2006年5月14日 母の日の礼拝メッセージノート

祝福のキーパーソン

今日は母の日です。けれどもこの中には、お母さんに対して素直にありがとうと言えない気持ちのままで今日を迎えている人もいるかもしれません。ありがとうといいたくても、もう天国にお帰りになったお母さんもいるでしょう。今朝も、聖書から、お母さんについて聞いてゆきましょう。お母さんとどう付き合ったらいいのか?また反対に、お母さんとして子供をどう育てたらよいか、聖書はどう答えているのでしょうか。聖書の中にも多くの母親が登場します。今朝は旧約から二人、新約から一人、三人のお母さんに登場してもらいます。

A. 聖書の中の母たち

1) 母の愚かさと賢さ (マタイ20:20-24, 創世記25,27)

最初に登場するのはイエス様の弟子のヤコブとヨハネのお母さんです。

そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。 イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」 イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、 イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」 ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。(マタイ20:20-24)

ヤコブもヨハネもまだ若者ではありましたが、弟子になる前は一人前の漁師として働いていた男たちです。そんな彼らに子離れできないでいたのか、反対に彼らがマザコンだったのか、とにかく彼らのお母さんはイエス様にお願いしたのです。学芸会の劇で自分の子供が主役になれるように先生に頼み込む母親のように。彼女も息子たちも、自分たちが全く的外れなことを願っていることには全く気付いてはいませんでした。きっと彼女はイエス様がどんな苦難を受けるか知っていれば、息子たちに「イエス様と付き合っちゃいけないよ、お前たちも命を落とすことになる」と諭していたのではないでしょうか?でも彼女はイエス様が政治革命を起こして政権をとり、王位に着くと考えたのです。それは彼女だけではなく、ほとんどの人が期待していた事でした。しかし彼女は実際にイエス様に頼んでしまったので、「イエス様の考えを理解できなかった人」の代表として聖書に記録されてしまいました。自分も総理大臣の母になれるかもしれない、そんな気持ちが、彼女をかなり恥ずかしい「聖書の女性」にしてしまったのです。

母親にとって自分の子供はいくつになっても自分の子供という感覚があって当然です。しかしそれが時として、子供の歩む道に自分の期待を投影してしまう。登場すべきではないところに登場してしまう。言わなくていいことを言ってしまう。という間違いをしてしまうことがあるのです。

しかし子供の人生を正しく導くのは、子ども自身ではなく、まして親でもなく、神様なのです。親がすべきことは、子供の自分勝手に歩ませる(放任)ことでもなければ、自分の思うとおりにする(支配)ことでもありません。子供が神様の声を聞いて一人で歩めるように育てるのが、神様から、父親と共に教育をゆだねられた母親の役割です。この意味で信仰教育というと教育の一つの分野のようですが、「神様への信仰・信頼」は教育の原点です。そしてそれは、自分自身の信仰を見せることによってしか子供に教えることは出来ないものなのです。

旧約聖書の創世記に出てくるリベカというお母さんを知っていますか?彼女と息子たちの話は創世記の25章と27章に紹介されています。アブラハムの息子イサクの妻となる女性として24章に初めて登場します。24章でのリベカはラヴロマンスのヒロインそのものですが、25節で彼女は双子の兄弟の母となり、本来であれば長子が受け継ぐ特権を弟のヤコブが得るために策略をめぐらす、すごい?母親として描かれていています。見方によってはずいぶんひどいお母さんのように見えますが、25章から27章を丁寧に読んでゆくと、彼女がとても賢く振舞ったことが分かります。始めに5章21-23、27-34節を読みます

イサクは、妻に子供ができなかったので、妻のために主に祈った。その祈りは主に聞き入れられ、妻リベカは身ごもった。 ところが、胎内で子供たちが押し合うので、リベカは、「これでは、わたしはどうなるのでしょう」と言って、主の御心を尋ねるために出かけた。 主は彼女に言われた。「二つの国民があなたの胎内に宿っており/二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くなり/兄が弟に仕えるようになる。」(創世記25:21-23)

二人の子供は成長して、エサウは巧みな狩人で野の人となったが、ヤコブは穏やかな人で天幕の周りで働くのを常とした。 イサクはエサウを愛した。狩りの獲物が好物だったからである。しかし、リベカはヤコブを愛した。 ある日のこと、ヤコブが煮物をしていると、エサウが疲れきって野原から帰って来た。 エサウはヤコブに言った。「お願いだ、その赤いもの(アドム)、そこの赤いものを食べさせてほしい。わたしは疲れきっているんだ。」彼が名をエドムとも呼ばれたのはこのためである。 ヤコブは言った。「まず、お兄さんの長子の権利を譲ってください。」 「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」とエサウが答えると、ヤコブは言った。「では、今すぐ誓ってください。」エサウは誓い、長子の権利をヤコブに譲ってしまった。 ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えた。エサウは飲み食いしたあげく立ち、去って行った。こうしてエサウは、長子の権利を軽んじた。(創世記25:27-34)

双子の息子たちを身ごもった時、彼らが体内で異常に押し合うので、祈りのうちに神様に尋ねると、「お腹には双子がおり、将来、二つの民となること。しかも弟のほうが強く、兄の民を従わせる」と知らされました。出産の時先に出てきた子が長子とされます。先に出てきた子は毛深く毛皮の意味をもつエサウと名付けられ、弟は兄のかかと(アケブ)をつかんで出てきたのでヤコブと名付けられました。エサウはワイルドでアウトドア派、ヤコブはアウトドア苦手な、きっと現代だったらゲームかコンピュータにはまるタイプで、イサクはエサウの方を愛したのです。リベカはヤコブが民族にとってキーパーソンとなることを知らされていたので、何かとヤコブを引き立てようとしました。ヤコブ自身、民のリーダーになるということを意識していたようですが、兄のエサウのほうは全くそのような自覚がなく、ただ自分の思うままに気ままに生きる人でした。

イサクが命の長くはないことを知ったときに、エサウを祝福しようとしましたが目が不自由になっていたイサクは、エサウの名を騙って祝福を求めたヤコブを見破れずに、弟ヤコブを意に反して祝福してしまいました。

父イサクは、エサウに適性がないことになかなか気付きませんでしたが、ヤコブがエサウから身を隠さなければならなくなった時には、神様の意思を確認し、ヤコブを改めて祝福し送り出しました。その時その時に機転を利かせてヤコブとエサウそして父ヤコブの間をうまく取り持ったのがリベカでした。ヤコブの12人の息子が、イスラエルの12部族のもとになったのです。この意味でリベカは双子の兄弟に対する神様の意思を聞きとり、従うことができたのです。

2) 母の悲しみと喜び (ルツ記1:1-7,19b-21,4:13-17)

旧約聖書からもう一人のお母さんに登場してもらいましょう。ルツ記に出てくるナオミさんです。夫と二人の息子とやがてイエス様が生まれるベツレヘムに暮らしていました。イエス様がお生まれになる1000年ほど前の出来事です。1章の1-7節と19節後半から21節を読みましょう。

士師が世を治めていたころ、飢饉が国を襲ったので、ある人が妻と二人の息子を連れて、ユダのベツレヘムからモアブの野に移り住んだ。 その人は名をエリメレク、妻はナオミ、二人の息子はマフロンとキルヨンといい、ユダのベツレヘム出身のエフラタ族の者であった。彼らはモアブの野に着き、そこに住んだ。 夫エリメレクは、ナオミと二人の息子を残して死んだ。 息子たちはその後、モアブの女を妻とした。一人はオルパ、もう一人はルツといった。十年ほどそこに暮らしたが、マフロンとキルヨンの二人も死に、ナオミは夫と二人の息子に先立たれ、一人残された。 ナオミは、モアブの野を去って国に帰ることにし、嫁たちも従った。主がその民を顧み、食べ物をお与えになったということを彼女はモアブの野で聞いたのである。 ナオミは住み慣れた場所を後にし、二人の嫁もついて行った。(1:1-7)

ベツレヘムに着いてみると、町中が二人のことでどよめき、女たちが、ナオミさんではありませんかと声をかけてくると、ナオミは言った。「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。 出て行くときは、満たされていたわたしを主はうつろにして帰らせたのです。なぜ、快い(ナオミ)などと呼ぶのですか。主がわたしを悩ませ全能者がわたしを不幸に落とされたのに。」(1:19b-21)

これが彼女に起こった絶望的な出来事でした。彼女はふたりの嫁を家に帰し、自分は一人ぼっちで、自分の生涯を呪いながら故郷に帰ろうとしていました。ところが一人の嫁ルツが彼女についてきたのです。それが彼女に新しい喜びを与えました。やがてルツはナオミの親類であるボアズと結婚して子供が生まれました。その喜びが次のように記されています。4章の13-17節です。

ボアズはこうしてルツをめとったので、ルツはボアズの妻となり、ボアズは彼女のところに入った。主が身ごもらせたので、ルツは男の子を産んだ。 女たちはナオミに言った。「主をたたえよ。主はあなたを見捨てることなく、家を絶やさぬ責任のある人を今日お与えくださいました。どうか、イスラエルでその子の名があげられますように。 その子はあなたの魂を生き返らせる者となり、老後の支えとなるでしょう。あなたを愛する嫁、七人の息子にもまさるあの嫁がその子を産んだのですから。」 ナオミはその乳飲み子をふところに抱き上げ、養い育てた。 近所の婦人たちは、ナオミに子供が生まれたと言って、その子に名前を付け、その子をオベドと名付けた。オベドはエッサイの父、エッサイはダビデの父である。(4:13-17)

子供に先に逝かれることほど母親にとって辛いことはないでしょう。現代の裕福な国にあってはめったにないことではありますが、ありえないことではありません。アフリカの多くの地域では、大人になるまで生きられない子供が大勢います。子供を失う親も大勢いるということです。ナオミはそういう目に合いました。それも、兄弟二人とも、そして夫までも。そんな人にさえ神様は新しい希望を与えられるのです。神様が与えてくださるのは天国での再会という約束だけではありません。ひとりぼっちの人生を歩まなくてもいいように、神様はルツという支えを与え、義理の息子、義理の孫をあたえ喜びに満たされました。

神様は母にとって最も辛い体験でさえ、その心を癒し、新しい祝福を与えてくださる方なのです。ルツは異邦人でしたが、ナオミにとってはもちろんリベカと同じように民の祝福のキーパーソンでした。ボアズとルツの間に生まれたオベドはダビデ王のおじいさんに当たる人です。もちろん、マタイによる福音書のイエス様に至る系図にも登場しています。

B. 神様への信頼があなたを変える

1) 信頼があなたを変える (マタイ10:37)

リベカは母として、ルツは子として祝福のキーパーソンでした。どうしたら私たちは母として、あるいは子として祝福のキーパーソンとなることが出来るでしょうか?マタイによる福音書10章37節にイエス様のこんな言葉が記されています。

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。(10:37)

ここだけ抜き出して読むと、キリスト教は人を家族から分離するカルトかと誤解する人がいますが、それは大きな間違いです。イエス様の警告は、「自分の欲や情によって親子の関係を結ぼうとしてはいけない」ということです。また「家族であってもその人をコントロールしようとするのではなく、むしろあなた自身の在り方を神様の前に正し、神様のその人に対する計画を尊重しなさい」ということです。自分の好み、自分の願いではなく、神様がこの人に最も相応しい道を備えていてくださる。それを信頼してゆだね、その人自身が神様と共に歩めるように祈り支えることによって、あなたは誰にとっても祝福のキーパーソンになることが出来ます。神にあって愚かな者から賢いものに、悲しみの人から喜びの人に変わることが出来るのです。

2) 神様との間に信頼関係を築くために (マタイ12:46-50)

もう一箇所、マタイによる福音書12章46-50節を開いてみましょう。

イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。 そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。 しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」 そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。 だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」 (マタイ12:46-50)

イエス様は弟子たちを指してこのように、おっしゃいました。今ここにイエス様がおられたなら、私達を指してこういわれたに違いありません。教会の交わりは、血のつながりがなくても家族なのです。イエス様が教会をそのようなものとして建てて下さったからです。私たちは互いに兄弟として、親子として、祝福のキーパーソンなのです。

メッセージのポイント

実は聖書には、普段あまりスポットを当てられることのない多くの母親が登場しています。彼女たちは時として信仰を持つ母のよい模範として、また反面教師として、今の私たちに多くの示唆を与えてくれます。世の中には多くの育児書、親子関係の本があふれていますが、聖書ほど役に立つ「母親業?」の教科書はありません。また母に対する子供としての在り方も学ぶことが出来ます。この聖書が一貫して教えてくれていることは、良い親子関係の土台が「神様への信頼」以外にはない、ということです。

話し合いのヒント

1)聖書に出てくる母親の中で誰に一番興味を覚えましたか?それはなぜですか?

2) メッセージから、あなたの子供との(母親との)関係について知ったことは?