2005/12/11 -アドヴェント第三聖日礼拝説教 イザヤ7:1-17 マタイ1:18-25

「誰があなたと共に?」 

安く作るために中位の地震でも崩れてしまうかもしれないマンションやホテルが多くあることが分かり、ニュースになっています。私は4階建のマンションの4階に住んでいますが、皆さんの住いは大丈夫ですか?私たちは様々の危険に囲まれて生きています。今回の出来事のように、それが危険であることさえ知らずに日常生活をおくっていることもあります。誰でも平和に楽しく生きてゆきたいと願いますが、誰がそれを保障してくれるのでしょうか?私たちは、さしせまった問題、漠然とした不安、隠されている危険に囲まれて生きています。それらから、自分で自分を守ることのできる人はいません。

A. 動揺と強がり

1) 森の木々が風に揺さぶられるような動揺 (1-9)

まず1-9節を読んで行きましょう

ユダの王ウジヤの孫であり、ヨタムの子であるアハズの治世のことである。アラムの王レツィンとレマルヤの子、イスラエルの王ペカが、エルサレムを攻めるため上って来たが、攻撃を仕掛けることはできなかった。 しかし、アラムがエフライムと同盟したという知らせは、ダビデの家に伝えられ、王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した。 主はイザヤに言われた。「あなたは息子のシェアル・ヤシュブと共に出て行って、布さらしの野に至る大通りに沿う、上貯水池からの水路の外れでアハズに会い、 彼に言いなさい。落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。アラムを率いるレツィンとレマルヤの子が激しても、この二つの燃え残ってくすぶる切り株のゆえに心を弱くしてはならない。 アラムがエフライムとレマルヤの子を語らって、あなたに対して災いを謀り、 『ユダに攻め上って脅かし、我々に従わせ、タベアルの子をそこに王として即位させよう』と言っているが、 主なる神はこう言われる。それは実現せず、成就しない。 アラムの頭はダマスコ、ダマスコの頭はレツィン。(六十五年たてばエフライムの民は消滅する) エフライムの頭はサマリア/サマリアの頭はレマルヤの子。信じなければ、あなたがたは確かにされない。」

今から2700年程前、つまりイエス様の誕生からさらに700年前、神の民は、北のイスラエル、南のユダ、二つの王国に分裂していました。ユダの王、アハズは王といっても、この時まだ20代前半の若者にすぎませんでした。国の回りは強国にすっかり囲まれ、同じ民族の国であるイスラエルも油断できない相手だったのです。このような状態でアハズの心には全く平安がありませんでした。国王といっても、今のように象徴的な存在であるだけでなく、政治的、軍事的、宗教的リーダーシップを求められる存在でした。そのような存在である彼の心が動揺していれば、民の心も平安であるわけがありません。

預言者イザヤは神様から、王に会うように命じられました。不思議なことは、神様がイザヤに彼の息子「シェアル・ヤシュブ」を連れてゆくようにと言われたことです。名前の意味は「残りの者は帰ってくる」(A remnant will return)。先週のメッセージを憶えていますか?先週取り上げたミカの預言にも出てきた「残りの者」のことです。これは預言的な名前です。息子を連れてゆくことが、その事自体、預言の一部だったのです。これはつまり@民族が滅びることは避けられないAしかしその中にあって、主に真実をもって頼る残りの者が帰ってくる、というメッセージです。神様はこの時代の民が決して神様を求めようとはしないことを知っておられました。イザヤは、あわててなんとか、強国に助けを求めてバランスオブパワーを保とうとするアハズに、そんなことをしても無駄だということを告げたのです。しかしアハズは聞こうとはしませんでした。

私たちの心もまた昔のユダの王と同様に、ちょっとしたことでひどく動揺して、神様に信頼することを忘れてしまいがちです。「こんなに心が揺らいでしまうのは自分だけなのかな」と思っている人が多いのですが、大人でも、子供でも、男でも、女でも、権力者でも、庶民でも実は皆そうなのです。

2) 私は求めない。主を試すようなことはしない(10-12)

しかし、神様はイザヤを通してアハズに語りかけてくださったように、私たちの動揺する心に語りかけてくださる方です。10節11節です

主は更にアハズに向かって言われた。 「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」

なんと恵み深い神様でしょうか?不安の時、恐れている時に、私たちにわかるように神様のほうから希望のサインを出してくださるというのです。それなのにアハズはしるしの内容を聞こうともせずに、この恵みをきっぱりと拒絶してしまいます。12節です

しかし、アハズは言った。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」

この答えは一見、敬虔な、正しい態度のように感じられます。もし彼が心の中で「私が叫ばなくとも神様は、私の必要をよくご存知で、必ず満たしてくださる。主を試みることなどしなくても私は主を信頼している」と思っていて、こういうならそれは立派な信仰的な態度です。しかし彼の心の中はこうでした。「神様に求めても仕方ない、どうせ神様は私の言うことなんか聞いてくれないだろうし、信頼をする気も、試す気もない」

神様は、今でも、悩んでいる人、恐れている人、動揺している人に呼びかけてくださいます。「私を信じなさい、私を信じられないというのなら、信じられるようにしるしを求めなさい。私の恵みがどれほどのものか試してみなさい」

クリスチャンは、動揺している人々に向かってイザヤのように語りかけます。しかし現代のアハズたちはこう答えるのです。「私は神には求めない、神なんて試してみる価値もない」 それでもがっかりせずに、イザヤのように伝え続けることを、神様は私たちに期待しておられます。神様はこの、人から人へ伝えるというやり方で、今も「残りの者」を見出し、平安の中に連れ帰したいと思っていらっしゃるからです。

B. インマ(ともに)・ヌ(私たちと)・エル(神)

1) しるしを受け入れる?それとも無視する?

それでは13-17節を読んでみましょう

イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間に/もどかしい思いをさせるだけでは足りず/わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。 それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。 災いを退け、幸いを選ぶことを知るようになるまで/彼は凝乳と蜂蜜を食べ物とする。 その子が災いを退け、幸いを選ぶことを知る前に、あなたの恐れる二人の王の領土は必ず捨てられる。 主は、あなたとあなたの民と父祖の家の上に、エフライムがユダから分かれて以来、臨んだことのないような日々を臨ませる。アッシリアの王がそれだ。」

神様は、私達がまだ信じきることの出来なかった頃、もどかしさを感じておられたのです。私も神様に呼びかけられたことがあります。高校生になる少し前のことです。私にとっての預言者イザヤは、今は私の妻となった人ですが、彼女を通して、神様は「主を求めてごらんなさい、信じられないなら試してごらんなさい」と、アハズにしてくださったように語りかけてくださいました。そして、私もアハズのように、きっぱり拒絶してしまいました。「いもしない神様に求めても仕方がない、いないものを試すことなんてできない」

しかし、そうして神様を無視し続けているうちに、私の状態は当時のユダ王国のように、どうにもならなくなり、ついに神様を試してみようという気持ちになったのです。そして、しるしを受け入れました。

世界に与えられたたった一つのしるし。それは2700年前にイザヤやミカが預言し、2000年前に実現した出来事です。

あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。とあるように、インマヌエルと称せられた「一人の人」です。インマヌエルのインマは<ともに>ヌは<私たちと>そしてエルは<神様>という意味。つまりインマヌエルは、<神様は私たちと共におられます>という意味です。本当に神様があなたと共にいてくださるなら、あなたを動揺させるものは何もないはずです。この「絶対の平安」のキーパーソンが、あの約2000年前の世界で最初のクリスマスに来てくださったイエス・キリストです。

2) イエス様と共に歩むとは?(マタイによる福音書1:18-25)

マタイによる福音書1:18-25を読みましょう

イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

イザヤの預言は700年後にイエス・キリストにおいて実現しました。神様ご自身が遠く離れた方ではなく、あなたに最も近い方となるために、来て下さったのです。イエス様は罪を犯すこと以外は、私達と同じように限られた命を生きてくださり、喜びも悲しみも、痛みや弱さも、ご自身のこととして知ってくださいました。イエス様の生涯は、愛し続ける、与え続ける生涯でした。そして最後にはその命さえ、私たちの罪を清算するために、惜しまず与えてくださったのです。だからこそ、イエス様だけはこのように言うことのできる資格があります。

わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。(ヨハネによる福音書14:6)

本当の平安を得るためにできることは多くありません。たった一つだけです。それはイエス・キリストを主と信じて従うことです。しるしは2000年前に与えられました。あとはあなたが、試す番です。そうすれば信頼すべきかただということがあなたにも分かるでしょう。主を信じなさい、そうすればあなたもあなたの家族も救われて、インマヌエルな人になるのです。

メッセージのポイント

イエス様が生まれる約700年前、預言者イザヤはインマニュエルと呼ばれる救世主が生まれることを預言しました。人々の心は王であろうと奴隷であろうと、地位や身分にかかわりなく動揺しやすいものです。それでも神様が共にいてくださる、ということを拒否して、それ以外の力に頼り、ついには身動きが取れなくなってしまう人が後を絶ちません。イエス様はご自身が神様に至る唯一の道だと言われましたが、それが偽わりではないことがイエス様の生涯をたどれば明らかです。助けが必要のない人は一人もいません。そして、本当に助けることの出来る方は一人しかいないのです。イエス様と共に歩むなら、あなたにインマヌエルが実現するのです。

話し合いのために

1) 「私は求めない。主を試すようなことはしない」といったアハズの真意は?
2) インマヌエルとはどういう意味ですか?あなたはそれを実感できますか?