2006/1/22 メッセージノート

光の中を歩もう イザヤ2:1-5

2:1 アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。

預言者イザヤは、イエス様の来られることを預言した一人として有名です。預言者はその時代の人々のありようを見て預言します。この時イスラエルは南北に分裂していましたが、一時的な平和と繁栄が人々を安心させていた時代でした。イザヤはこの繁栄と平和が長続きしないことを覚えつつ、こう預言しました。この時代に、こう預言したということは、偽りの平和と繁栄は去り、過酷な戦いの季節を耐えた後に真の平和、真の繁栄が来る、ということを意味しています。預言者はもちろん数千年先までを見通して、預言するのではないのです。もしイザヤが預言は彼の時代から3000年近くたっても実現しないと知ったら、きっとがっかりしたことでしょう。しかし今の私たちは預言が、預言者の意図をはるかに超えて数千年のスケールの中に実現してゆくものであるということを、私たちは知っています。

 ですから旧約の預言者の預言を、特定の時代の特定の事柄に結び付けて考えるのは愚かなことです。第一次世界大戦のときも、第二次世界大戦のときも、終結したら主が再臨されると考えた人はたくさんいました。最近では、「アメリカが核ミサイルで悪の帝国ソビエトを破壊することにより、終末が来る」と考え、共産主義諸国を武力で打ち倒すことが神様のみ心だと煽るテレビ伝道者さえ現れました。(伝道者をなのる資格はないと思いますが)

 それでは私たちは旧約聖書の預言から何を学ぶことができるのでしょうか? どのように受け取ることができるのでしょうか?まず、2節と3説を読んでみましょう

 

A. 今の混乱の向こうにある希望

1) 絶望の果てに神様を信頼する者が起こされる (2-3)

2:2 終わりの日に/主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい

2:3 多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから/御言葉はエルサレムから出る。

聖書の神様がすべての人を造られたことは創世記に明かです。旧約聖書は出エジプト記から、神様と人との関わりをイスラエルという一つの民に焦点を当てて述べていますが、神さまは、作られたほかの民に関心がなかったわけではありませんでした。私たちは忘れがちですが、たとえば聖書と関わりなく、長い歴史をたどってきたアジアの民にとっても神様は神様だったのです。ただ神様は、人々が様々な宗教の営みをとおして正しく生きようとする歩みを尊重し、何度も愚かさによって滅び去ろうとする民を、今まで存在させてくださいました。長い歴史を通して私たちの先祖が本当の神様を知らなかったことは残念ですが、それも神様の計画です。

神様の新しい契約、イエス様の十字架による救いの計画が始まったことも、その時代の日本人は知ることがありませんでした。最初の宣教師ザビエルが来てからまだ500年くらいしかたっていないのです。(1549年)

イエス様の時代からすると、世界はずっと小さくなりました。地球の反対側の国に気軽に行くこともできるし、電話でも安い料金で長く話すことができます。他国で起こった事件が、一時間もしないうちにテレビニュースで紹介されます。

神様についての知識も今時差がなくなっているということです。相変わらず終わりの日は知らされてはいませんが、このような環境の中で大きな歴史の節目が来ていることは確かです。この変化のひとつは、世界のあらゆる所で、イエス様を主と信じ従う者が同時に起こされつつあるということです。その勢いは、それぞれの国で異なっていますが、それは同じ川の流れで急な所と緩やかな所があるようなものです。

しかし反対に、神様を悲しませる出来事も世界のあらゆる所で起きています。世界が一つの大きな渦の中に放り込まれているような状態だからこそ、神様が働かれ、ご自身の計画の最終章「終末」を準備されているかのようです。イザヤはイスラエルとユダについて見せられた幻と理解していますが、それはイエスを信じる者の群れ、新しいイスラエルと言い換えることができます。必ずしも地理的な意味でのイスラエルととる必要はありません。神様は、全ての民の救い主イエス様としてご自身を表されたのですから、今のエルサレム・シオンとはイエスの体である教会です。

主に従い、歩み始める人が、終わりの時に向かって、さらに増えてゆくことが分かります。私たちクリスチャンは、出来るだけ多くの人々が、主に立ち返ることができるようにお迎えする働きをしているのです。 次の4節からは、どのようなことを受け取ることができるでしょうか?


2) 国々の対立に終止符が打たれ、兵器、武器が無用の物になる時 (4)

2:4 主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。

戦いが止むということは、ただ争いがないというだけのことではありません。戦争のために用いられる資源、人材、を平和のために使うことができるということです。

核兵器、ミサイルや戦闘機、戦艦の開発、製造にかかる莫大なお金で多くの砂漠に緑を取り戻すことができます。戦車ではなく農作業に使う車両を作り、銃ではなく農作業の能率が上がる道具が多く生産されれば、価格は下がり世界に行き渡ります。小学生にもわかる理屈です。でも人間は戦うことを止めることができません。しかし神様はなさると言われるのです。神様を信じるなら希望はあるということです。

ところで皆さんはこの国の憲法をどう思いますか?このところ、あまり人気がありません。わたしは、その中でも特に人気のない「いかなる紛争も武力でこれを解決しようとはしません。当然そのための武器も持ちません」という9条は神様のすべての人に対する願いだと信じています。憲法9条は、イザヤの預言を先取りしています。ところが多くの人は、9条は時代に合わなくなっている、正義のための戦争に参加しなければならない。と言って武器を持とう、戦争できる国にしようと考えています。クリスチャンでも「旧約聖書にも異邦人を滅ぼせ」と書いてあるではないかと考える人は多いのです。しかし神様は戦争好きな方ではありません。全ての民の造り主です。兄弟が喧嘩をして殺しあうことを喜ぶ親がどこにいるでしょうか?神様は、肉親の親以上のすべての人を愛しておられます。

神様は、人間のやり方にぎりぎりの妥協をしながら今日まで忍耐してくださっている、というのが本当のところではないでしょうか?福音書のイエス様の言葉と行いを一つずつ吟味していくなら、この国の憲法の「戦争放棄」は御心にかなっています。

なぜ9条は時代遅れに見えるようになっているのでしょうか?それは、むしろ時代が、神様の心から、さらに遠く離れつつあるからです。時代がどうであっても、理想を掲げ続けることは尊いことです。先週「誇り」についてお話ししました。私はあまりこの国を誇りに思わず生きてきましたが、この9条は誇ってよいと思います。自己中心的な人間の誇りとは違うレベルにある決意だからです。日本は、戦争で多くの国の人々の命を奪い、損害を与えました。また多くの自国民を失い、国土も焼け野原となりました。そこから、やり直すに当たって「もう一度強い国になって世界を従わせよう」とは思わず。「世界の平和に貢献できる国になろう」と決意しました。だから、アメリカが作って与えられたものであっても(独立国としては、与えられたものでは格好悪いですが)、あえて守ってゆこうという決意をしたのです。これは自分や、自国、その力を誇るような誇りではなく、神様を信頼しなければ、実現不可能な理想です。そのような意味でクリスチャンこそ、この9条の価値を知るべきです。

B. 未来の希望に向かって歩もう (5)

2:5 ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。

1) 主の光の中を歩むとは

ここでもイザヤはイスラエルの民に呼びかけているわけですが、神様はイザヤを通して、私たちクリスチャンに対してもそう呼びかけておられます。「主の光の中を歩もう」。世界は、今も暗いままです。しかしこの闇の中に神様の光は確かに差し込んでいるのです。闇の中に光のトンネルがあるような状態です。このトンネルの入り口は主の十字架です。そして光は神の国に向かって伸びているのです。

イエス様はこの狭い門から入りなさいとおっしゃったのです。(マタイ7:13-14)先週お話ししたように、十字架はそこから入ろうとするものを招くというより、拒んでいるかのように多くのものには愚かなことに見えます。さらに光の道は、入る人の心の醜さにも光が当たってしまいそうなので、十字架のあがないを信じて罪の赦しの確信を得なければ、入ってゆくことができません。だから多くの人が、闇の中にあって、「自分の罪は照らさず欲望だけを満たしてあげます」というたくさんの偽りの光が誘う広い門に吸い込まれてゆきます。そしてその門は滅びに通じているのです。


2) 道のりは長いけれど

最後に、この光の道に入り、歩み始めた人々、つまりクリスチャンの方にお勧めしたいことがあります。この歩みは長い道のりであるということを知って、自分に相応しいペースで進んでいただきたいということです。100メートルでも1000メートルでも10000メートルでもない、フルマラソンです。光の中という恵まれたトラックを走っていても、倦み疲れることがあります。サタンは耳元でささやくことを許されています。「あなたはクリスチャンにふさわしくないから、そのまま歩んでも神の国には入れないよ」とか「天国とか永遠の命なんて幻想だよ」こんな声に耳を貸して、風に吹かれて枝からとばされる葉のように離れてゆく人もいます。ある時には、サタンは光の天使になりすまして、「あなたは、素晴らしいクリスチャン、それに比べてあの人はだめ」と優越感を持たせて人を裁かせようとしたり、「神さまはあなたがもっともっとがんばってほしいと願っているよ」とオーバーペースにさせて、燃え尽きてしまうように仕向けます。

サタンの声にまどわされずに、神様にしっかりとつながっている方法は単純です。礼拝と交わりを通して養分をとり続けること、自分に与えられた務めを果し続けることです。私たちの体の中には2つの血の流れがあります。心臓から器管への流れと、器管から心臓への流れです。そして血液は循環しています。キリストの体も同じです。神様の「恵み」の流れとあなたから神様への「礼拝と感謝」の流れがよく循環していることによって、しっかりと歩き続けることができます。そのために礼拝と交わりを生活の中心において下さい。来週はカヴェナントサンデーです。朝の礼拝ではカヴェナントの民にとって最も大切なワーシップ、特に主に向って歌うことについてお話しします。


メッセージのポイント

神様はいかなる戦争も支持なさいません。兵器を作ることも喜ばれません。残念ながら世の終わりの日まで人は決して身を守るためにと武器を手放すことはないでしょう。しかし終わりの日がいつやってくるのかは誰も知りません。それがいつこようとも私たちは希望を抱いて歩み続けることができます。周りは闇でも、主に信頼する私たちは光の中を歩いているからです。

ミニチャーチのためのヒント

1) 神様が望まれる平和とはどのようなものなのでしょうか?

2) それに向かって、どのようなことが私たちに出来るのでしょうか?