2006年4月30日 メッセージノート
「災いだ」 イザヤ5章
A. 最悪の時代を預言したイザヤ
1) 公正はなく流血の時代、正義はなく泣き叫ぶ声に満たされた時代 (5:1-7)
わたしは歌おう、わたしの愛する者のために/そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘に/ぶどう畑を持っていた。(1) よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り/良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。(2) さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ/わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。(3) わたしがぶどう畑のためになすべきことで/何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに/なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。(4) さあ、お前たちに告げよう/わたしがこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ/石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ(5) わたしはこれを見捨てる。枝は刈り込まれず/耕されることもなく/茨やおどろが生い茂るであろう。雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる。(6) イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑/主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに/見よ、流血(ミスパハ)。正義(ツェダカ)を待っておられたのに/見よ、叫喚(ツェアカ)。(7)
私の家から教会に来る途中に、このあたりでたった一つのワイナリーがあります。道から葡萄畑も見ることが出来ます。季節ごとに様々な作業をして私の興味を引きました。しかし。今年はもう誰もぶどうの木を手入れする人はいません。後継者がいないので続けることができなくなったそうです。私が信仰生活を始めた最初の教会は聖餐式にここのワインを使っていたのです。ですから、通りがかりに、だんだん荒れてゆく葡萄畑を見ると淋しい気持ちになります。ワイナリーのオーナー、憧れますね。でも本当は手の掛かる大変な仕事なのです。
葡萄はイスラエルの人々にとって麦と並んで最も身近な農作物です。良いワインを造るためには、まず原料である葡萄が良いものでなければ話になりません。イスラエルの人々は身近なだけに、農夫がどれほど注意深く手をかけて葡萄を作るかよく知っていました。だから神様がイスラエルをどれほど愛し、期待をかけていたということを、この歌からよく理解できました。
心を尽くして最善の準備をして結果を待っても、間違いないと期待していた良い結果は得られず、がっかりした経験が皆さんにもあるのではないでしょうか?神様は人のために最善を用意される方です。その人が、社会が、世界がよい実を得ることが出来るように、労を惜しまず、愛を注ぎ、守り導き、そして忍耐強く待ってくださる方です。しかし、イスラエルの民は頑なに背き続けます。この態度がどんな結果をもたらすか、それがこのイザヤの預言です。それは約200年後(B.C.586)に現実となってしまいました。
どんなに手をかけていても、収穫直前であっても、伝染性の病気が発生したら、感染した葡萄の木は全部焼き払わなければなりません。そうでなければ、病気は他の葡萄にも感染してしまうからです。人にとって、社会にとって最も深刻な病は「罪」です。それは貪欲(8)、行き過ぎた快楽(11-12)、不信(18)、真理を曲げる(20)、うぬぼれ(21)、酩酊(22)、正義を曲げる(23)。この罪が、戦争、テロ、殺人、飢餓、貧困、環境破壊という症状になって現れるのです。
2) 今の世界はそれと違うのか?(ヨハネ10:10-11)
それなら今の社会もそれとほとんど変わらない、と多くの方が感じているのではないでしょうか?確かに、ここであげられている罪(病)とその結果(症状)は既にこの社会でも現れているようです。けれども決定的に違う点があります。ヨハネによる福音書の10章10-11節を読んでみましょう。
盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。(ヨハネ10:10-11)
イエス・キリストの言葉です。神様は約2000年前に、イエスという一人の人として世界に来てくださいました。西暦(dominical year)はB.C.とA.D.に分けられています。それは世界に歴史を二分するような大きな変化を与えた出来事でした。B.C.とはキリスト以前(before Christ)とA.Dとは主の年(anno Domini)の略称です。先々週、教会ではイースターをお祝いしました。イエス様が死に打ち勝ちよみがえられたことを祝う日曜日です。それから約2000年たった今もよみがえられた主イエス様は、羊飼いのように私たちを導いていてくださるのです。罪の力は今もいたるところにあって、人生の歩みの危険や障害となっています。起きていることは変わらなくても、今の私たちには安全な道が提供されています。このことが、旧約の時代との決定的な違いです。どうしたら安全な道を歩めるのか?方法は一つしかありません盗人ではなく、よい羊飼いに従って行くことです。このことを後半でもう少し詳しくお話ししたいと思います。
B. 災いではなく幸いを受け取るために
1) 罪は災いをもたらす (8-30)
誰にとっても災いより、幸いのほうがいいに決まっています。けれども、人はいつの間にか幸いではなく災いを呼び寄せてしまう。その原因が「罪」です。先ほど紹介した罪とそれがもたらす災いを一つずつ見てゆきましょう。
貪欲(8-10)
災いだ、家に家を連ね、畑に畑を加える者は。お前たちは余地を残さぬまでに/この地を独り占めにしている。 万軍の主はわたしの耳に言われた。この多くの家、大きな美しい家は/必ず荒れ果てて住む者がなくなる。 十ツェメドのぶどう畑に一バトの収穫/一ホメルの種に一エファの実りしかない。(8-10)
行き過ぎた快楽(11-17)
災いだ、朝早くから濃い酒をあおり/夜更けまで酒に身を焼かれる者は。 酒宴には琴と竪琴、太鼓と笛をそろえている。だが、主の働きに目を留めず/御手の業を見ようともしない。 それゆえ、わたしの民はなすすべも/知らぬまま捕らわれて行く。貴族らも飢え、群衆は渇きで干上がる。 それゆえ、陰府は喉を広げ/その口をどこまでも開く。高貴な者も群衆も/騒ぎの音も喜びの声も、そこに落ち込む。人間が卑しめられ、人はだれも低くされる。高ぶる者の目は低くされる。 万軍の主は正義のゆえに高くされ/聖なる神は恵みの御業のゆえにあがめられる。 小羊は牧場にいるように草をはみ/肥えた家畜は廃虚で餌を得る。(11-17)
神様に頼らず、他のものを頼りにする(18-19)
災いだ、むなしいものを手綱として、罪を/車の綱として、咎を引き寄せる者は。 彼らは言う。「イスラエルの聖なる方を急がせよ/早く事を起こさせよ、それを見せてもらおう。その方の計らいを近づかせ、実現させてみよ。そうすれば納得しよう。」(18-19)
真理を曲げる(20)
災いだ、悪を善と言い、善を悪と言う者は。彼らは闇を光とし、光を闇とし/苦いものを甘いとし、甘いものを苦いとする。
うぬぼれ(21)
災いだ、自分の目には知者であり/うぬぼれて、賢いと思う者は。
酩酊(22)
災いだ、酒を飲むことにかけては勇者/強い酒を調合することにかけては/豪傑である者は。
正義を曲げる(23-24)
これらの者は賄賂を取って悪人を弁護し/正しい人の正しさを退ける。 それゆえ、火が舌のようにわらをなめ尽くし/炎が枯れ草を焼き尽くすように/彼らの根は腐り、花は塵のように舞い上がる。彼らが万軍の主の教えを拒み/イスラエルの聖なる方の言葉を侮ったからだ。
最後に罪で満たされた社会は外からの攻撃にもさらされやすいことが25節以下でわかります。
それゆえ/主は御自分の民に向かって激しく怒り/御手を伸ばして、彼らを撃たれた。山々は震え/民のしかばねは芥のように巷に散った。しかしなお、主の怒りはやまず/御手は伸ばされたままだ。 主は旗を揚げて、遠くの民に合図し/口笛を吹いて地の果てから彼らを呼ばれる。見よ、彼らは速やかに、足も軽くやって来る。 疲れる者も、よろめく者もない。まどろむことも、眠ることもしない。腰の帯は解かれることがなく/サンダルのひもは切れることがない。 彼らは矢を研ぎ澄まし/弓をことごとく引き絞っている。馬のひづめは火打ち石のようだ。車輪は嵐のように速い。 彼らは雌獅子のようにほえ/若獅子のようにほえ/うなり声をあげ、獲物を捕らえる。救おうとしても、助け出しうる者はない。 その日には、海のごう音のように/主は彼らに向かって、うなり声をあげられる。主が地に目を注がれると、見よ、闇が地を閉ざし/光も黒雲に遮られて闇となる (25-30)
結局のところこれらの罪の本質は神様からの断絶です。神様との関係正常化を図らない限り、これらの問題は私たちにしつこく付きまといます。
2) 幸いはどこに (マタイ 5:3-12)
A.D. の時代に生きる私たちは、避けるべき、災いをもたらす罪を知らされているだけではなく、幸いに生きるために、どのようなことを追い求めてゆけばよいかということもイエス様ご自身の言葉で教えられています。マタイによる福音書の5章3-10節を読みましょう
心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。 悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。 柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。 義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。 憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。 心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。 平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。 義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
心が貧しいとは、誤解されやすい言葉ですが、心が狭いとか問題があるということではありません。心の中が余計なもので満たされていないということです。神様の恵みを受け取る準備があるとすればまさにこのことこそが必要なのです。
悲しんでいることがなぜ幸いなのか、それは神様から来る深い慰めを得ることができるからです。ここで悲しんでいる人とは、心の悲しみをー時的な楽しみでごまかしたり、考えないようにしたりせずに、本当になんとかしたいと思っている人です。イエス様を主と知らない人は問題の解決を別のものに求めるしかありません。しかしそれでは本当の解決はいつまでたっても得られないのです。
「柔和な」という言葉は日本語ではそれほどではありませんが、英語だと弱々しいというニュアンスがあって、人気のある言葉ではありません。しかし、やられたらやりかえそうとか、やられる前にやってしまおうという、今は「柔和」よりずっと人気のある「勇敢」な人は決して平和をもたらすことはできません。
次の「義に飢え渇く」「憐れみ深い」「心の清い」「平和を実現する」はわかりやすいですね。これらが私たちの目ざすべき姿です。
今、私は、ユアチャーチはこれらの方向に向って前進しているでしょうか?そうであれば私たちは災いではなく幸いに向う道を歩いていることになります。
さて、この一連のイエス様の言葉の最後の部分は、「正しい事のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」というものです。正義を貫こうとすれば、不正な利益を得ていたものから迫害を受ける。このことは旧約の預言者も、イエス様ご自身も、そしてイエスに従う者もみな経験してきました。そのために命を落とすことも少なくはありませんでした。私たちは、体を殺せても魂を滅ぼすことの出来ない者を恐れる必要はありません。私たちの魂は天国の権威によって永遠の命を保証されているのです。
メッセージのポイント
イザヤは、繁栄に浮かれ欲望のままに神様に背き続けることが、恐ろしい災いをもたらすことを預言しました。そしてユダ王国にそれは実現したのです。一人一人の罪がやがて社会を崩壊させるマイナスのエネルギーとなって降りかかってくるのです。人の心は今も変わってはいません。しかし今の時代には希望があります。イエスキリストが世を救うために来てくださり、死と罪の力を打ち砕いてくださったからです。今の時代に生きる私たちは、この救いを受け取るチャンスがあるのです。そしてイエス様を信じて従う者は「災い」の世であっても、「幸い」に歩むことの出来る資質を身につけることができるのです。
話し合いのためのヒント
1) イザヤの預言した災いの時と現在の似ているところと異なるところをあげてみましょう?
2) 災いは罪の現れです。それでは幸いは?