2006年4月16日 イースターメッセージノート

復活!復活!復活!

A. 信仰の復活

1) 信頼しない者が信頼する者に

そして(婦人たちは)、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。 見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。 そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。 婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。 「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。 あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。 まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。 人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」 そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。.(ルカ24:1-11)

 いつまでも変らないものは信仰・希望・愛です。人はこの三つによって幸せに生きる者として創造されました。けれどもすべての人は皆、罪によって、それらを心の中から失ってしまったのです。イエス様が復活されたのは私たちの心の中に、失っていた信仰・希望・愛を復治させるためでもあったのです。始めに信仰、信頼することについてお話しします。イエス様とともにいた人はイエス様が十字架で亡くなられて、ほんとうにがっかりしてしまいました。イエス様は以前に「私は死ぬが三曰目によみがえる」といわれました。でも今の悲しみ、恐怖で、信じられないどころか、思い出すこともなかったのです。もう誰よりも信頼できるイエス様は死んでしまい。誰も信じられない、何を信じ、頼りにして生きてゆけばいいのだ?といった状態だったのです。
 
彼らは空っぽになったお墓を見てもまだ信じることが出来ませんでした。天使に語りかけられた女性たちは主の言葉を思い出しましたが、そのことを女性たちから聞いても弟子たちには信じることができなかったのです。しかし神様の信頼復活のプロジェクトは始まっていました。

2) イエス様はよみがえられあなたと共におられる

こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。 そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。 わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」 こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」(ルカ24:36-44)

ついにイエス様は弟子たちの前に復活した姿をお見せになりました。はじめは、その姿を死んだ人の霊が現れたと思い恐れおののいた弟子たちも、実際の体に触れて喜びました。あまりにも嬉しすぎることなので、夢ではないかと疑っていると、イエス様は焼き魚を食べて、お化けでもなければ夢でもないことを悟らせました。弟子たちはイエス様の約束が人間の考えでは不可能なことであっても、イエス様はその通りになさる方であることを見せられ、それからは、イエス様が天国に帰ってしまわれた後もずっと信じ続けることが出来ました。そしてその信仰、イエス様に対する信頼はこの時代までバトンタッチされてきたのです。今私たちはイエス様の姿を見ることは出来ません。それでも信頼できるのはなぜでしょうか?それはイエス様が、2000年後の世界に住む私たちの祈りにも耳を傾け、応えてくださるからです。イエス様は目には見えなくてもいつもあなたと一緒にいてくださるのです。どんなに悲しくつらい時もイエス様が共にいてくださるので生き続けることができます。あなたはこのことを信じますか?世の中にはがっかりすることが沢山あります。信頼していた人に裏切られることもあるのです。また私たち自身にしても、自分の弱さ、限界によって、思いとは裏腹に人を裏切ってしまうこともあります。イエス様がよみがえられたということは、決して裏切ることのない友であり主である方があなたにはおられるということなのです。

B. 希望の復活

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。(ヨハネ20:19-20)

1) あなたの絶望は希望に

これは復活された日の夕方遅くの出来事です。イエス様はよみがえられた後は常に弟子たちに姿を見せ続けられたわけではありませんでした。彼らの安心もまだ完全ではありませんでした。弟子たちはまたおびえていました。イエス様が現れた喜びもつかの間、これから将来にわたって保証された確証のないまま、人々を恐れて鍵のかかった部屋に潜んでいたのです。未来に向かって展望の開けない苦しさの中に彼らはまだいました。そんなところにイエス様は再び現れたのです。彼らは再び喜ぶことが出来ました。

2) この希望は誰にも消すことが出来ない

 こうして、何度か復活された主にあった弟子たちはやがてイエス様との新しい付き合い方をしなければならないことを悟り、受け入れられるようになるのです。やがてイエス様は天の父の元に帰られ、二度と肉体を持った姿で人の前にご自身を現されることはなくなりました。それでも聖霊という存在として共におられることを、弟子たちは確信できたのです。主が共におられるという確信は将来の消えることのない希望を私たちの心に植えつけました。主が永遠にあなたと共にいてくださる以上、あなたの希望を消してしまうことの出来るものはないのです。

C. 愛の復活

食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。 はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。(ヨハネ21:15-19)

1) 裏切り者が命さえささげる者に

ペトロはイエス様が天に帰られ見えなくなった後、生涯をイエスのための働きに捧げました。その最後は迫害され、殺されてしまったのです。ペトロは最初から、死ぬことさえ恐れずにイエス様に従う人だったのではありません。本当にイエス様が大好きで、イエス様が捕まるなら自分も捕まってもかまわない、という気持ちはあったのです。しかし、イエス様にそう言うと、イエス様は、「あなたは私がとらえられた後、鶏が鳴く前に三度、私を知らないと言うでしょう」と言われました。そして、イエス様のおっしゃる通りになったのです。自分に災いがふりかかることを恐れて三度も「私はイエスなんて知らない」と最後は神に誓ってとさえ言って、イエス様を否定したのです。復活されたイエス様は、それらを一つ一つ打ち消してゆくように、三度「私を愛するか?」と繰り返されました。イエス様はペトロの「はい」に対して、私の子羊、羊を養いなさい、と命じられます。ペトロは、三度も知らないと言ったことを赦されて、今度は本当に命がけで主に仕える人になったのです。

2) あなたの新しい命は、愛するために与えられた

愛とは好きだという気持ちではありません。愛するという気持は、その人のために喜んで必要に応えるということです。イエス様を愛するということは、イエス様の「私に従ってきなさい」という言葉に応えるという生き方をするということです。今イエス様の愛の働きは世界中の教会を通して世界に現されています。神様はその深いご計画にしたがって私たちをこの教会に集わせ、新しい命を与えてくださいました。あなたはそれをこの教会に与えられた愛の働きを共に担うことに用いるよう神様に期待されているのです。

メッセージのポイント

イエス様のよみがえりは、信じる人々にも大きな変化を起こしました。イエス様が十字架にかけられ死んで墓に葬られてしまった時、それまでイエス様と行動を共にしていた全ての人の心の中から、信仰も希望も愛も消え去ってしまいました。まさに暗黒の土曜日を彼らは過ごしたのです。人生最悪の長い長い1日と感じられたことでしょう。十字架にかかる前に何度もイエス様が預言された復活の約束も、彼らは絶望のあまり意識の奥底に押し隠してしまいました。けれどもイエス様は約束の通りよみがえられ彼らの前に立たれました。イエス様の復活によって彼らの心に中にも信仰・希望・愛が復活したのです。私たちはこの信仰・希望・愛をいだいて生きているのです。世の終わりまでこれをあなたから奪い去ることが出来る者は誰もいません。

話し合いのためのヒント

1) 私たちが絶望することのない根拠はどこにあるのですか?
2) 今年、受難週をすごし、イースターを迎え、あなたの内側にどんな変化が起りましたか?