2005/12/4 -アドヴェント第二聖日礼拝説教 ミカ書5章より

「世界を包む、心にとどく」

先週、私たちはお休みをいただいてニューヨークシティーへ子供たちに会いに行きました。有名な大きな町ですが、様々な面を合わせ持っている点でもユニークです。その中心部にあるセントラルパークは人工的に作られた公園ですが、作られて150年もたつので緑豊かな、せわしないニューヨークの中で例外的に心休まる場所になっています。その西隣りにジョン・レノンの住んでいたダコタアパートがあります。超お金持ちの住む高級アパートメントばかりといったところです。そこから地下鉄で乗り換えなしにたった30分ほどで娘の住む家の最寄りの駅に着けます。そこは同じニューヨークでも、アメリカ中で最も貧しい地域です。娘はそこで公立の小学校の先生としてこの国の最も貧しい子供たちに教えることの困難に直面して苦労していました。息子・娘と時を過せたことはとても楽しかったのですが、世界の富の中心のような部分と地域全体が貧困にあえぐ部分が道を隔ててあるような町の両方の部分を歩いて、考え込んでしまいました。何回クリスマスが来れば、空腹のままでクリスマスの朝を迎える子供がいなくなるのだろうか?何回クリスマスが来れば、誰も戦場でクリスマスを迎える必要がなくなるのだろうか?と。

私たちは「平和の君」と呼ばれるイエス・キリストを信じ従って、明るい将来を期待している者たちです。しかし現実を見るなら、世界は神様からずいぶん遠く離れてしまっていると思わざるを得ません。

実は、この間違いの原因は、世界を作られた神様に対する誤解からきているということを、今朝お話ししたいと思います。開くテキストはメシアの到来を預言者のー人、ミカの預言の5章です。ミカはイザヤとほぼ同時代の、紀元前700年頃活動していた預言者です。

A. 神様についての4つの誤解

1) 救い主についての誤解(1-3)

始めの3節を読んでみましょう。

エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。(1) まことに、主は彼らを捨ておかれる、産婦が子を産むときまで。そのとき、彼の兄弟の残りの者はイスラエルの子らのもとに帰って来る。(2) 彼は立って、群れを養う。主の力、神である主の御名の威厳をもって。彼らは安らかに住まう。今や、彼は大いなる者となり、その力が地の果てに及ぶからだ。(3)

イスラエルの人々は、救い主がモーセのような、あるいはダビデのような民族の指導者として来られると考えていました。しかしこられたイエス様は、その枠にはおさまらない方だったので、救い主として受け入れることができませんでした。確かに1節には「イスラエルを治める」と書かれています。しかし3節を見ると「その力が地の果てに及ぶ」とあります。救い主はイスラエルの救い主にとどまらず、すべての民の主、世界の主として来られたのです。この誤解によって問題を背負っているのは、イスラエルだけではありません。どの国民・民族も、その国・民族のヒーローを待ち望み、他国・他民族を支配することを夢見る傾向を持っているのです。キリスト教国と呼ばれる国も例外ではありません。イエス様が来られてから今に至るまで、王、大統領、総統、総書記、主席と呼ばれる人々が、自らの野望を実現するために多くの人々の血を流し、国民は彼らを神のようにあがめ支持したという例は沢山あるのです。

2) 勝利と平和についての誤解(4-9)

主が世界の主であるのか、民族の主であるのか、という考え方の違いによって、勝利の意味、そして勝利の結果もたらされる平和の意味をも大きく変わってしまいます。4節から9節までに目を留めてお聞き下さい。4節で来るべき救い主を「まさしく平和」と言ったあと、ミカの預言は確かにその時代の具体的な敵の名を上げて、彼がその敵を襲うと言っています。まるで、あなたには神様がついているから敵対する者はみんな滅ぼしてしまいなさいと命じられているようです。しかし、救い主に従う「残りの者」と呼ばれる者たちは「人の力に望みをおかず、人の子らを頼りとしない。」とあります。人と人の戦いによって得られる勝利は本当の勝利ではありません。そして、そのようにして得られた平和は、軍馬や戦車によって保たれた、「力のバランス」という偽りの平和でしかありません。しかし、イエス様が与えようとなさっている平和は、世が与えるものとは異なる(ヨハネ14:27)軍馬も戦車も要らない平和なのです。

彼こそ、まさしく平和である。アッシリアが我々の国を襲い、我々の城郭を踏みにじろうとしても我々は彼らに立ち向かい七人の牧者、八人の君主を立てる。(4)

彼らは剣をもってアッシリアの国を、抜き身の剣をもってニムロドの国を牧す。アッシリアが我々の国土を襲い、我々の領土を踏みにじろうとしても彼らが我々を救ってくれる。(5)

ヤコブの残りの者は多くの民のただ中にいて主から降りる露のよう、草の上に降る雨のようだ。彼らは人の力に望みをおかず、人の子らを頼りとしない。(6)

ヤコブの残りの者は、諸国の間、多くの民のただ中にいて、森の獣の中にいる獅子、羊の群れの中にいる若獅子のようだ。彼が進み出れば、必ず踏みつけ引き裂けば、救いうるものはない。(7)

お前に敵する者に向かってお前の手を上げれば、敵はすべて倒される。(8)

その日が来れば、と主は言われる。わたしはお前の中から軍馬を絶ち、戦車を滅ぼす。(9)

3) 裁きについての誤解(10-14)

10-14節を読みます

わたしはお前の国の町々を絶ち、砦をことごとく撃ち壊す。(10)

わたしはお前の手から呪文を絶ち、魔術師はお前の中から姿を消す。(11)

わたしはお前の偶像を絶ち、お前の中から石柱を絶つ。お前はもはや自分の手で造ったものにひれ伏すことはない。(12)

わたしはお前の中からアシェラ像を引き抜き町々を破壊する。(13)

また、怒りと憤りをもって聞き従わない国々に復讐を行う。(14)

ここにはイスラエルと他国、両方に対する神様の裁きが記されています。そして14節以外はすべてイスラエルに対する裁きであることに注目して下さい。

旧約聖書の預言者は、神様に選ばれ、手厚い導きを受けたにもかかわらず、背を向け偶像に心を向けた民に厳しい裁きを与えるという預言です。裁きはご自身の民にむしろ厳しく臨む、という原則を現代の主の民「教会・クリスチャン」は忘れてはいないでしょうか?裁きは神の家から始まる (Iペテロ4:17) といわれている通りです。私たちは自分の罪深さを、弱さを考えると恐ろしくなってしまいますが、恐れることはないのです。なぜなら、この裁きは、徹底した偶像の破壊を意味しているからです。私達の偽りの繁栄を破壊するものであり、真の繁栄をもたらすものだからです。しかしもし、あなたがいつまでも偽りの繁栄に心を奪われているなら、この裁きはあなたに絶望をもたらすでしょう。


B. 神様を誤解しないために

1) 理解から信頼へ (マタイ6:27-32)

私たちの誤解の始まりは、神様を理解しようとする態度です。神様は私たち、そしてすべてのものを創造されたお方です。私たちの小さな頭の中には決して収まりきらないお方なのです。皆さんの日常生活の中でも神様に対する?マークがよく出てくるのではないでしょうか?これを自分なりに理解しようとするなら、自分なりの解釈をしなければなりません。でもそれは神様の完全な考えを、小さく不完全な私たちの考えの中に、私たちの都合のよい所だけを、私たちが選んで入れることになってしまいます。どんな国も、私たちこそ新しいイスラエル・神様に選れた国と思いたい誘惑にさらされています。国の勝利が神様の勝利であり真の平和をもたらす、と思いたいのです。しかし、先にお話ししたように、人による支配は真の平和をもたらすことはありません。

神様がなさる事に対する私たちの正しい態度は理解しようとすることではなく信頼することです。あなたが小さな子供だった頃のことを考えてみて下さい。親の言うこと、することを理解し納得して従ったのですか?そうではなかったはずです。多くの?(なぜ)があっても彼らを信頼して従ったのです。神様は、誰にもまして信頼できるお方です。イスラエルの民は神様を信頼することができずに金の子牛を造って拝んでしまいました。現代の民の金の子牛は武器であり、自分たちではー生かかっても使いきることのできない財産です。これらのものを手に入れている人がいるー方で、最低限の寒さを耐える衣を、飢えをしのぐ食事をえられずに死んでゆく人々がいるのです。武器によって命をおとす市民・子供たちがいるのです。この深刻な状態は、神様を信頼して生きる人がこの世界に満ちることによって変わります。このことをイエス様ご自身の言葉から聞いてみましょう。マタイによる福音書の6章27-32節です

あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。 (27-32)


2) 利用から献身へ(マタイ6:33-34)

クリスチャンと自称する人には大きく分けて二種類の人がいます。神様を利用して自分の意思を行う人と、神様の意思に従って自らを献げる人、と言ったら言いすぎでしょうか?

人の不幸と引き替えに得られるような幸いを祈る人、自分の戦争を神の戦いと主張するような人々は、神様を信じているのではなく利用しているにすぎません。自分の明日を思い煩うあまり、必要以上にかき集め、他人の者さえ奪い取るのです。自分では正当であると信じていたとしても神様の目から見れば貪欲という罪を犯し続けていることになります。

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」 (33-34)

神の国と神の義を求めるとはどういうことでしょうか?それは本当の勝利、本当の平和を求めることです。そして、それは惜しみなく愛することによってのみ得られるものです。惜しみなく与えることによってのみ得られるものです。惜しみなく愛する者、与える者こそが真の勝利者、真の平和をもたらす者、本当の裁きに耐えられる者なのです。どうしたら惜しみなく与える者になることが出来るのでしょうか?

心が重たくなるような多くのニュースは、神様の「私を信頼しなさい。私を利用するのではなく、あなた自身を献げなさい」という警告です。それを知っていただきたくて、楽しい季節を前に、今日はかなり深刻なメッセージをしてきました。最後にちょっと楽しいニュースについてお話しして終わりたいと思います。

私たちのアメリカ滞在していた頃、アメリカのウイスコンシンからフランス旅行をしていたエミリーという猫がいたことをニュースで知りました。遊んでいて貨物コンテナーに入り込んでしまって扉が開いたらフランスだったのだそうです。飼い主は近所を探し回りましたがもちろん見つかるわけがありません。あきらめかけていたところフランスで発見されたと知らされたのです。彼女は名前の付いた首輪がつけていたので家に帰ることが出来ました。帰りは飛行機、私達と同じコンチネンタル航空だったそうです。違っていたのは、彼女はビジネスファーストで私たちはメインキャビン(つまりエコノミークラス)だったということです。

迷子の猫を見つけ出し、ビジネスファーストクラスで無事に家まで送り返してくださる神様です。皆さんも人生の道に迷う時があるでしょう。今そんな時かもしれませんね。エミリーの首輪にはしっかりと名前が記されていました。あなたの心には「私の主はイエス様です。私はイエス様の僕です」と刻まれているでしょうか?そうであればあなたはどんな状態に置かれていたとしても「イエス様助けてください、私を正しい道に導き帰してください」と叫ぶことが出来るのです。そして、2000年前のクリスマスに来てくださった救い主イエスキリストは、あなたの声を決して聞き逃すことなく、あなたの心に届いてくださいます。


メッセージのポイント

救い主の降誕は旧約聖書に預言されていました。イスラエルの民は救い主が来られることを待ち望んでいたのに、神様についての誤解からイエス様を救い主と信じることは出来なかったのです。彼らの期待する救い主とは、民族に平和と勝利そして繁栄をもたらす人物であり、異邦人に対しては裁き、滅びをもたらす、イスラエル民族のヒーローだったのです。ところがイエス様はそれよりもはるかに「スケールの大きな」世界を包むような愛を世に与えるために来られました。文字通り「救」いを神様が造られた「世」界の全てにもたらす「主」として来てくださったのです。しかしイエス様の「愛」はスケールが大きかっただけではありませんでした。イエス様の愛は、一人一人の心に届いてくださる「きめ細やかな」愛でもあるのです。

話し合いのために

1) イスラエルの民はどのような救い主を期待していたのですか?

2) 神様に対する誤解は、どのような問題を引き起こしますか?