2006/2/12 メッセージ  (1コリント2:1-16)

神様の力と神様の知恵による宣教

A. 神様の力によって主を信じなさい。

1) 主を知るための力(1-2)

皆さんの中にはまだ自分は信仰を持ったばかりで、とても人に伝えることなんかできないと思っている人がいませんか?何をどう伝えたら自分の信じたイエス様をわかってもらえるのだろうか?しばらくは、人に恵みを伝える、というより自分が恵まれることを考えていよう。と思っていないでしょうか?

ここには二つの誤解があります。一つは、自分が信じたらすぐに伝える人になれるということ。もう一つは、誰かに恵みを伝えることが、あなたにとっても実は一番大きな恵みだということです。イエス様を誰かに紹介できることほど、楽しく、尊いことは他にはありません。私たちは、人間にとって唯一必要なもの=永遠の命をすでにいただいています。これを他の人にも伝えられる恵みに勝る恵みはありません。

皆さんは12人の弟子たちの中で、一番最初にイエス様に出会ったのが誰だか知っていますか、それは有名なペトロでもヨハネでもなく、福音書ではほとんど名前しか出ていないペトロの弟のアンデレでした。アンデレはバプテスマのヨハネの弟子だったのですが、イエス様が救い主とわかり信じたのです。ヨハネによる福音書1章41節と42節にアンデレについての最も重要な記事があります。ここに、「彼はまずペトロに、メシア:救い主に出会った、と告げ、さらにペトロをイエス様のところに連れて行った」と書かれています。そして皆さんはアンデレよりもペトロをよく知っています。弟子たちのリーダーとして、また使徒言行録の時代にはパウロと並ぶキリスト教会のリーダーとして大きな働きをしたからです。でもこのペトロをイエス様のところに連れて行ったのはアンデレです。彼は、この時イエス様についてほとんど何も知ってはいませんでした。ただイエス様が救い主だと信じていたのです。そんなアンデレの宣教が、ペトロがイエス様に会うチャンスを作ったのです。もしかしたら、まだほとんど何も知らないと思っているあなたの宣教によって、多くの人に救いをもたらす未来の伝道者がイエス様に出会うかもしれません。最初の2節を読んでみましょう。

兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。(1) なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。(2)

この手紙を書いたパウロの言葉ですね。パウロは旧約聖書の律法を深く学んだ人でした。優れた言葉や知恵で話すこともできた人です。しかし彼は、そのようには語らなかったのです。ただ単純に、「十字架につけられたイエス様こそ救い主・キリストです。あなたもイエス様を信じて、罪から救われ永遠の命を得なさい」と伝えたのでした。

2) 弱い者にこそできる力の宣教(3-5)

わたしたちはパウロを伝道のスーパースターのように想像してしまいますが、パウロはこの時、不安と恐れで押しつぶされそうだったというのです。3-5節です。

そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。(3) わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。(4) それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。(5)

「知恵にあふれた言葉ではなく、霊と力の証明による宣教」だった、というとすごくかっこいい感じですが、パウロにとっては、自分は弱さと不安と恐れにとらわれていて、聖霊の働きに期待するしかなかったのです。そして、弱さを感じていたパウロを通して、神様の力が現れたのです。私たちは弱いこと、無知なこと、恐ろしいことを、伝えたくない言い訳にはできないのです。あるときイエス様ご自身が、ある肉体の問題を取り去ってくださいと祈り続けたパウロの心にこう語られました。

「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と。そこでパウロはこう勧めています「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」(2コリント12:9)

神様の力はどのように現れたのでしょうか?伝道には実際に癒しや奇蹟が伴うことがあったことを使徒言行録は伝えています。今でもそうです。でも、目に見える力が現されるのではなく、力が心に直接働くことのほうがずっと多いのです。ですから、自分の宣教に奇蹟や癒しが起こらなくても全くがっかりする必要はありません。

あるクリスチャン女性が大学に入学しました。その大学では一年生はみな二人ずつの寮で生活する決まりになっていました。彼女はルームメイトにイエス様を伝えたかったのですが、結局その一年、次から次にやって来る自分自身の問題で悩み、ルームメイトがいるときにも辛くて泣くことをこらえられなかったり、祈らずにいられなかったりしたことが何度もあったのです。それで彼女は、ついにルームメイトにイエス様を伝えることをあきらめてしまったのです。「こんな弱いクリスチャンを見て、彼女は決してクリスチャンになりたいとは思わないだろう」と思ったからです。彼女は弱さのゆえに宣教を失敗してしまったのでしょうか?そうではありませんでした。彼女は弱さのゆえに、ルームメイトをキリストに導いたのです。学年の終わり頃に、ルームメイトは「あなたの信じているイエス様を私も知りたい」と言い出したのです。彼女はびっくりして聞き返しました。「何でこんなにダメな私の信じている神様を知りたいと思うの?」「確かにあなたは打ちのめされているようなときが多かったけれど、そのたびに必死に祈っていたでしょ、それであなたの神様は本当にいると思ったの。」

神様はあなたの弱さの中に働き、そこで力を発揮されると言うことがわかっていただけたでしょうか?それでは、6節から11節を読んでゆきましょう。

B. 聖霊様に導かれ神様の知恵で生きるため

1) 神様の言に聴く(6-11, Isaiah64:4)

しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。(6) わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。(7) この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。(8) しかし、このことは、「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」と書いてあるとおりです。(9) わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。(10) 人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。(11)

イエス様に誰かを引き合わせることには、あなたの知恵は必要ありませんでした。しかしクリスチャンとして成長したいなら、あるいは誰かの成長に力を貸したいと思うなら「知恵」が必要です。しかしここで言う知恵とは一節の「人間の優れた言葉や知恵」ではありません。パウロは「神秘としての神様の知恵」と言っています。「ご自身をイエス様として世に送り、十字架であがない罪を赦して人を救う」という救いの根本から導き出される、クリスチャンが健康的に成長してゆくための神様の知恵です。パウロは「聖霊様の導きに従う」ことによって、私たちの信仰の成長に欠かせない聖書の言葉の多くの部分を著したのです。パウロが聖霊の導きによって書いたように私たちも聖霊の導きによって読まなければなりません。今日はそこから神様が何を語って下さるのだろうかと期待をもって、祈り求めつつ読むのです。そしてミニチャーチで分かち合います。そうするならミニチャーチでの話し合いは、表面的には自分の感想を述べ合っているように見えて、実は神様の知恵をシェアしあっていることになります。最後に残りの部分を読みましょう

2) 聖霊に満される(12-16, Isaiah40:13)

わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。(12) そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。(13) 自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。(14) 霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。(15) 「だれが主の思いを知り、主を教えるというのか。」 しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。(16)

「聖霊様、どうぞ私をあなた御自身で満たしてください」と祈ったことがありますか?聖霊様はあなたの内側から働いてくださり、あなたの歩みに大きな力を与えてくださいます。もちろんイエス様を知るときも聖霊様の助けがそこにあったからこそ心を開くことができました。しかし神様の知恵で歩み続けることは、継続的な聖霊様の助けなしにできることではありません。ある人は「霊的な賜物を受け取るために、聖霊の満たしが必要なんだ。わたしは、遠慮しておこう」と考えますが、クリスチャンとして健康に歩いてゆきたければ、聖霊に満たされていなければなりません。預言をするとか威厳を語ることは賜物ですから誰にでも求められていることではありません(1コリント12:29-30)。しかし聖霊の実を豊かに実らせることは誰にでも求められていることだからです。(ガラテア5:22-26)

メッセージのポイント

私たちは、主イエス・キリストの十字架の福音、罪の赦しの恵みを伝えるために生かされています。それは、どのようにして人々に伝わるのでしょうか?それにはディベートの達人である必要はありません。哲学者のように難しい言葉を使える必要もないのです。それは多くの知恵・知識を駆使しても伝わらないものなのです。私たちが伝えようとしている事柄は単純なのですが、そこに神様の特別な助けがなければ伝わらないのです。大切なことは聖霊に満たされていることです。聖霊に満されていなければ、神様の知恵で宣教することはできません。

ミニチャーチのためのヒント

1) イエス様を伝えるのに、この世の知恵が役立たないのは何故?

2) 神様の知恵はどうしたら身につくのでしょうか?