2005/12/18 -アドヴェント第四聖日礼拝説教

「救い主:心の闇に届く光」 ルカによる福音書1:67-79

いよいよ来週はクリスマスです。日本ではクリスマスが休日ではないので、日本にいるとクリスマスホリデーという感じにはならないのですが、今年はクリスマスが日曜日なので、金曜日からすこしいつもよりゆっくり、じっくりクリスマスの喜びをあじわうことができますね。今朝はクリスマス前の最後の日曜日です。ルカによる福音書の1章に記されている「ザカリアの預言」を通して、もう一度、私達がその誕生を祝おうとしている私たちの救い主・イエス様について、彼がどのようなお方なのか、確かめておきましょう。まず、始めに全体を読んでみましょう。

父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。 「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。 昔から聖なる預言者たちの口を通して語られたとおりに。 それは、我らの敵、すべて我らを憎む者の手からの救い。 主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる。 これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。こうして我らは、敵の手から救われ、恐れなく主に仕える、生涯、主の御前に清く正しく。 幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。 これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」

A. 救い主とは誰か?

1) ダビデの家系に生まれた方 (69)

69節に我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。とあります。角は力のシンボルです。力ある者がダビデ王の家系に生まれるということはイスラエルの民の共通の認識でした。しかしその力は民の想像をはるかに超えるものだったので、イエス様がその家系に生まれたにもかかわらず、民はイエス様を救い主と認められませんでした。どう想像を超えていたのでしょうか?彼らは「我ら」の意味を狭く、小さく考えていました。彼らは「自分たちのための理想の王」を期待していましたが。イエス様は彼らのためだけではなく「すべての」人のためにこられたのです。特定の国や民族、特別な種類の人のためではありません。イエス様は、イスラエルの王や将軍になるつもりは全くありませんでした。そうなれば、「すべての人」を解放することは不可能です。政治力や武力は特定の人にしか利益を与えられません。そしてそれ以外の人には苦しみを与えるものです。しかし、イエス様はすべての人の心に訪れることのできる方としてきてくださったのです。

2) 預言されていた方 (70)

今まで2週間、旧約聖書にある、救い主誕生の預言を通してクリスマスについて考えてきました。イエス様は、70節に昔から聖なる預言者たちの口を通して語られたとおりに。とあるように生まれる前から来られることを預言されていた救い主です。イエス様の前にも後にも救い主を自称する者は多く現れましたが、彼らが本当の救い主ではなかったことは聖書と歴史が証明しています。イエス様こそが聖書が預言したたった一人の救い主であるということは2000年の間、多くの人に信じ続けられてきました。そしてその数は今でも増えつつあるのです。

3) 神様の憐れみと契約によってこられた方 (72-73a)

72節から73節にかけて主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる。 これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。とあります。

この部分もまた、救い主が全世界の人にとって救いであるということをあきらかにしています。アブラハムはイスラエル民族の父祖ですが、神様が契約されたのは民族の代表としてのアブラム(民の父の意)ではなく、彼と同じ信仰に立つ全ての人の代表としてのアブラハム(多くの民の父の意:神様は契約を結ぶ時にわざわざアブラハムと改名するように命じられました)だったのです。(参照:創世記17章)そこで問題なのはアブラハムの信仰を受け継いでいるとはどういうことなのかということです。それはアブラハムのように神様の言葉を注意深く聞き、従順に従う信仰で歩むということです。アブラハムも人間的な弱さを持った人でしたが、その信仰のゆえに神様は彼を祝福されました(参照:ヘブライ人への手紙11:8-12)。

残念ながら、アブラハムの契約はそれ以降のイスラエルの民が従順な歩みをせず罪を犯し続けたので、効力を発揮することは出来ませんでした。そこで神様は、新しい、しかし最後のオプションを提案してくださいました。それが御子イエスキリストを信じる信仰によって、神様との関係回復ができる。という新しい契約だったのです。そのために神様はクリスマスを用意してくださったわけです。この契約の素晴らしいところは、国籍・性別・年齢などあらゆる違いを超えて「すべての人」が誰かを通してではなく、直接神様と結べるということです。あなたも信仰の意思があれば契約者の資格があるのです。

B. 救い主は何をしてくれるのか?

さて次に、このようなお方があなたとどう係わってくださるかということについて、3つのことをお話ししましょう。@来てくださる、A解放してくださる、B希望を与えてくださる、という順番でお話しします。

1) 来てくださる (68)

68節にある「神様が私たちの方に来て下さった。」ということにまず心を留めましょう。神様の方から来て下さるというのです。私たちが探し求めて見出すのではなく、ご自身が私たちを求めて、来てくださったのです。それがクリスマスの大切な意味なのです。私は物をどこかに置き忘れてあちこちさがし求めることが多いのですが、さんざん探し回ったあげく、すぐ近くにあったということがよくあります。あなたは本当に大切な何か、真理・友情・平和・喜び、そういったものを探し続け、見つからずに疲れきっているのではありませんか?イエスキリストはそういったあなたに本当に必要なものを与えるためにこの世界に来てくださったのです。そしていまイエス様はあなたの心に届いています。

2000年前にイエス様が来てくださって以来、本当の必要は彼に求めれば与えられるという事実を、もしあなたがまだ受け取っていないなら、どうか今日、それをご自分のものとしてください。

クリスチャンであっても、この事実を忘れて、見当違いの方向にさまよい出て、むなしい探し物をしてしまうことがあります。でもあなたの探し物がどこにあるのか知っておられる方は、いつもあなたと共におられる、先週イマヌエル(神があなた方と共におられる、の意)と呼ばれるイエス様なのです。

2) 解放してくださる (68、71)

第二にイエス様は私たちを解放してくださる方です。先ほど触れた68節、そしてそれは、我らの敵、すべて我らを憎む者の手からの救い。という71節からそのことが分かります。あなたは何から解放されるべきなのでしょうか?それはあなたが今捕らわれている状態、そこから自由になりたい状態からです。私たちはそれぞれ実に様々な物事に捕らわれ不自由になっています。不自由の原因が神様から離れていることにあります。あなたを縛っているものが何であれ、それはあなたが神様にもっと近づくことによって取り除かれます。そして神様はあなたの手の届かないところにおられる方ではなく共におられる方であることは、先にお話ししたとおりです。

3) 希望を与えてくださる (78b-79)

第三にイエス様は希望を与えてくださる方であることについてお話ししたいと思います。78節の後半から79節をもう一度読んでみます。

この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」

歩みは未来につながる道です。これから先のことです。イエス様はただ不自由から解放してくださるためにだけ来られたのではありません。将来に向かっての希望を与えるためにも来て下さったのです。私たちは自分の未来を見通すことができません。不安があります。そこで人は占いのようなものによって、偶像を拝むことによって希望を見出そうとしますが、それはむなしいことであり、神様が大変嫌われることです。しかしイエス様を信頼するなら、彼のうちに希望を見続けることが出来ます。私たちは神様にいい未来をお与えくださいと必死になって願い求める必要はないのです。神様は信頼する者の将来に良いものだけを用意しておられるからです。

4) 救われた者の新しい生き方 (73b-78a)

最後に来てくださる、解放してくださる、希望を与えてくださる、救い主に従って歩む者に求められている新しい生き方についてお話しして終わろうと思います。73節後半から78節前半をもう一度読んでみます。

こうして我らは、敵の手から救われ、恐れなく主に仕える、生涯、主の御前に清く正しく。幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。これは我らの神の憐れみの心による。

救われた者の歩みは、主に仕える歩みです。最初の12人のように、パウロのようにイエス様の弟子になるという生き方です。生涯、御前に清く正しくとあります。イエス様に解放されて嬉しい、それは人生のゴールではありません。新しい人生の出発点です。ここからどのような歩みを私たちはして行くのでしょうか?

この部分の後半は、生まれたばかりのバプテスマのヨハネに向けられている預言の言葉ですが、この言葉は、私たちの、仕える者としての務めでもあるのです。私たちもヨハネのように、イエス様に先立って、人々の所に行くことができるのです。イエス様に愛され、イエス様に信頼をおき、イエス様の愛で愛する人として、私たちは毎日、多くの人々との関係の中で生きています。そして、その人がイエス様を救い主として受け入れることができるように道を整えているのです。ヨハネと同じように、罪の赦しによる救いを知らせているのです。これが神様の憐れみの心に従って生きる、私たちの道なのです。

メッセージのポイント

ザカリアの預言によってあきらかになったことは、イエス様が旧約聖書に預言されていたとおりの方であったということです。主は遠く神様の座からはなれ、私たちのただなかに来てくださり、あらゆる縄目から救い出してくださり、将来の希望を与えてくださったのです。それで私たちは、敵の手から救われ、生涯、主の御前に清く正しく、恐れなく仕えることができるのです。

話し合いのヒント

1) イエス様は私たちに何をもたらすために来てくださったのでしょうか?
2) 救われた者の生き方とは?