2006/1/1 メッセージ(ヘブライ人への手紙13章1-8、詩編118編1-9)

「ユアチャーチ信仰告白2006」

先週、私はユアチャーチの今年のヴィジョンを求めて祈りました。そして基調となる聖書の個所も与えられました。今週のユアチャーチの表紙に一年間、掲げられます。どうか毎週のように、このヘブライ人への手紙の13章を読み返し、教会の歩み(それはあなたの歩みでもあります)のために、祈り続けてください。それでは読んでみましょう。ヘブライ人への手紙の13章1節から8節までです。

兄弟としていつも愛し合いなさい。(1)

旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。(2)

自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい。(3)

結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません。神は、みだらな者や姦淫する者を裁かれるのです。(4)

金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。(5)

だから、わたしたちは、はばからずに次のように言うことができます。「主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう。」(6)

あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。(7)

イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。(8)

ここには教会のあるべき姿、クリスチャンのあるべき姿が具体的に記されています。「ユアチャーチにもっとこんな集まりがあったらいいなあ、こんな働きがあったらいいなあ」と私たちは思います。そして、去年もいろいろなことをスタートさせました。沢山の事を始めて、沢山失敗し、すぐに続けることをあきらめたこともありました。皆さんには私が始めたり止めたりすることが唐突に見えるかもしれません。私は、何もしないので失敗もない、ことより何もしないくらいなら、やってみて失敗するほうがいいと思うたちなので、今年も付き合ってください。この「ユアチャーチにもっとこんな集まりがあったらいいなあ、こんな働きがあったらいいなあ」という気持ちの支えとなる言葉がここにあります。神様が私たちに期待して、働きを与え、決して見放さずに導いて下さる方であることが分かります。

ユアチャーチ(私)は

1) 神様の家族を愛します (1)

兄弟としていつも愛し合いなさい。

教会は大きな家族です。血のつながりはありませんが、実際の家族もそうであるように多くのもの、価値観を共有しています。それぞれの役割の違い、性格の違いを受け入れあい、愛し合います。健康な家族ならそこには利害関係・損得の勘定はありません。私たちは長年同じ家に共に暮らしてきたというわけではありませんから、実際の家族にはない難しさもあります。しかし神様が家長であるということが、私たちが一つになれないことは決してないと保証してくれています。わたしたちの力、希望、勇気は愛されているという実感に支えられているのです。私たちの愛は完全ではありませんが、神様からいただいた愛から来ているものであることが、互いに対する忍耐となり赦しとなってその不完全さを補っているのです。

2) 天使をもてなします (2-3)

たとえば両親の間に深刻な溝があるなら、子供は誰かを愛するということに対して困難を感じます。家族間に愛があって初めて私たちは、それを外に向けることが出来外とは2−3節で旅人とか牢に捕らわれている人々と表現されている人々たちに対する愛です。

旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。(2)

自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい。(3)

私たちは今、見知らぬ旅人に宿を貸し、もてなすといった経験をすることはほとんどありませんが、人生の歩みの中で疲れが出たり、夜道に迷ったりした人の、慰めや心に栄養が必要な人の助けをすることとが、このことに当てはまります。人は誰でもこの世では旅人です。見知らぬ人であっても、必要な人に助けの手を差し伸べることが、ユアチャーチの存在理由の一つです。また捕らわれている人とは、実際に不当な理由でつながれ虐待されている人のことだけを指しているのではありません。そのような実際につながれ苦しんでいる人々のために祈ることはもちろん大切です。しかし、皆さんの周りには、実際の牢でなくてもいろいろな思い煩いに捕らわれて自由になれない人がいるはずです。このような人たちのためにわたしたちはここにいます。

3) 結婚を大切にします (4)

4節には結婚のことが書いてあります。正月早々そんな話は止めてくださいと思う人があるかもしれませんが、このことこそ「神様が最も相応しい人を、神様のタイミングで与えてくださる」という堅い信仰に立たなければなりません。

結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません。神は、みだらな者や姦淫する者を裁かれるのです。(4)

もちろんまれにはパウロのように、独身の賜物を与えられそれを喜んで、一人で神様に仕えてゆく者もいます、しかし多くの人にとって生涯を共にするパートナーは神様からの最も素晴らしい贈り物です。その大切な人を悲しませないように既婚者は神の前に誓ったのです。その誓いにもかかわらず。相手を裏切り悲しませる者を神様は裁かれます。その悪い影響はもちろん子供たちにも及びます。人間は誘惑に弱い動物です。イスラエル史上最も優れた王ダビデもまた誘惑に負けた一人です。私は絶対大丈夫と思っている人ほど危ういのです。自分が誘惑に負けることがないよう祈り続けることが大切です。

あなたにとって神様の次に何が大切ですか?と問われて、あなたはどう答えますか?家族と答えるひとが多いのですが、もしあなたに配偶者があるなら、「それは私の妻(夫)ですと答えていただきたいのです。子供はもちろん大切な家族ですが、彼らは神様からの預かりものです。やがて成長して巣立ってゆく者たちです。あなたが一生責任を負うべき人たちではありません。しかし配偶者は命の限り仕え合うものなのです。だからあなたの家庭は子供中心の家庭であってはなりません、夫婦中心の家庭であるべきです。もし子供が中心なら、よくて配偶者とは子供の成長のためのパートナー、悪ければ子供を育てるのに必要な資金源か労働力ということになってしまいます。子供が巣立った後その夫婦には何が残るでしょうか?それが今この国の流行語「熟年離婚」です。

まだ結婚をしていない人たちにお願いします。結婚を前提とした関係であったとしても、神様の前に正しく夫婦となる前に、実質的に夫婦のような関係となることを避けていただきたいのです。結婚は単に互いの必要を満たす実利的なものではなく神聖なものだからです。あなたの将来の結婚が祝福されたものになることを望むなら、どうか聖書が結婚以外の関係を戒めていることを忘れないで下さい。

4) 世の富に執着しません (5)

性欲と同じように金銭欲も厄介な存在です。

金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。(5)

聖書はシンプルにこう言い切るのですが、私たちの欲望は、より多くをもつ人を見て自分だってもっと恵まれたいと思うのです。日本ではお正月のご馳走のために暮れに沢山買い物をする習慣があります。私も母の買い物に付き合って町田小田急のデパ地下(ここは東京でも有数の品揃えだそうですが)ものすごい量の食材と人でごった返して戦場のようです。デパ地下はスーパーマーケットよりも値段も高いのですが、お正月だけは、リッチな食事をと考える人が多いようです。心はともかく経済的にはやっぱり豊かな国です。ふと考えました。「世界中の難民キャンプで暮らしている子や、津波で家族も家も失った子を、連れてきてここにあるもの好きなだけとって食べなさい。といってやりたいなあ。」と。乱暴でしょうか?日本やアメリカでは食べきれない食物が毎日何万トンも捨てられていて、さらにそれを処理するために億単位のお金が使われているのに、地球の他の場所には一人1日一食も満足に食べられない人が何億人もいるのです。

お金は大事です。よく考えなければいけません。No.1ダックもいっています。どれだけ貯めるのかが大事なのではありません。どう使うかが大切なのです。神様があなたから決して離れないとおっしゃっているのです。神様はあなたの必要を完全に満たしてくださる方です。私たちには最大のスポンサーがついているということです。私たちは惜しまず与えることを考えてゆきましょう。

5) 共にいてくださる神様を信頼します (6, 詩編118:1-9)

私たちが日常生活の困難さに目を奪われずに、与えることができるのは、神様を信頼しているからです。どんな悪意も中傷も意地悪も恐れるに足りません。

だから、わたしたちは、はばからずに次のように言うことができます。「主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう。」(6)

これは詩編118編の引用です。元のダビデの詩を読んでみましょう

<詩編118編1-9節>

恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。(1)

イスラエルは言え。慈しみはとこしえに。(2)

アロンの家は言え。慈しみはとこしえに。(3)

主を畏れる人は言え。慈しみはとこしえに。(4)

苦難のはざまから主を呼び求めると、主は答えてわたしを解き放たれた。(5)

主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。人間がわたしに何をなしえよう。(6)

主はわたしの味方、助けとなってわたしを憎む者らを支配させてくださる。(7)

人間に頼らず、主を避けどころとしよう。(8)

君侯に頼らず、主を避けどころとしよう。(9)

神様を信頼するのは私たちのお財布のためだけではありません。

私たちは人間関係についても思い悩むことが多いのですが、良い人間関係を構築するためにも神様を信頼することが必要なのです。これを歌った時、ダビデの周りは敵だらけでした。深い悩みのうちにありました。2006年もあなたをがっかりさせるようなことに直面するでしょう。そんなときにこそあなたの主がどれほど信頼に足る方であるかを教えてくれます。そしてあなたの信仰はさらに成長するのです。

6) 先人の信仰をみならいます (7)

あなたは一人ではありません。あなたと同じ悩み、恐れの谷を先に越えていった人がいるのです。死の恐れにさえ打ち勝って天国に凱旋していった多くの人々が、

あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。(7)

ここで書かれている指導者とは今の指導者ではありません。また大昔の指導者でもありません。自分たちが指導を受け、既に天国に送った指導者たちのことを指しています。ユアチャーチはまだ若い教会です。指導者を天国に送った経験がある人はほとんどいません。私にとっての指導者も皆、元気で神様に仕えていますから実感がありません。しかし少し前の時代を生きたクリスチャンの歩みを本などで知ることが出来ます。

 私たちは皆ユアチャーチの初代のメンバーです。ユアチャーチが世の終わりまで存在したら嬉しいですね。神様がよしとなさるなら、ですが。そうであればユアチャーチは50年後100年後に多くの信仰の遺産を相続した教会として、もっと神様の働きを担えるからです。そのために次世代に信仰を継承すること、新しい若いリーダーを育てることを考えてゆきましょう。

7) 永遠に変わることにないイエス様に従います (8)

教会の指導者が変わっても、礼拝の形が変わっても イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。(8) 教会をどんなに大胆に変革していっても、指し示すイエス様を変えることは出来ません。決して変わることのない方に従っているからこそ、私たちは時代の変化に対応することが出来ます。それにあわせて教会が変わってもいいのです。それは時代や、文化に流されることにはなりません。変化であって変質ではないのです。どんな教会でも、それがキリストの教会かどうかの証拠は外見ではなく、イエス様に対する服従です。イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。

外側は新しくて教会じゃないみたいだけれど、イエス様に対する真剣な服従という意味で中身は初代教会のようだといわれたいものです。

メッセージのポイント

「愛はますます冷えてゆく」と聖書が指摘している通り、世の闇は暗さを増しているように思えます。闇が暗ければ暗いほど、教会は、人々の歩みを照らす道の光として、重要な役割を果たします。私たちは「永遠に変わることのない主・イエス様に従う者として、教会として、新しい年がどのようなものであれ、確信を持って歩んでゆきましょう


話し合いのヒント

1) 2006年のあなたの目標は何ですか?

2) 神様はユアチャーチがどのような教会として成長することを願っておられるのでしょう?