2006/1/29 メッセージノート
あなたの魂は渇いていますか? - ワーシップへの招き
(マタイ11:28-30、詩編42:2、申命記6:4-7、マタイ22:37、ルカ10:38-42)
涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める。(詩編42:2)
日本はとても水が豊かな国です。日本人は飢えることはあっても、命の危険があるような渇きを経験してきませんでした。しかし中近東の人々にとっては、渇きは飢え以上に深刻な問題です。
私たちの魂が神様を慕い求めるのは、命に関わることだからなのです。「あなたをもっと知りたい。もっと近づきたい。よいものを得たい。自分の最善をささげたい。」 このような真剣な願いを持たずに礼拝の場に身を置いたとしても、礼拝をささげたことにはなりません。
体に痛みを感じないという深刻な病気があります。同じように渇きが感じられないとしたらどうでしょう。渇きを感じることなく、水をずっと飲まずにいたら人は死んでしまうのです。体の痛みを感じられないという病気は、多くの人が罹るものではありませんが、魂の渇きを感じることがなく気が付かないうちに、酷い状態になってしまうクリスチャンは多くいるのです。ですから今朝あなたに知っていただきたいこと、それはあなたの魂は主に乾いているのだということなのです。
A. ワーシップとは何か?
1) 言葉の意味
ユアチャーチでは礼拝で歌うことを「讃美する」と言わずに「ワーシップする」と言います。その理由は、私達が礼拝で歌うことの意味を正しく理解していただきたいからです。ワーシップの元の意味は、ひざまずく、身をかがめる ということです。僕が主に近づき、足元にひれ伏し、その足にくちづけをする、ということです。そんなことをするのは相手がよほど怖いか、よほど愛しているかのどちらかの場合だけです。
それでは申命記の6章4-7節を読んでみます
2) ワーシップの価値(申命記6:4-7、マタイによる福音書22:37)
聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。(4) あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。(5) 今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、(6) 子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。(7)
それは第一に聖書に従うという意味で価値があります。ワーシップは、あらゆるクリスチャンとしての活動の中で、最も記述の多い行為です。創世記から黙示録に至るまで、ワーシップ(神様を礼拝)することについての勧め、命令が数多く見られます
第二に、クリスチャン生活、教会生活の基礎となるという意味で価値があります。聖書がそれほどまでに(一説によると540箇所以上だそうです。)、ワーシップすることを命じるのはなぜなのでしょうか?それは、ワーシップなしには、クリスチャン生活が成り立たないほど重要なことだからです。真剣にワーシップすることのないクリスチャン、教会は基礎のない家のように危ないものです。
第三に、私達が神様に向かってすることのできる最も大切な行為としての価値があります。イエス様はこれをマタイによる福音書22章37節で、私たちにとって最も大切な戒めとして引用しています。イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 神様を愛するということを、互いに愛し合いなさい、ということよりも大切なこととして教えたのです。つまり、人が愛し合うということの前提として、神様を愛することがある、ということです。神様を愛することができない人は、本当に人を愛することはできないのです。礼拝するということは愛することの最高の表現です。神様は愛する私たちに何よりも、そばに近づくことを願っておられるのです。マタイによる福音書11:28-30にはこう書かれています。
3) そこで私は何をするのか?(マタイによる福音書11:28-30)
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。(28) わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。(29) わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(30)
私たちには、イエス様を通して神様のすぐそばに近づくことのできる特権が与えられているのです。ワーシップすることを命じられていますが、私達にとっては素晴らしい特権でもあるのです。私たちは、近づきます。人生の重荷(問題、悩み)を下ろします。そして休むのです。そこで癒され、新しく負いやすい軛を負います(神様から新しい力と知恵をいただくということです)。そして軽い荷物を持って歩き出すのです(それはもはや問題や悩みといった重荷ではなく、あなたの人生の目的や意味ということです)。
B. ワーシップを通して与えられる神様の恵み
1) あなたと神様との関係が強くなる
皆さんにもっと真剣に期待していただきたいのは、今読んだマタイによる福音書の言葉がワーシップの中で実現するからです。それは第一に、神様ともっともっと親しくなれるということです。あなたが、神様を遠くに感じることが多いなら、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くしてワーシップすることを続けることによって、神様があなたにとって誰よりも親しい存在になるのです。
2) 肉体的に、情緒的に、霊的に癒される
第二のことは、癒される経験をするということです。それは最近流行の、「気持ちが癒されるなー、といった感じ」以上のものです。癒しのアート、癒しの音楽、ペットで癒される。どうか神様の癒しをそんなものと一緒にしないで下さい。神様の癒しはもっと深い、もっとリアルな、超自然的な癒しです。このことも期待して礼拝に臨んでいただきたいのです。
C. もっと実り豊かなワーシップにするために(ルカによる福音書10:38-42)
どうしたら実り豊かなワーシップをささげることができるのでしょう。ルカによる福音書10:38-42が、私たちに三つのヒントを与えてくれます。それではまず読んでみましょう。
一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。(38) 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。(39) マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」(40) 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。(41) しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(42)
1) 生活の優先順位をチェックする
最初はあなたの生活の優先順位の一番上に礼拝することがあるかをチェックしてみようということです。
マルタは、もてなしをしようとしていましたが、心から喜んではいませんでした。自分もマリアと同じようにイエス様のそばにいたかったのです。しかし、それだからといって、ごちそうを作ることを止めて主の前に出ることはできませんでした。反対に「マリアも手伝えばいいのに」と思ってしまったのです。想像ですが、マルタは一度イエス様にそのお料理をほめられたことがあるのかもしれません。料理の上手なマルタさん、働き者のマルタさん、そんな評価が返ってマルタの心を不自由にしてしまったのかもしれません。「イエス様は料理の上手な私を認めてくださる」 マルタの場合はそれが、彼女の優先順位を狂わせてしまいました。あなたが主の前に進み出てワーシップすることを第一とさせないものは何でしょう。
2) 主に期待して待ち望む
第二のことは期待してワーシップしているか?ということです。大好きな人と初めてデートする前の晩のことを思い出せますか?あるいは子供の頃、次の日に楽しいことがある晩どんな気持ちだったか? 楽しみで、楽しみで、眠れない位だったのではないでしょうか?
神様と最も近くで過ごす時間に、どんな素晴らしいことが起こるか期待していますか?人間は良くも悪くも、物事に慣れてきます。学校や会社で遅刻しがちな人も、最初のデートで遅刻する人はいません。会っている間は、自分の最善を尽くします。相手の一言も聞き漏らさないように、注意深く耳を傾けます。最初は頼まれなくても心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くしてデートするのです。でも期待はだんだん薄れてきてしまいます。神様との関係でも同じ危険があります。そうならないために、いつも新しい恵みを期待して礼拝し、そこで答えをいただく、という経験を沢山していただきたいのです。
3) 正直なありのままの気持ちで
第三のことは、正直なありのままの気持ちでいいからとにかく主の前に出てゆくということです。
イエス様に諭されてしまったマルタにも、私たちが見ならうべきところがあります。それはマリアばかりかイエス様に対してさえ憤りの気持ちをもったまま、それでもイエス様のそばに来たことです。それでマルタはイエス様のお考えを聞くことができました。
私たちは時々、自分はマルタのようだ、と反省しますが、実はマルタよりも悪い態度をとってしまう場合も多いのです。それは、憤ったままで神様のそばに近づこうともしない、という態度です。それはあなたを生き生きとしたキリストの体の一部であることから、「ただ過去にキリスト教の洗礼を受けたことのある人」になってしまう、プロセスの始まりです。もしあなたがマルタの立場にいたらどうしたと思いますか?
メッセージのポイント
イエス様は「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。 かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。(マタイ7:21-22)とおっしゃいました。天の父の御心とはなんでしょうか?それは、イエス様の言葉からもわかるように、ただ御名によって何か立派なことをすることではないようです。旧新約聖書が一貫して私たちに教える最も大切なこととは「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あまたの神である主を愛しなさい」(申命記6:5、マタイ22:37マルコ12:30、ルカ10:27)ということです。礼拝をささげることこそ、主の私たちに対する最も大きな願いであり、私たちが主へ愛をあらわす最も大切な機会なのです。
話し合いのために
1) プレイズ(讃美)とワーシップはどう違うのですか?
2) ワーシップの中で受けた恵みについてシェアしましょう