2006/2/26 メッセージノート

偶像礼拝って何ですか?イザヤ2:6-22

皆さんの周りの人々で「偶像」という言葉は知らなくても「アイドル」という言葉を知らない人はいないと思います。外国語の言葉が日本語に取り入れられ、元の意味とは違った意味で定着することが良くありますが、このアイドルもそうです。日本語では、TVに出てくる人気者の歌手や俳優のことを意味しています。皆さんのアイドルは誰ですか?どんなに夢中になっても普通は礼拝したりはしません。でも、勉強や、仕事をほったらかしにしてTV局の裏口で一目見ようと待っているとか、高価なプレゼントをしたりするなら、これはもうほとんど「偶像礼拝」の域に入っています。聖書は偶像礼拝を堅く禁じています(出エジプト記20:4-6)。

あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。 あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。(出エジプト記20:4-6)

今週の聖書の個所は私たちに、偶像礼拝の本質とそれがもたらす結果について正しく教えてくれます。私たちはそこから、神様に従う者の生き方を学びましょう。

A. 昔イスラエルで起こったこと

1)神様に対する不信と背き

この個所の全てが偶像について書かれているわけではありません。具体的な偶像について取り上げられているのは8節と18-21節だけです。しかし、偶像はこの個所全体のキーワードです。「偶像礼拝を避ける」ということはイスラエルの民にとっても、私達にとっても大変重要な意味を持っています。問題は、私達にとって偶像礼拝が何を意味しているか?偶像礼拝の本質は何か?ということです。偶像を拝むということは、神様を拝まないということです。それは単に礼拝という行為を指しているのではありません。むしろ本質は、神様ではない誰かを、何かを信頼して、神様を信頼しないという心の問題なのです。イスラエルの民は、最初に与えられた戒め、十戒に含まれた、偶像礼拝の禁止をあっという間に破って金の子牛を作って拝みました。指導者モーセが神様の言葉を聞くために山に登りなかなか帰ってこなかったので、不安になったというのがその理由です。それ以来、偶像礼拝はイスラエルの歴史に繰り返し現れました。イザヤの時代も、そうだったのです。イザヤはその本質を見抜いていました。それは金の子牛を作った祖先同様「神様を信頼できない」という心です。だから何か「別のものを信頼する」という心です。しかしそれは、私達人間、そして全てのものを創ってくださった神様に背き、人の手で造られたものを神様とする、というまったく不自然でばかげたことです。6-9節を読んでみましょう。

あなたは御自分の民、ヤコブの家を捨てられた。この民がペリシテ人のように東方の占い師と魔術師を国に満たし異国の子らと手を結んだからだ。 この国は銀と金とに満たされ財宝には限りがない。この国は軍馬に満たされ戦車には限りがない。 この国は偶像に満たされ手の業、指の造った物にひれ伏す。 人間が卑しめられ、人はだれも低くされる。彼らをお赦しにならぬように。(6-9)

この時代のユダ(南王国)は表面的には繁栄していました。経済的にも軍事的に満たされ、文化的には回りの国々から招きいれた占い師、魔術師がもてはやされていました。彼らは偶像を持ち込み、拝めば繁栄をもたらしてくれると教えたのです。人々は神様の恵みによって生かされていることを忘れていました。

2)偶像礼拝のもたらした結果

イザヤは、この繁栄が長くは続かないことを警告しています。やがてイスラエルは領土を失い流浪の民となりました。民族が領土を持ったのはつい最近のことです。それもまだ安定した状態とはいえません。しかしこのことは、当時のイスラエル民族だけが責められるべきものではありません。現在でもあらゆる国と地域で、偶像礼拝は様々に形を変えて人々の心と生活を蝕んでいるのです。これは宗教としてキリスト教が力を持っているところでも例外ではありません。人々は造り主に目を向けず、神様ではないもの、人間、自然、お金、国、科学技術などに信頼をおいて生きています。それらの一つ一つは決して悪いものではありません。それらは全て神様が私たちに与えてくださったものや、与えられた知恵によって造り上げたものだからです。しかしそれらのものが、神様に取って代わって信頼されているなら、その人は、その社会はイスラエルと同じように、滅びに向かってゆくことになります。物質的繁栄が最も大切だとする考え、科学技術が明るい将来を約束するという考えが、いま行き詰まりを迎えています。人々の欲望は、地球上を消費しつくそうとしています。10節以降を読んでみましょう。

岩の間に入り、塵の中に隠れよ/主の恐るべき御顔と、威光の輝きとを避けて。 その日には、人間の高ぶる目は低くされ/傲慢な者は卑しめられ/主はただひとり、高く上げられる。 万軍の主の日が臨む/すべて誇る者と傲慢な者に/すべて高ぶる者に――彼らは低くされる―― 高くそびえ立つレバノン杉のすべてに/バシャンの樫の木のすべてに 高い山、そびえ立つ峰のすべてに 高い塔、堅固な城壁のすべてに タルシシュの船と美しい小舟のすべてに。 その日には、誇る者は卑しめられ/傲慢な者は低くされ/主はただひとり、高く上げられる。 偶像はことごとく滅びる。 主が立って地を揺り動かされるとき/岩の洞穴、地の中の穴に入るがよい/主の恐るべき御顔と、威光の輝きとを避けて。 その日には、だれもが/ひれ伏すために造った銀の偶像と金の偶像を/もぐらやこうもりに投げ与える。 主が立って地を揺り動かされるとき/岩の洞窟、崖の裂け目に入るがよい/主の恐るべき御顔と、威光の輝きとを避けて。 人間に頼るのをやめよ/鼻で息をしているだけの者に。どこに彼の値打ちがあるのか。(10-22)

同じような表現が何度も出てきます。もはや神様を頼ろうとはしない人間を、高ぶる目、傲慢な者、誇る者と表現しています(11,12,17節)。そのような態度はやがて神様の裁きを受けることになります。10節19節21節によく似た表現が出てきます。誰も神様の視線を避けることはできないということを前提とした皮肉な表現です。逮捕された堀江さんは学生時代にwebsiteを作る会社を始めました。将来性のある会社だったので資金が沢山集まり始めたのが間違いの始まりでした。もし彼に金持ちになるという以上のヴィジョンがあればこんなことにはならなかったでしょう。しかし、彼には自分の欲望が与えてくれるヴィジョンに向かって走るしかありませんでした。この事件は日本が神様を信じる人の少ない国だからおこったのでしょうか?いいえ全く同じような、しかし規模としてはライヴドアなんて比べ物にならないほど大きな事件を起こしたのはエンロンというアメリカの会社です。神の民イスラエルが偶像礼拝で滅んだように、キリスト教の影響の強い国の、自分はクリスチャンだと自称する人でも、日曜ごとに教会に通っていても、神様を忘れ、何らかの偶像に心をとらえられてしまう危険があるのです。

B. 今私たちが知るべきこと

1)偶像礼拝の本当の意味を知ること

イザヤは偶像礼拝の本質を最後の22節で鋭く見抜いています。木や石の偶像自体はシンボルに過ぎないのです。それを造った人間の欲望のシンボルです。そしてその欲望を利用して人の心を神様から引き離そうとするのがサタンの働きなのです。自分であれ、信頼できそうな他人、占い師、魔術師であれ、また人間の作った社会の仕組みや道具であれ、神様を差し置いてそれをあなたの一番大切なものとするとき、あなたは偶像礼拝者になってしまうのです。

偶像礼拝とは、クリスチャンなのに京都や奈良へ行って神社仏閣で手を合わせる(それも避けるべきですが)、といったことよりもむしろ、あなたの心のありようの問題なのです。

それではこの社会に生活している限りついて回る、宗教儀礼(行いとしての偶像礼拝)にクリスチャンとしてはどう付き合えばよいのでしょうか?列王記下5章18-19節にヒントがあります。

僕は今後、主以外の他の神々に焼き尽くす献げ物やその他のいけにえをささげることはしません。 ただし、この事については主が僕を赦してくださいますように。わたしの主君がリモンの神殿に行ってひれ伏すとき、わたしは介添えをさせられます。そのとき、わたしもリモンの神殿でひれ伏さねばなりません。わたしがリモンの神殿でひれ伏すとき、主がその事についてこの僕を赦してくださいますように。」 エリシャは彼に、「安心して行きなさい」と言った。(列王記下5:17-19)

アラムという国の司令官ナアマンは預言者エリシャを通して聖書の神様だけを信じることを決心しました。しかし彼の職務上、王様が異教の神殿で奉げる礼拝で共にひれ伏さなければなりません。エリシャはそれに対して「安心していきなさい」と答えたのです。形式上の偶像礼拝は、避けられないなら罪には問われない、ということです。ところが、ダニエル記の3章には命を賭けても、偶像を決して拝まないと決心して、燃える火の中に投げ込まれ無事だった3人のことが書かれています。

シャドラク、メシャク、アベド・ネゴはネブカドネツァル王に答えた。「このお定めにつきまして、お答えする必要はございません。 わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。 そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」(ダニエル書3:16-18)

この正反対に見えるもう一つの箇所から私たちは、命を失ってもそうするべき時には、神様から確信が与えられる、ということを知ることができます。ユダヤ人として熱心で有能な三人でしたから列王記にあるナアマンのことは知っていたはずです。拝んでしまっても神様が赦してくださることは知っていたはずなのです。それでも彼らは偶像を拝まず、あえて火の中に投げ込まれることを選びました。それは、そのことによって神様の栄光が表されることを知っていたからです。彼らの信仰が王を信仰の確信へ一歩近づけました。やがて王は聖書の神様を信じる人になりました。

2)神様を信頼すること

偶像礼拝に陥らないためには、「自分の偶像を作らないよう注意する」という消極的な意識よりむしろ、積極的に神様を信頼して歩むという意識のほうが大切です。

そして神様に対する信頼とは、聖書や信仰書あるいは人から知識として与えられるものではなく、あなたの、神様と共に歩む日々の生活によって強められてゆくものです。あなたの神様に対する信頼の真価は、苦しい時、試練の時にこそあきらかになります。先週マーティンが話してくれたように、神様は私たちの霊的成長のために、あえて試練の時を与えられるときがあります。そのような時こそ神様に対する信頼をより確かなものとするチャンスです。

日々の歩みの中で、神様があなたにとって最も信頼できる方であることを、たくさん発見して、偶像礼拝に陥ってしまう危険を避けてください

メッセージのポイント

偶像礼拝は「行い」の問題ではなく「心」の問題です。形式的に、偶像を拝むことを避けること求めるのは神様ではなく、律法主義です。日本はキリスト教国ではありませんから、他の宗教の行事に出席しなければならないことも多くあり、偶像礼拝的行為を求められることもあります。避けられればそれに越したことはありませんが、人間関係を壊してまで避ける必要はありません。むしろ、注意深く避けなければならないのは、「心の偶像礼拝」です。「心の偶像礼拝」は、他の宗教の影響が強い国々だけではなく、キリスト教国といわれる国々においても深刻な問題です。あなたの心はどこにあるのか?それが神様のあなたに対する問いです。神様に信頼して歩んでいるのか?それとも、神様以外の偶像(それは、木や石で作った実際の像には限りません。現代の偶像とは、むしろ権力・財産・地位・人間関係などの場合が多いのです)を頼りにして歩んでいるのか?もう一度自分の歩みを吟味してみましょう。偶像礼拝は、自由な神の子供として創られたあなたを、偶像の奴隷に堕落させるものです。

話し合いのために

1)あなたにとってかつて偶像だったものは何ですか?

2)今あなたにとって偶像になりやすいものは何ですか?