2006年5月21日 メッセージノート
キリストに結ばれた人生 1コリント4章(シリーズF)
映画「ダヴィンチコード」が話題になっています。イエス様はマグダラのマリアとの間に子供をもうけ今もその子孫が存在する、という設定が問題となっています。イエス様に子供がいたというアイディアは、決して新しいものではありません。人はどんな想像をもめぐらすことが可能です。イエス様を主と信じる信仰を否定するために、「偽りの福音」が伝えられ、今回のように、小説、映画、劇などに紛れ込んで人の心を惑わすことは過去に何度もありました。そのような人間の想像力が、神様への信頼を失わせようとするサタンに利用されているのです。がっかりしたり、悪影響を心配したりすることはありません。これを見て間違った情報を事実と誤解する人が出ることは残念なことですが、何が真実で信頼に値することなのかは神様ご自身が、そして聖書自体が明らかにしてくれるからです。イエス様を十字架にかけられた神の御子、救い主と信じる信仰は、2000年間証言として伝えられてきました。時には命をかけて伝えられてきたのです。その間にも、否定する立場からの「悪質な偽証」が何度もなされてきました。しかし聖書の信仰は成立した時と同じ内容で保たれています。イエス様を主と信じる信仰の根底である「主の十字架と復活」からしてそうでした。弟子たちは、周りからは「ありえない、嘘だ、否定しろ、そうすれば命だけは助けてやる」と脅されましたが、殺されても伝えることはやめませんでした。なぜ?それは本当の事だったからです。 普通、人にとって一番大事なのはその人の「命」だと考えられています。何かを伝えるために命を失うことさえいとわない、それが一人ではなく、多くの人々で今に至るまで続いているとしたら、それが命よりも大切なことだった、ということです。イエス様の復活が真実ではなかったとしたら、誰も命をかけてまで伝えようとはしなかったでしょう。同様に、イエス様が一人の女性と結婚もせずに子供をもうけていたとしたら、イエス様は言葉と行動が一致しない偽メシアだということになります。聖書の教えも虚しいものとなってしまいます。そんな偽メシアと偽りの聖書のために、人々は命を捨てはしなかったはずです。ですから私たちは聖書に心を向けて、今朝与えられているテキストから魂の糧をいただきましょう。
A. 神様が主権者であることを知る(1-6)
1) 神様に対する忠実 (1-2)
こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。 この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです。 (1-2)
コリントの教会には、いくつかのグループが出来ていて混乱していました。直接教会を牧会するローカルのリーダーたちの中には、私はパウロ派、私はペトロ派、アポロ派と特定の使徒や宣教者の名を自分の権威付けのために用いて、むなしい権力争いに陥っていたのです。パウロは、自分自身の神様に忠実に仕える姿勢を懸命に伝え。ローカルのリーダーたちにもそれに習うことを求めているのです。「神様に対する忠実」はユアチャーチにあっては、牧師、リーダー、ミニチャーチリーダー、様々なミニストリーのチームのリーダーに求められている根本的な態度です。神の国ではなく、自分の王国を造ろうとするなら、その教会は決して祝福されることはないでしょう。
2) 裁きは神様に委ねる (3-5)
わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。 自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。 ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります。(3-5)
神様の前にやましいところがないなら、人があなたをどう言おうと気にすることはありません。時々、自分は主の前に正しく歩んでいるのだろうかと、くよくよと悩んで、なかなか前進できないクリスチャンに出会います。パウロは考えてもきりがないことを、立ちどまって考え続ける人ではありませんでした。今できる事を行い、さばきは神様におまかせするのです。神様があなたを裁くのは、終りの日です。それに先立って裁く権利は誰にもないのです。私たちが裁き合うことを喜ぶのはサタンであって、神様ではありません。私たちには人を裁いている暇などありません。それよりも与えられた確信に従って自分のなすべき働きをすべきです。
3) 正しさの根拠は聖書にある (6)
兄弟たち、あなたがたのためを思い、わたし自身とアポロとに当てはめて、このように述べてきました。それは、あなたがたがわたしたちの例から、「書かれているもの以上に出ない」ことを学ぶためであり、だれも、一人を持ち上げてほかの一人をないがしろにし、高ぶることがないようにするためです。(6)
クリスチャンではない人がダヴィンチコードのような作り話に心奪われるのは仕方ありません。元々信じていない権威なのですから、面白おかしく疑ってみたくもなるでしょう。けれどもクリスチャンがダヴィンチコードやユダの福音書「発見?」などといったトピックにいちいち動揺しているようでは困ります。私たちの確信の根拠は、神様がこれからすこしでも削除したり、付け加えてはならない(ヨハネの黙示録22:18-19)と警告された66巻の聖書にあります。誰かが自分と同様に考えないからといって非難することは間違いです。しかし、その人が聖書の教えから外れているなら非難されるべきです。しかしそれは誰か別の人に悪口、陰口として言うべきではありません。それはひとつの体の中に別のものを造ろうとする行為であり、体を傷つけることになるからです。それが重要な事であると思うなら、その人に直接伝えなければいけません。そこまでは、と思うような事なら他の人に言ったりすることも慎むべきなのです。
B. 「勘違い」している人・教会 (7-13)
コリントの教会の様子から私たちは、勘違いクリスチャン、勘違い教会にならないためにはどうしたらよいか学ぶことが出来ます。
1) 恵みを忘れている (7)
あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。(7)
神様の恵みを忘れてしまったら、個人であれ教会であれ、人に何もよいものを与えることはできません。今、私たちの持っているものすべては、神様の恵みです。ただ恵みによって与えられたものであることを知っているなら、それを誇って自分がすぐれていると思ったり、人に与えることを惜しんだりはしないはずです。しかし私たちは心のどこかで、自分の努力や才能によって得られたと思っているのです。だから失うこと、与えることを恐れます。これでは、イエス様のように惜みなく与える者にはなれません。私たちに必要なのは神様に対する信頼です。今まで惜みなく与えて下さったことを覚え、あなたが与えれば与えるほど、あなた自身が豊かに満されるという信仰です。
2) 現状に満足してしまっている (8)
あなたがたは既に満足し、既に大金持ちになっており、わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっています。いや実際、王様になっていてくれたらと思います。そうしたら、わたしたちも、あなたがたと一緒に王様になれたはずですから。(8)
完全な教会、完全な人は地上には存在しません。しかし神様は教会や人々の足りないところを豊かに良いもので満して下さる方です。それなのにコリントの教会は自己満足におちいっていました。パウロから見れば危機的状態にあったのに、人々は恵みを忘れ自分を誇り、すっかり満足してしまっていたのです。満足していれば、そこには反省も願いも生れてはきません。
私たちは不完全であるからこそ、日々、新しい恵みをいただけるのです。この世界には魂にとってもジャンクフードが沢山あります。一時的には心が満されても栄養にならないものをいくら食べても、心の健康を保つことは出来ません。それよりも神様が日々与えて下さる恵みによって健康になりましょう。
3) 神の国のために労苦している人を顧みない (9-13)
考えてみると、神はわたしたち使徒を、まるで死刑囚のように最後に引き出される者となさいました。わたしたちは世界中に、天使にも人にも、見せ物となったからです。 わたしたちはキリストのために愚か者となっているが、あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊敬されているが、わたしたちは侮辱されています。 今の今までわたしたちは、飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、苦労して自分の手で稼いでいます。侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返しています。今に至るまで、わたしたちは世の屑、すべてのものの滓とされています。(9-13)
教会には暖かい交わりがあります。親しい人がいます。ここに来れば、緊張が解けほっとできる神の家族です。しかし私たちの神の家族の中には、人々をこの家族に招き入れるために、困難な所で労苦している者がいることを忘れるわけにはゆきません。それは宣教の働きを担っている人々、他宗教民族の中で迫害を受けている人々です。そこでユアチャーチのメンバーは、収入の1/10を、この教会の働きのために献げ、教会は、その1/10を教会を維持するためではなく海外の働きのため献げることにしています。けれども、どうか、自分の献げものの1/10が、海外での神様の働きに用いられているという亊だけで満足しないで下さい。献げものも大切ですが最も力強いサポートは、祈りであり、心のうちにおぼえているということなのです
C. 何を求められているのか?(14-21)
1) 父に習い、養育係となる (14-17)
こんなことを書くのは、あなたがたに恥をかかせるためではなく、愛する自分の子供として諭すためなのです。 キリストに導く養育係があなたがたに一万人いたとしても、父親が大勢いるわけではない。福音を通し、キリスト・イエスにおいてわたしがあなたがたをもうけたのです。 そこで、あなたがたに勧めます。わたしに倣う者になりなさい。 テモテをそちらに遣わしたのは、このことのためです。彼は、わたしの愛する子で、主において忠実な者であり、至るところのすべての教会でわたしが教えているとおりに、キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方を、あなたがたに思い起こさせることでしょう。(14-17)
コリントの教会を育てたパウロは、この教会にとって父といえる立場ですが、実際にはパウロ自身ではなく群れの中で育てられたリーダーたちがいわば養育係として人々の成長を支えるのです。皆さんが牧師夫妻を教会のお父さん、お母さんと言って下さるのは光栄なことですが、いつまでもそうであっては皆さんが小さな子供のままでいるということになります。私たちはまだ実際のおじいさん、おばあさんにはなりたくありませんが、教会のという意味でなら、そうなれることを願っています。この中から未来の教会のお父さんお母さんになるように神さまが計画している方もいるはずです。そのように召されてはいなかったとしても、皆さんは先にクリスチャンとなった者として、兄、姉として、養育係として、私を助けてくれているのです。これがユアチャーチの働きです。
パウロのように「自分に倣う者になりなさい」と言うのには恐れがありますが、恵みによって立てられたリーダーにはそう言うべき責任があるのです。
2) 言葉ではなく力を見せる (18-21)
わたしがもう一度あなたがたのところへ行くようなことはないと見て、高ぶっている者がいるそうです。 しかし、主の御心であれば、すぐにでもあなたがたのところに行こう。そして、高ぶっている人たちの、言葉ではなく力を見せてもらおう。 神の国は言葉ではなく力にあるのですから。 あなたがたが望むのはどちらですか。わたしがあなたがたのところへ鞭を持って行くことですか、それとも、愛と柔和な心で行くことですか。(18-21)
いろいろな言葉で飾って自分がいかにも正しく、指導者として相応しいと宣伝していた者がコリントにはいたのです。しかし彼らは言葉だけで、良い働きは何も出来ずにいました。ただ何か権威がありそうな言葉で人々を惑わしていたのです。イエス様が地上に来られて以来、神の国、神の支配は力を持ってこの世界に現されつつあります。罪が赦される、病が癒される、問題が解決される。絶望している者に希望を与える愛の計画が次々と現実のものとなっているのです。このことがユアチャーチに起っていることに感謝したいと思います。そしてユアチャーチが勘違いしている教会にならないように、さらに神様がこの教会を通して、その愛を現してゆけるように用いていただきましょう。
メッセージのポイント
自分がクリスチャンとして神様の意思にかなって人生を送っているかどうか?時々しっかり自分を見つめ確認してみる必要があります。コリントの教会は、聖霊の働きの顕著な生き生きとした教会でしたが、そのことが返って人々を高慢にし、分裂や異端的な考えを生み出してしまいました。クリスチャン一人一人の信仰の健康度と教会の健全さには深い相関関係があります。一人の信仰者として、また同時に教会の一つの枝として、自分が、ユアチャーチが信仰の健全さを保ち続けられるように、祈り、考え、行動しましょう。
話し合いのヒント
1) 霊的な健康度を量る道具は何ですか?
2) 「神の国は言葉ではなくて力にある」とはどういうことですか?