2006/5/7 メッセージ マルコによる福音書 2:18-28(シリーズF)

ユアチャーチは新しい皮袋か?

A. ファリサイ派の信仰とイエス様の信仰

1) 人を裁く信仰と人を慰めはげます信仰(18,23-26)

時々、聞かれる事があります。ユアチャーチでは断食祈り会はいつやっていますか?もちろん「やっていません。」と答えます。「では徹夜祈り会は?」と聞かれても答えは同じです。「早朝祈り会はあるんでしょうね?」これもいいえです。「それでは普通の祈り会は何曜日ですか?」「実はそういう集りはありません。」相手はあきれ顔で「ではユアチャーチの人はいつ祈るのですか?」そこで私はつい「ユアチャーチの人は集会がなくたってミニチャーチや個人でよく祈っていますよ。」と答えるわけですが、間違いありませんね?18,23-26節を読みましょう。

ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」(18)

ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。 ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。 イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。 アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」(23-26)

「キリスト教って立派な教えだと思うのだけれども、〜してはいけない、〜をしなければいけないと、いろいろ守らなくてはならないことがあって窮屈そうなので私は遠慮しておきます。」といわれることがあります。

しかし、このイエス様の言葉は、それが誤解であることを教えてくれます。イエス様はむしろ、あれをしてはいけない、これをしなければならないということが信仰の本質ではないということを教えたので、ファリサイ派と呼ばれた、当時のイスラエルで大きな影響力を持っていた宗教的指導者たちに、危険人物だと思われたのです。

戒律を守るか守らないかが、正しい人、きよい人、良い人かそうでないのかの尺度となっていて、神様に対する心からの期待も感謝も喜びもないところに、イエス様は革命をもたらしたのです。

それなのに、こんな誤解を与えているのは、教会の責任でもあるのです。私たちは自分のこととして、イエス様の革命によって生まれたキリストの教会でさえ、信仰が形だけのものになってしまう傾向を持っていることを知らなければなりません。

クリスチャンとはこうあるべきだという型にこだわって、人にイエス様の弟子になることではなく自分の考えの弟子にしようとしてしまうのです。本当のクリスチャンなら〜はしません。本当のバプテスマはこういう形でしなければなりません。本当の教会なら、礼拝はきちんとした服装で来なければなりません。これは、できないあなたは罪人です。守っている私は神様の前に正しい人間です。それが福音なのでしょうか

イエス様は、全て重荷を負った者は私のもとにいらっしゃい。それをおろして、かわりにあなたに相応しい荷物を持たせてあげよう。といわれた方です。それなのにイエス様の弟子である私たちが、もうすでにいろいろな重荷であえいでいる人に、イエス様のもとに来る前から、さらに思い荷物をその人の背中に加えようとするなら。私たちは、人に慰めと励ましを与えるイエス様の弟子ではなく、自分の基準で人を裁き自分を正しいとするファリサイ派の弟子となってしまいます。

2) 不自然な信仰と自然な信仰(19-20)

イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。 しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。(19-20)

神様の前に敬虔であるということは、敬虔そうな態度や言葉を使うということではありません。困っている人が来ても、私は断食と祈りに集中している所なので、あなたの話しを聞いてあげる時間はありません。というなら、そんな人は全く「祈りの人」などではないのです。

イエス様はとても自然に振舞われた方です。全然宗教的ではなく、見るからの聖職者といって服を着たりもしませんでした。「大食漢で大酒飲み」といわれるほど、食べたり飲んだりすることがお好きでした。しかも立派な人々とではなく、あまり評判の良くない人々とでした。

イエス様ご自身は、宣教を始められる前に40日も断食をなさいましたが、それを弟子たちに強いることはありませんでした。

イエス様は、神様との深い交わりを保つ上で断食の重要性を認めていましたが、「私は断食をしています。偉いでしょう?」というような振る舞いを嫌われました。それは神様のための断食ではなく、人に見せるためのものにすぎない偽善的なものだからです。

イエス様が弟子たちと共に道を歩いてゆくところを想像してみてください。もちろん舗装道路なんかではありません。赤茶けた、砂埃の舞うような土の道です。周りは麦畑です。イエス様は弟子たちに、軍隊の行進のように号令をかけ足をそろえさせ、わき目も降らずに歩かせたのではありません。親しい仲間が連れ立って歩くように、しゃべったり、歌ったり、時には傍らの麦の穂を摘んで口に入れてみたり。規則で成り立っている組織ではなく、心でつながっている仲間だったのです。嬉しい時にはともに喜び、悲しい時には共に泣き、心を合わせて祈り、声を合わせて歌う仲間だったのです。教会もそうありたいと思いませんか?

3)安息日のための信仰と信仰のための安息日(27-28)

ファリサイ派の人々はそんなイエス様たちの様子を見て、安息日にしてはいけないことをしている、と非難しましたが、イエス様は安息日の規定についても、その本来の在り方を取り戻さなければならないとおもわれ次のように言われました。

そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。 だから、人の子は安息日の主でもある。」(27-28)

まるで安息日を守るために人がいるみたいだと、イエス様は思われたのです。それは本来神様が、心と体を休める時として人に与え得てくださったものです。

キリスト教会は、イエス様の復活を記念して安息日の翌日、日曜日の朝を礼拝の日とするようになりました。それはだんだん、まず週の初めの日の朝礼拝をささげ、その日は安息の日として過ごす、というように定着してきました。

安息日にまつわる律法主義を乗り越えて始まったキリストの教会ですが同じ律法主義に気が付かないうちに陥っていることがあります。

日本では、「日曜礼拝を守る」という言い方がされます。何から守るのでしょうか?日曜の出勤でしょうか、特別な学校行事でしょうか。日曜日に仕事を持っている人に、クリスチャンなら日曜日には働かなくてもいい仕事に就くべきだと、意見するクリスチャンもいますが、それはイエス様の考えではありません。今この国ですべての人がクリスチャンになって日曜日に誰も働かなくなったら、社会は成り立ちません。電車に乗って教会には来られません。車に乗ってきますか?もし途中で交通事故にあっても、警官も救急車も来てくれず、自力で病院にいっても、医師も看護士もいないのです。日曜日に仕事をしないで済むのは恵みによって与えられた特権です。それがかなわない人がいることを忘れてはいけません。

もちろん、日曜日は休みなのに、自分の気分次第で、礼拝に出る、出ないというのは問題外です。 それは全く神様に喜ばれる態度ではありません。

それでは多様化した社会の中で、どのように主の日の礼拝をささげたらよいのでしょうか?

日曜日の朝、礼拝に出席できる人は、その与えられている特権を感謝すべきであって、それができない人を非難すべきではありません。むしろ自分に与えられている特権を軽く見ることなくますます熱心に礼拝をささげてください。何かの都合で出られないときには夜の礼拝や平日礼拝にいらしてください。

仕事や、家庭の事情で日曜日の朝が不都合な人も週に一度は、夜の礼拝や平日礼拝に出席して、日曜日に出席した人と同じ霊の糧をいただいて下さい。そうしなければ、霊的な栄養失調になってしまいます。たまに休める日曜があれば、いつも来ていないからといって遠慮せずに、いつも会えない人に会うためにもいらしてください。それが私の願いです。

B. 教会という皮袋(21-22)

だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。 また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」(21-22)

1) ミスマッチの無理・無駄・危険

先週、メッセージの中で「良いワインの第一条件はよい葡萄」というお話しをしましたが、良い葡萄を収穫したあとも、良いワインを作るためには多くのプロセスを経なければなりません。どんな葡萄を使うのか、どんな種類のワインを造るのか、それによって醸造の方法もまったく違ってきます。そのワイナリーのある気候風土によっても変わってきます。

実は教会の歩みのプロセスもよく似たところがあります。同じ教派の教会であっても、そこに集まる人やその教会が置かれている土地柄によって、同じ教会は一つもありません。

牧師やリーダーはイエス様ではないので、全ての人を満足させることのできる教会はないのです。ここで言われているのは、教会が皮袋として新しい方がいいのか古い方がいいのかということではありません。

熟成した良いワインを新しい皮袋に入れたら、新しい皮袋の成分やにおいがワインに移ってだめにしてしまいます。私はユアチャーチを始める前に古い皮袋に新しいワインを入れるような失敗と新しい皮袋に古いワインを詰め込むような失敗を何度かしてきました。そこで新しい皮袋に新しいワインを入れるような働きとして、ユアチャーチという教会を始めたのです。町田には40近くの教会がありますが皆違う皮袋です。そこでなければ出来ない働きをしています。同じような教会を目指すことはありません。ユアチャーチは今までの教会にはなじむことができない人が来られるような教会になるためにここで始まりました。だからそれぞれの教会に来る人々の雰囲気は違っていてもいいのです。というより、違っているのが当然なのです。

特に次の世代に開かれた教会になりたいと考えているのです。誰にとっても自分と違う世代の人、特に自分より若い人のことは理解しづらいところがあります。ファッション、音楽、言葉遣いなどが不快でバリアを張ってしまいたくなるのです。私たちは神様の恵みによって、(それが世代であれ個性であれ)自分とは違う人との間にある壁を崩していただき互いに仕え合うことにできる教会になりたいと思うのです。

さて、もしあなたが新しい力強いワインでこの皮袋(つまり教会)を古くて窮屈だと感じたとしたらどうしたら良いのでしょうか?反対にこの教会は新しすぎてついていけないと思ったらどうしますか?

どうか、小泉首相のように、ユアチャーチをぶっ壊して正しい姿に戻すなんて考えないで下さい。それは皮袋を裂いて、この在り方を喜んでいる人々から皮袋を奪うことになります。あなたがここに納まりきれないワインなら、新しい皮袋に移るか、自分で新しい皮袋を始める。それが最も良い方法です。

2) 新しくても古くてもファリサイ化の危険がある。

ファリサイ派の人々の信仰とイエス様の信仰を比較してみると、私たちは絶対イエス様のようでありたいと思うわけですが、ファリサイ化の危険は新しい皮袋にも古い皮袋にも同じように忍び寄ってきます。私の(私たちの)ようでなければいけない。あなたも私のようにしなさい。そうでなければ正しいクリスチャンではありません。イエス様を信じ公に告白してもバプテスマを受けていなければ、まだクリスチャンではありません。バプテスマもこの方法でなければ正しいバプテスマではありません。式次第に沿っておごそかに進められてゆくのが正しい礼拝です。形式的に立ったりすわったり、古い譛美歌を歌ったりするのは真の礼拝とはいえません。

これらはすべて間違った主張です。結局、型ややり方といった本質的とはいえないところで、自分とは違っている人を裁いてしまう体質を人間の組織はもっているということです。

私たちはそんなふうにならないように、いつまでもできるだけ柔らかい皮袋でありたいと思います。そのために心がけたいことは、ユアチャーチには

1)裁く信仰ではなく、慰め励ます信仰が働いているか?

2)不自然ではなく自然な信仰が現われているか?

3)形式的ではなく実質的な信仰が行われているか?

4)若いリーダーが育っているか?

ということなのです。そのためには皆さんの祈りと協力が必要です。

メッセージのポイント

ファリサイ派の信仰を非難することは簡単です。しかし私たち自身がそうなってしまうのも簡単なことなのです。ユアチャーチは新しい皮袋でありたいと思います。しかしそれは外見の問題ではありません。これから加わって来る人々の為に柔軟でありたいということです。それは人を裁く信仰ではなく、慰めはげます信仰。不自然ではなく自然な信仰。外見ではなく内面からキリストの香が表れる信仰のあるところになりたいということです。

話し合いのヒント

1) 自分の中にファリサイ派的信仰を発見したことがありませんか?

2) ユアチャーチはどんな教会を目ざしているのでしょうか?