぜユアチャーチには聖書勉強会がないのですか?とよく聞かれるのですが、週の初めに与えられた、聖書のテキストに、その週の間もっと親しむべきだと考えるからなのです。
3)ミニチャーチが大切(使徒言行録2:41-47)
ミニチャーチの大切さについてはよくお話ししていますが、説教を生活に適用するためにもぜひ参加してほしいと思います。そこで、分かりにくかった事を誰かに聞いたり、人がどのように日常生活に適用しているかを知ることができるからです。
ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。 彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。 すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。 信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。 そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。
この使徒言行録に記されている最初の教会は3000人以上の大きな教会でしたが、その活動の中心は家々であったことがわかります。家々に分かれて集まった小さなグループの単位で神様の言葉が様々な神様の栄光を表す行動として現れていたことがよくわかります。ここにミニチャーチのモデルがあります。
メッセージのポイント
日曜ごとの礼拝で聴く説教(メッセージ)には、クリスチャンとして週の日々をより良く歩むための資源です。私たちそこから神様のメッセージを受け取り、日常生活に生かすのです。説教をあなたの日常で生かすために必要なことは、正しく聞くこと、思い返すこと、聖書箇所を読み返す、受けたチャレンジを実行してみることです。
話し合いのヒント
1) あなたにとって礼拝のメッセージとは何ですか?
2) 日曜日の礼拝で聞いたメッセージを生活の中で生かした経験をシェアしてください