2006/4/2 メッセージノート マルコ 2:13-17 (シリーズ6) 

私はあなたのために来ました
−イエス・キリスト

始めに全体を読んでみましょう

イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。 そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。(13-14)

イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。(15)

ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。(16)

イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(17)


A.人はみな罪人、しかし罪人は2種類に分けられます。

もう一度、16節を読んでみましょう。第一の罪人のタイプは 「自分を罪人だとは思わない罪人」です。

ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。(16)

1) 自分を罪人だとは思わない罪人

この種類の人の代表としてここで取り上げられているのがファリサイ派の律法学者です。どの宗教にも宗派があるように当時のユダヤ教にもいくつかの宗派がありました。律法を守ることが重要なユダヤ教の中でも特に厳しく律法を守ることを強調するのがこのファリサイ派です。その中でも律法学者というのは律法の専門家なのです。彼らにとって、律法を守れない罪人と食事をするなどとんでもないことだったのです。ところがイエス様はこのような人々と一緒に食事されたばかりか、このような人々こそ神様に招かれているとおっしゃいました。イエス様は律法を厳格に守ることが神様に従うことになるのではなく、心のありかたが大切なのだということを教えておられるのです。だから心から神様に従っているつもりで、細かな宗教的規定に従うことに心を砕き、それができない人々を罪人と決めつける彼らをイエス様は「律法主義」と非難されたのです。ルカによる福音書18章9-14節では、イエス様が2種類の罪人を対照的にとりあげています。読んでみましょう。

自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(ルカ 18:9-14)

彼は自分の行いを誇りました。彼は行いという点でいえば本当に立派な人です。もう一人と違い律法の規定もちゃんと守っていました。しかしイエス様はこの人が神様の目から正しくはない。とおっしゃるのです。

2) 自分が罪人であることを知っている罪人

一方でイエス様は罪人と呼ばれた人々に対して深い同情を示されました。ルカの福音書にも徴税人が出てきます。この「徴税人」が第二のタイプの代表です。アルファイの子レビとはイエス様の弟子のー人マタイのことです。彼らの集める税とはローマ帝国に収めるものです。その代理徴収をして手数料をとるのが彼らの仕事でした。それは占領国ローマの手先となって同胞を苦しめる罪深いことだとされていたのです。ルカの方の徴税人に目を向けると、自分が神様の基準にはとうていとどかず、罪ぶかい者であることを痛いほどに自覚していることがわかります。彼には、ファリサイ人のように誇る言葉は一つもないのです。彼がやっと口にすることのできた言葉は「神様、罪人の私を憐れんでください」だったのです。何ともなさけない言葉だと思いませんか?しかし、この言葉こそが神様の恵みの門なのです。本当は私たちの内には神様に対して、「だから私は正しい」と言えるような材料は全くないからです。そのことをこの徴税人のように正直に打ちあけ、私を憐れんで下さいと願うとき、恵みはあなたのうちにやどりはじめるのです。

B. あなたのために何を?

1) 私に従ってきなさいと呼びかける(13-14)

13-14節を読みましょう

イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。 そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。(13-14)

異論もあるのですが、この人は後にイエス様にマタイ(神様の賜物の意)の名をいただいた弟子の一人だと考えられます。イエス様は、とても簡単な、しかし人の人生を変えることに出来る強力な言葉を彼にかけました「私に従ってきなさい」。 これはすべての人にかけられている言葉でもあります。そして罪から解放される唯一の道を示す言葉なのです。自分の罪の自覚のない人は、この言葉に従うことは出来ません。しかし自分の内にある罪によって神様からの隔たりを感じている人は「神様、罪人の私を憐れんでください」と願うことが出来ます。そしてイエス様はその人を本当に憐れんで「私に従ってきなさい」と呼びかけてくださるのです。あなたはこの呼びかけにどう応えますか?

2) 共に生きてくださる(15)

次は15節です。

イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。(15)

彼の家でイエス様は多くの人々と共に食事を楽しんでおられました。彼らの多くは徴税人などファリサイ人には罪人とみなされる人々でした。これらの人々は当時の社会では罪人とさげすまれていたのです。彼らは、イエス様の招きに応え「従っていた」人々でした。食事は私たちにとって大切な時間です。ただからだの栄養を取るばかりでなく、人々と顔を見合わせ楽しく話をすることが心に栄養になります。イエス様に出会うまでは、神様が自分たちのような者を相手にはしてくれないだろうと思っていた人々の集まりの中で、イエス様は弟子たちと共に楽しまれたのです。ファリサイ派の人々からは、一緒に食事をしたら自分たちまで穢れてしまうと、さげすまれていた人々です。きよい神の子、イエス様がこんな私たちと一緒に食事をして下さる。このことに、いあわせた人々はみな、神様が遠く高い所におられる方ではなく、全く同じ高さの所まで来て下さり、共に歩んでくださる、生きてくださる方であることを実感したのです。

皆さんも、よほどうぬぼれた人でなければ、自分がひどく惨めな者に思えたり、人と比べてつまらない人間だと思うことがあると思います。そのような時にこそ、「こんな私だからこそイエス様は一緒にいてくださるのだ。こんな私だからこそ、イエス様は来てくださったのだと思い出してください。

3) 神の国に招き入れる(17)

最後の17節です。

イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(17)

元気な人は病院に行こうなどとは思いません。しかし病気で苦しむ人は、癒してもらうために医師のところへ行くのです。イエス様は罪を赦すために世に来られました。だから罪の無い人には関係ありません。だから、自分には罪が無い、イエス様に直してもらう必要はないと考える人はイエス様に近づこうとはしないのです。

ところが、神様の目から見て、正しい人は一人もいない、罪のない人など存在しないのです。罪を病気にたとえて言うなら、世界には、健康な人はいないのです。そこには無自覚な病人と、自分が病気であることを知っている病人しかいないということです。

つまりあなたがどう思っていようと、イエス様はあなたを神の国、神様との新しい関係の中に招くために来られたのです。


メッセージのポイント

ここに出てくるファリサイ派の律法学者のように、自分と神様の間が断絶しているなどとは考えてもみない人がいます。自分は正しく、神様の基準でも合格点の自信があり、人を裁くのです。一方で、自分はなんと罪深い、みにくい存在なのだろうと思いながら生きている人もいます。そのどちらも思い違いをしています。神様の基準に従うなら正しい人は一人もいません。自分は正しいと安心していられる人は一人もいないのです。しかし、救いはあります。罪深い存在であり続けなければならないのではありません。イエス様は「罪人を招くために来た」と言われたのです。すべての人は罪人であるがゆえに神の国に招かれているのです。イエス様が望んでおられることは、あなたが「自分はだめだなあ」と思い続けることではなく、イエス様からの招待状を握りしめ救いの門をたたくことです。

ミニチャーチのために

1) イエス様が医者(病人)にたとえたのはどのような人のことですか?

2) 人類は2種類に分けられます。どのように?そしてあなたはどっち?