2006年4月9日メッセージノート

受難週の黙想 2006

4/9 棕梠の日曜日(エルサレム入城)

子ロバに乗ってエルサレムにやってきたイエス様(マタイ21:1-5, ゼカリヤ9:9)

一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、 言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。 もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」 それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。 「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」

5節はゼカリヤ書9:9の引用です。ここで心に留めていただきたいことは、つまり、この出来事が預言者を通して言われていたことの成就だったということです。そしてイエス様は、権力者や軍人の乗る立派な馬ではなく、ロバの子に乗ってこられました。それはイエス様が今までのリーダーたちとは全く違ったアプローチで人を導く方であることをあらわしています。支配するリーダーではなく、仕えるリーダーです。羊のために命をかける羊飼いであり、僕の足を洗う主人のようなリーダーです。そしてあなたが本当のリーダーになりたいと思うなら、イエス様と同じようにしなければなりません。

4/10 月曜日(宮潔め)

神の家を商売の場としてはいけない(マタイ21:12-13, イザヤ56:7)

それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。 そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている。」

教会は神殿ではありません。イエス様が来てくださり、聖霊として信じるものの心に住んでいてくださるのですから、私達自身が神様の神殿(住まい)なのです。そこで私たちが覚えなければならないのは、今、宮清めの意味することは一人一人の心を清く保つことだということです。どんなに美しい部屋も掃除やかたづけをしたければ、乱雑になりほこりがつもってしまいます。私たちの心も同じです

4/11 火曜日(権威についての問答)

あなたに神様が与えられた権威 (マタイ21:23-27)

イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」 イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。 ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。 『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」 そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」

彼らはまじめに質問しているのではなく、単に言いがかりをつけるために質問しています。それに対してイエス様は、彼らと同じようにどう答えても非難される質問で切り返し、彼らを黙らせてしまいました。本当は誰の目から見てもそれが神様からの権威だということははっきりしていました。私たちもまた神様の権威によって宣べ伝えています。しかしこの権威は時として疑われ、軽んじられ、踏みにじられるのです。イエス様のように与えられている権威を疑うことなく、どのように扱われようと、怒りや悲しみに支配されることなく、神様からの知恵や、慰めをいただいて歩み続けましょう

4/12 水曜日(べタニアの日・香油の日)

人を自分の価値観で裁いてはいけない (マタイ 26:6-13)

さて、イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられたとき、 一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。 高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」 イエスはこれを知って言われた。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。 この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。 はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」

イエス様は決して貧しい者にほどこしをすることを軽んじているのではありません。ただどんなによい行いも、神様に自分のベストをささげよう、という意志に勝るものは無いということに、ここで私たちは気付かされます。「よい行い」はしばしば自己満足・偽善の隠れ蓑になります。また、他の人々の考えや行動を非難する道具に使われます。私はクリスチャンが収入の10%を献げるべきだと信じますが、それ以外のお金の使い方に関しては、誰からもせめられることは何もないのです。

4/13 木曜日(洗足の木曜日・最後の晩餐)

互いに仕え合う僕として生きてゆきなさい (ヨハネ 13:1-15)

この部分ほどイエス様に従う者同士の人間関係のあり方を明確に示しているところはありません。足を洗うのは僕であり、洗ってもらうのは主人です。イエス様は支配者として君臨するために来られたのではなく仕えるために来られました。その頂点が、すべての人の身代わりに十字架の刑を引き受けるということだったのです。主の御名によって罪の赦しの宣言を受けた者は皆、イエス様に足を洗ってもらった者だと言えます。そこで私たちは自問しなければなりません。「私もまたイエス様と同じように僕(しもべ)として歩んでいるだろうか」と。

イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、 食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。 それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。 シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。 イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。 ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。(3-8)

あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。 ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。(13-15)

4/14 金曜日(受難の日)

あなたの人生の座標の原点(マタイ 26:69-75)

ペトロは外にいて中庭に座っていた。そこへ一人の女中が近寄って来て、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言った。 ペトロは皆の前でそれを打ち消して、「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と言った。 ペトロが門の方に行くと、ほかの女中が彼に目を留め、居合わせた人々に、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言った。 そこで、ペトロは再び、「そんな人は知らない」と誓って打ち消した。 しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに言った。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」 そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。 ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。

日曜日に歓喜の声でエルサレムに迎えられたイエス様でしたが、最後の時には、共に立つ者は一人もいませんでした。3年の間、彼とともに行動した弟子たちでさえ例外ではありませんでした。私たちの誰にもペテロを責める資格はありません。私たちは彼と同じ弱さを持っているからです。復活されたイエス様でさえ彼らを責め、あなたは失格だとはおっしゃいませんでした。それどころか、弱い裏切り者の彼らに宣教を託されたのです。私たちはパウロのように自分の弱さを誇ることが出来ます。それは主を信頼することによって可能なことです。

4/15 土曜日(暗黒の土曜日)

イエス様は宣教するために陰府(よみ)に下られた (1ペトロ3:18-20, 4:6)

キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。 そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。 この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。

死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。

この期間、十字架の死からよみがえりの時までイエス様は何をされていたのでしょうか?その体は墓の中に横たえられていましたが、主の霊は重要な働きをなさっていたのです。1ペトロ3:18-22と4:6を読んでみましょう。生きている間にイエス様を主と受け入れなかった人が肉体の死後どうなるのか?その答えがここにあります。この言を素直に読むなら、永遠の命を受けるチャンスが彼らにも用意されていることがわかります。

メッセージのポイント

私たちにとって最も意義深い一週間「受難週」が始まりました。クリスチャンは伝統的に、イエス様の十字架に至る道を共にたどるかのように深く黙想する時として大切にしてきました。あなたもこの週を一年で最も深く主の十字架を想う週として、黙想し、聖書を読み、祈る時としてすごしてください。

話し合いのためのヒント

1) 十字架の出来事以外に受難週に起きた出来事で最も興味深かったのは?それは何故ですか?

2) 十字架を想う時、あなたはどのような気持ちになりますか?