2006/1/15 メッセージノート

主を誇れ 1コリント1:18-31

A. 弱さ、愚かさを自覚できる恵み

1) 人間の知恵の限界(18-20)

十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。(18) それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。」(19) 知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。(20)

あなたが初めて十字架の意味について聞いたとき、あなたはそれをどう思いましたか?私は、初めてこの言葉を聞いたとき、なんてばかげた言葉だろう、誰がそんなことを信じるのだろう。わけがわからない、と思いました。

ここにはまだ「十字架の言葉」を聞いたことのない方もいらっしゃるかもしれませんから「十字架の言葉」とは何かということを初めにお話ししましょう。「十字架の言葉」とはこの1000ページ以上もある聖書の中心メッセージです。

神様が、御子イエスキリストとしてあなたの罪を赦すために、あなたの身代わりとなって十字架に架けられた。これを聞いて信じる者は、罪赦されて、神様と共に永遠に生きられる。という言葉です。

突然そう言われて、「はい、そうですか、信じます」という人はほとんどいません。頭で考えて納得できる理屈ではないからです。しかしクリスチャンと呼ばれる者は皆、この言葉を信じて生きる力としているのです。あなたにとって、十字架の言葉はどんなきっかけで、「愚かなもの」から「神の力」になったのでしょうか?それは自分の限界を知ったときです。自分の力ではこれ以上進み続けることができない、とわかったときです。

それはまさに、まだ限界に気づかない人にとっては、クリスチャンとはなんと愚かで情けないのだろう。自分の力で道を切り開いていくことをあきらめ、そんな愚かな言葉を信じるなんて。ばかげているとしか思えないのです。

19節はイザヤ書29章14節からの引用です。元の預言はイスラエルの民が、口先だけで主をあがめ、心は遠くはなれ、律法を人間の戒めとしてしか守れなくなっていたことに対する預言です。しかし、それはパウロの時代のギリシア人にもいえることでした。そして実は今の時代のどこの国であっても、人の知恵、人の賢さに信頼して、神様に背を向ける、という傾向は変わっていないのです。

しかしどんな知性をもってしても「十字架の言葉」は理解不能な愚かなものでしかありません。

だから人々は、神様が上から差し出した救いの手を見て見ないふりをして、人間のほうから神様に近づく努力のほうを好むのです。信念、思想といった方法です。学者であろうと論客といわれる人であろうと、人に変わることのない平和、幸せを得させるような、別の素晴らしい決定的な言葉を語ることはできません。だから世界は今に至るまで愚かな過ちを犯し続けています。

人の側からは神様の領域に到達できないのです。人間は自分の力によって完全になることはできないのです。

そして、このことに気づくことこそ大きな恵みの始まりです。そのことによって、こちら側からのアプローチを断念して、向こう側から伸ばされた手につかまろうとする意思が芽生えるからです。

2) 世の中では愚かなこととされる宣教に生きる(21-25)

21節から25節までを読みましょう

世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。(21) ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、(22) わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、(23) ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。(24) 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。(25)

神様は、この理解されることのない「十字架の言葉」を伝えるのに、既にその言葉を受け入れ信じた者を用いてなさいます。その伝える方法は、たった一つしかありません。「宣教」という「愚かな」手段です。宣教とは、十字架につけられたイエス様こそ、信じて従うべきお方だと「宣べ伝える」ことです。ある人々は当時のユダヤ人のように、奇跡的な力の表れを求め、ある人々は当時のギリシア人のように哲学的な説明を求めます。そしてそれらが与えられないので。神様と共にいる喜びと平安が目の前に差し出されていることに気付きません。

それにもかかわらず、私達クリスチャンの務めは、宣べ伝え続けることです。それはパウロの言い方にならえば、「愚かな言葉」を伝えるのにふさわしい「愚かな方法」と言えるでしょう。イエス様がどのようなお方か、言葉を尽くしても伝える事はできません。けれども私たちはイエス様を紹介することができます。天におられる方をどう紹介するのでしょうか?イエス様は天におられるだけの方ではありません。あなたの内側に働いて、あなたの行動や言葉にキリストの香りをそえて下さるのです。十字架の言葉は、その言葉によって新しくされたあなたとともに人々に伝わるのです。

B. イエスキリスト−私の誇り

1) 神様はあなたのどこを見ているか?(26-28)

そうすると私たちは、こう考えてしまいます。「伝える事が困難な事ならば、よほど才能に恵まれた人でなければ、イエス様の救いを人に伝えるのは難しいのではないか?」そうではないのです。26-28節を読んでみましょう。

兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。(26) ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。(27) また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。(28)

コリントのクリスチャンたちの多くは知恵においても、地位や家柄においても、経済力においても、人々に大きな影響を与えることが出来るほど優れた人々ではありませんでした。しかし、神様があえて小さい者、弱い者を選んで用いて下さるのです。これは神様の人材活用の原則です。いつの時代も変わりません。

神さまは、パウロのような教養ある人を用いたではないかと反論する人があるかもしれません。確かにパウロは、ユダヤ教の深い教養を身に着けていました。しかしパウロは、それが救いにとって何の役にも立たないものだということを思い知らされて、イエス様を信じたのです。自分が半生を通して、周りの誰よりも熱心に学んできたことが、役に立たないばかりか、救いのためには反って邪魔になってしまうということに気づくというのは恐ろしい挫折です。でもこの挫折があって、初めて神様はパウロをご自身の計画のために用いることができたのです。

人はあなたの地位や才能、財産によってあなたの価値を測ろうとします。しかし、神様はあなたの地位や才能や財産に関心はありません。神様はあなたが自分の弱さや限界を知っていること、そのために神様を信頼して歩んでいることを喜んでおられるのです。

2) 主を誇って生きる(29-31)

それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。(29) 神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。(30) 「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。(31)

私たちの今生きている世界に目を向けてみましょう。誰が力をふるっていますか?知恵を誇る者・富を誇る者・武器を誇る者・地位を誇る者たちではありませんか?それで世界は健康なのでしょうか?確かに世界は豊かになったかのように見えます。便利にもなりました。でもそのー方で、その恩恵にあずかれない人の方が多いのです。私たちは世界の中でも最も豊かな国の一つに暮らしています。しかし、二つの意味で、貧しさは私たちとは関係ないとは言えません。第一に神様は、私たちが自分だけの幸せだけを求めてはいけない、乏しい者に与えなさいと命じているからです。そして第二に、実は心の貧しさの方がもっと深刻で、この国も例外ではなく、様々な事件や問題を引き起しているからです。

神様以外の何かを誇っている人には、物質的貧困も精神的貧困も、解決することはできません。

31節はエレミア書9章22−23節の引用です。「主を誇れ」というのは、正確には「主を知る事ができたことを誇れ」ということです。

私たちは自分の弱さを知り、受け入れることによって主を知ることができました。30節に書かれているように、「神によってわたしたちはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、あなたにとって神の知恵となって下さいました。」私たちが、正しく、聖く、豊かな心で生きることができるようにして下さったのです。

神様は私たちが弱く、愚かな者であることを知っていて、それだからこそ私たちに信仰の鍵・希望の鍵・愛の鍵を委ねられたのです。あなたは自分の弱さについては悩む必要はありません。それは神様が責任をもって必要を満たして下さいます。あなたがするべきことは、与えられている鍵を使って、信仰の扉、希望の扉、愛の扉を誰かのためにあけてあげることです。あなたが扉の鍵を握っているのです。

メッセージのポイント

誇りを持つことによって、人は苦境に耐え、困難な道でも歩み続けることができます。誇れるものがないと感じている人は、何か誇れるものが一つでもあればいいのになあ、と思いますが、ただ何かを誇れればいいというものではありません。誇る価値のないものを誇っていたのでは、肝心な時に力を発揮することができないばかりか、道を誤ることにもなりかねないのです。多くの人は自分の持つ知恵、知識、能力、財産、人間関係を誇りに思っています。しかしこれらのものは、いつまでも決して変わらないものではありません。聖書は、誇るべき物ではなく、一人だけ誇るべき方、イエスキリストを誇りなさいと勧めています。イエスキリストこそ、知恵、知識、能力、財産、人間関係、全ての良いものの源だからです。

話し合いのために

1) イエス様を主と信じる前、あなたは何を誇りとして生きてきましたか?

2) なぜパウロは、宣教を「愚かな手段」と表現したのでしょうか?