2005/11/20 メッセージ コリントの信徒への第一の手紙シリーズ2(1:10-17)

固く結び合いなさい ― キリストの体はバラバラでいいのか?

A.違いを超えて一つとなるように招かれている私たち(10-13a)

さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。(10) わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。(11) あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。(12) キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。(13a)

1) 教会の中の派閥抗争?

人が数人集まれば自然に仲の良いグループが出来てきます。それは悪いことではありません。10人も人が集まれば、誰もすべての人と同じように仲良くすることは出来ません。教会でも同じことがいえます。ミニチャーチが必要な理由もここにあります。誰にとっても、多くの人々の中にいるよりも、数人の気のおけない人々とともにいるほうが快適なのです。ここで言われていることは、教会の中に仲良しグループがあってはいけないということなのではありません。

問題なのは、グループ同士に対立、争いがあるという状態です。当時のコリントの教会を見ると、「パウログループ」「ケファ(ペトロ)グループ」「アポログループ」さらに「キリストグループ」まであって互いに争っていました。これは、パウロ派、ケファ派といったがグループが初代教会の中ににあったということではありません。コリントの教会の人々が勝手に権威ある名前を自分たちの正しさの根拠にするために利用して名乗っていたのです。

コリント教会のどのグループも、つまりは自分たちだけが正しいという考え方に陥ってしまっていたのです。キリスト派を立ち上げた人はさぞ、自信満々だったのではないでしょうか?何しろそれ以上権威ある名前はないのですから。

皆さんはクリスチャンではない友人に何でキリスト教は、たくさんのグループに分かれているのですか?と聞かれたことはありませんか?それにどう応えたらいいのでしょうか?「キリストの体は一つ」といわれているのに世界の教会は互いに中が悪いのでしょうか?それぞれの教会の中も対立するグループが対立・抗争を繰り返しているのでしょうか?それでは、教会はマフィアとかヤクザの世界と同じだということになってしまいます。

私たちが決して忘れてはいけないこと、それは「教会はキリストの体だ」ということです。自分の体がバラバラになることを望む人は誰もいません 「心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい」ということは、グループを作ってはいけませんということではないのです。体は一つでも様々な器官が組み合わされて出来上がっているのであり。その器官の中にも様々な働きをする部分があり、その部分もいくつもの異なった細胞によって構成されています。一つの体として調和するとは、異った器管がそれぞれの固有の働きをしていて、しかも全体としてはバラバラではなく一つのキリストの体として統一のとれた働きをしているということです。

パウロが恐れたのは、コリントの教会内の対立が、もはや一つの体としての調和を乱すほどになっていたことです。

2) イエス様はご自身の体の分裂を悲しまれる

自分たちの主張が強くなり、他を認めようとしなくなると何が起こるでしょうか?そこには、教会にとって致命的なことが起こります。イエスキリストの十字架と復活が霞んでしまうということが起こるのです。「社会正義こそが教会の課題です。病の癒しなどは病院に任せておきなさい」という主張と「心と体の癒しこそ教会の使命、社会正義なんて政治家に任せておくべきです」という主張、どちらが正しいのでしょうか?

どちらも正しくはありません。全てのクリスチャン、全ての教会が、自身の存在にとって最も大切なことは、「イエス様の十字架と復活」によって生かされているということ、「イエス様の十字架と復活」を告げ知らせる、という使命を与えられているということです。このことを教会は「福音」(よい知らせ)と言い習わしてきました。神の国が近づくよい知らせです。

私たちは「福音」を自分の好みにあった狭い意味に限定して理解してしまいがちなのです。それは同時に自分たちの使命をも限定してしまうことになります。

自分のグループだけが正しいという考えはやがて自分たちは、誤ったグループから人々を助け出し自分たちの仲間にしなければならない、という考えに行き着きます。そしてそのためにはどんな手段も正当化できると考え始めるのです。ここまで来ると、それはもはや教会ではなくカルトでしかありません。心臓と肺が争って心臓が勝利し肺が心臓になってしまうなんてありえないことです。それは体の死を意味します。

そのようなことが教会の中で起こるなら、それはイエス様ご自身の深い悲しみであり、キリストの体が破壊されてしまうということです。

福音は、私達の理解よりはるかに広いものです。イエス様は「義を追い求めること」を命じておられます。「病を癒し、悪霊を追い出すこと」を命じておられます。「全ての国民を弟子とすること」を命じておられます。「バプテスマを授けること」を命じておられます。それは全て、私たちに委ねられた、神の国を来たらせる神様の働きです。イエス様は決して「・・・・だけを追い求めなさい」とはおっしゃってはいないのです。もちろん個々の教会は全てのことを同じように力を入れて行うことは出来ません。それぞれに委ねられている働きには特徴があっていいのです。どのような分野に、特に大きな力を注ぐかはその教会の個性です。大切なことは、「キリストの体の中でそれぞれのグループは異なった働きを担っている」ということを認め、自分と異なった人々を、自分と異なる働きのゆえに感謝することです。

B.何をどのように行うために、私たちはここにおかれているのか?(13b-17)

あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。(13b) クリスポとガイオ以外に、あなたがたのだれにも洗礼を授けなかったことを、わたしは神に感謝しています。(14) だから、わたしの名によって洗礼を受けたなどと、だれも言えないはずです。(15) もっとも、ステファナの家の人たちにも洗礼を授けましたが、それ以外はだれにも授けた覚えはありません。(16) なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。(17)

1) 洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるため

洗礼はイエス・キリストを主と信じクリスチャンとして生涯を歩む決意を公に表わす大切な儀式です。しかし儀式であるということは、心がともなわなくても、受けてしまうことができるということでもあります。もしあなたがあまりにも熱心にバプテスマを受けなさいと誰かに勧めたら、その人はまだ信じていなくても、あなたの期待に応えてバプテスマを受けてしまうかもしれません。口だけで信じますということもできるのです。あるいはその時の感情に流されてということもあるでしょう。しかし、そのようなバプテスマには意味がありません。機械的にバプテスマを受けることが救いではないのです。パウロの警告に私たちもまた心を開かなければなりません。洗礼を授けること、名目上のメンバーを増やすこと、それが私たちの目的ではないのです。

パウロは自分に与えられた使命を「福音を告げ知らせること」だと理解していました。

クリスマスが近づくと、町田のターミナルのあたりに異様な人々が現われます。「イエスを信じ永遠の命を得よ」といった、キリスト教のメッセージの書かれたスピーカーをとりつけたプラカードを持って無表情に立っています。スピーカーからは暗い声で「キリストを信じなさい」と、あれを聞いたらキリスト教には近づきたくなくなる雰囲気です。彼らは告げ知らせているようで実はキリストから人々を遠ざけていると感じるのは私だけでしょうか?告げ知らせるということは単に耳に聞かせるということではありません。人に福音の内容を伝えて、その人がイエス様を自分の救い主と知り、信じるようになるまでの働きが、「告げ知らせる」ということです。それは一方的な呼びかけのようにインスタントにできることではないのです。それはむしろ、あなたの日常でなされることです。その人に対する愛を動機としてなされることです。人々との関係の中で、言葉だけではなく態度や行いのすべてを用いてなされることなのです。

2) 十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで

17節の後半の「言葉の知恵にはよらないで」福音を告げ知らせる、ということについては次回のメッセージでもっと詳しく取り上げます。

パウロは理屈で人々を説得しようとしたのではありません。ただ十字架の出来事を率直に知らせたのです。「言葉の知恵」とは、優れた理論やレトリック、話術で人々の心をとらえた、ギリシャ・ローマ世界の哲学者、宗教家の方法です。パウロはそのようなやり方はとりませんでした。なぜでしょうか?それは、そのような方法で福音を伝えようとするなら、「十字架」という神様からの、超理性的なアプローチを、人間の考えにうまく収まるような、口当たりは良いけれど、不十分な説明になってしまって、正確には伝わらないことを知っていたからです。キリスト教会の中にもいろいろな流行があります。どれも、これからの教会の在り方を真剣に求めるという正しい動機によって始まったものです。「積極的思考」「自分の賜物を発見する運動」「セルチャーチムーヴメント」「コンテンポラリーワーシップ」「○○ブレッシング」「目的指向型教会」「ヤベツの祈り」。これらは用い方によっては人々の心を十字架という原点から引き離し「現代の“知恵の言葉”」となる恐れがあることに注意しなければなりません。十字架が霞んでしまっては、元々良いものであっても害になってしまいます。

私たちは福音を告げ知らせるためにここにおかれています。でも人に伝わるいい方法を捜し求める必要はありません。パウロのように、自分に向けられたイエス様の十字架の恵みと、それを受け入れて歩むことがどれほど祝福に満ちたものであるかを単純に伝えるのです。なぜそのような単純な方法が有効なのでしょうか?それはあなたという存在自体が神様の作品だからです。神様の恵みを日々受けて、それを喜び感謝して生きて行くなら、あなたという神様の傑作はさらに輝きを増し、ふれる人にキリストの香りまで感じさせることでしょう。

メッセージのポイント

クリスチャン同士であれ、教会間であれ、私たちには違いがあります。違いによって分裂するのではなく、それを生かして一致するのが、「キリストの体」に相応しい教会の在り方なのです。ところが、赦されたとはいえ今も私たちの内に働く罪の思いは、自分を絶対化し、他を認めません。私たちの目的は小さなグループの仲間を増やすことではなく、ただイエスキリストの福音を告げ知らせることだ、ということを見失わずに。全ての教会、全てのクリスチャンとともに組み合わされ、用いられてゆきましょう。

話し合いのヒント

1) コリントの教会で起こった争いの原因は何ですか?

2) 違いを持ったまま一致するためには何が必要なことですか?