2006年5月28日 メッセージノート イザヤ書6章(シリーズF)
私はここにいます 私を遣わしてください
A. 神様が人を召し出す
1) 主があなたを呼んでいる(1-4)
皆さんは学生だった頃、先生に職員室に呼び出されたことがありますか?私は何度も経験があるので、卒業する頃には慣れてしまいましたが、「何がばれちゃったんだろう?どんな罰を受けるんだろう」と最初は大変緊張したものです。権威あるものの前に立たなければならない時、自分が罪深いことを自覚していればなおさら恐れは大きいものです。もし神様に呼び出されたらあなたはどんな気持ちになるでしょうか?最初に1節から4節まで読みましょう。
ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。 上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。 彼らは互いに呼び交わし、唱えた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。(1-4)
旧約聖書には多くの預言者が登場します。その背景は様々ですが、共通していることがあります。それは、自分で預言者になりたくてなったのではなく、神様に呼び出されてなった、という点です。コーリングです。これを日本語では召命と言いますが、この漢字の方が内容をよく表わしています。あなたの生涯を神の国の働きに捧げなさい、という神様からの呼びかけです。ドイツ語ではこの召命を意味する言葉が「仕事」という意味で使われています。仕事が神様に与えられた大切で神聖なものだという意味が表れています。「預言者」は「予言者」ではありません。確かに将来について語りますが、将来を言い当てることが預言者の務めではないのです。預言者とは、神様から「預」った「言」を伝える「者」です。私たちクリスチャンは未来を予言できなくても、人に伝えるべき言を神様から託されている現代の預言者なのです。クリスチャンの中には、キリストの体の他の部分よりさらに専門的に預言の務めを果たすよう神様から命じられる者もいます。それが牧師や宣教師あるいは神学者であるわけです。
2) 完全な方に不完全な者が用いられる(5-7)
わたしは言った。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た。」 するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。 彼はわたしの口に火を触れさせて言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたので/あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」(5-7)
皆さんはきっと自分が預言者だなんて考えたことはないと思います。しかしローマの信徒への手紙の12章には預言は聖霊の賜物であり、与えられているなら、信仰に応じて預言しなさいと勧められています。私はこの賜物がほとんどのクリスチャンに与えられているのではないかと思っています。もちろん程度の差はあるのですから、すべての人が伝道者や牧師のように説教としてメッセージを語る必要はないのです。また預言といっても用いられるのは言葉だけではないのです。イエス様の存在そのものが神様のメッセージであったように、あなたの存在自体が預言的存在なのです。言葉を発しなくても、態度や動作が神様のメッセージとして人々に伝わるからです。パウロは2コリント3:3で「あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です」と言っています。
キリスト教会の中には預言の意味を取り違えて、人の将来を軽々しく「予言」するようなことを見かけることがありますが、それは躓きや心の傷を与えことにもなり、本当の預言のように教会の徳を高めることにはなりません。
私たちが自分を預言者だと思えないもう一つの理由は、高慢になっている人以外は皆、自分がきよい神様には相応しくない罪深い者であるということを自覚しているからです。イザヤもそう自覚していましたから、神様を前にして非常に恐れたのです。きよい神様との関係で言えば、人間ほどかけ離れミスマッチな存在はありません。もしそのような存在である人が神様に遭遇すれば必ず滅ぼされてしまうと、考えられていたのです。確かに人は神様の似姿に作られたにもかかわらず、神様に背を向け、神様から遠く離れた存在になってしまっていました。イザヤの口をきよめた火のように、イエス様は十字架にご自身がお架かりになって、信じる者をきよいものとされたのです。だから私たちは自分がどんなに不完全だと思えても、神様からは完全な者とみなされているのです。
3) 主の呼びかけに応えよう(8)
そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」(8)
自分という存在のはかなさ、罪深さを自覚している人が、ひとたび、罪を赦された確信、救いの確信を得たなら、そのような人は神様のために働きたくていても立ってもいられなくなります。皆さんは考えたことがありますか私の畑はどこだろう、私の漁場はどこだろうと。熟れて収穫を待つ果実が畑に沢山あるのに収穫する人がいなければ、果物はやがて腐ってしまったり、鳥に食べられてしまったりするでしょう。イエス様がこられた2000年前から、魂の収穫は始まっています。イエス様は漁師だった人を弟子に招く時に「人間をとる漁師にしてあげよう」とおっしゃいました。
もちろん人をとるとか、魂を収穫するというのは、神様の救いに招くということの比喩です。そしてイエス様は 「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。 そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。 だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」(マタイ9:36-38)
あまり考えてこなかったなら、どうか祈り求めてみてください。信仰に応じて、自分は神様のために何をするべきだろうか?もしかしたら主は、あなたを宣教者として、牧会者として用いようとしておられるのかもしれません。
B. 主の呼びかけでなければ耐えられない働き
1) 厳しい預言を担えるか?
主は言われた。「行け、この民に言うがよい/よく聞け、しかし理解するな/よく見よ、しかし悟るな、と。 この民の心をかたくなにし/耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく/その心で理解することなく/悔い改めていやされることのないために。」(9-10)
預言は、時として励ましたり慰めたりとは正反対の厳しい警告であったり、さらにもう変更の余地のない災いの宣告であったりすることもあります。「私を遣わしてください」と希望に燃えて招きに応じたイザヤに対して、神様は、当時の人にとっては全く救いのないメッセージを伝えなければならないことを知らされます。耳ざわりのよい話、自分を肯定してくれるメッセージはいつでもどこでも歓迎されます。しかし警告や宣告に対して人々は無視したり、時にはステパノが殉教したときのように、敵意を持って耳をふさぎながら襲いかかってくることもあるのです。この国では、今キリスト教はだいたいのところ好意的な目で見られていますが、それは時代の流れによって簡単に変わってしまうこともあることを、この国の歴史は証明しています。
しかし、あなたに対する主の呼びかけを確信しているなら、そのような時代にあっても「主の口」として役割を果たすことが出来るのです。
2) 生きている間には結果を見られないこともある
イザヤは最初に伝えるべき内容を聞いたとき、あまりの厳しさに、期間限定の預言だと理解して次のように主に尋ねました。11-12節です。
わたしは言った。「主よ、いつまででしょうか。」主は答えられた。「町々が崩れ去って、住む者もなく/家々には人影もなく/大地が荒廃して崩れ去るときまで。」 主は人を遠くへ移される。国の中央にすら見捨てられたところが多くなる。(11-12)
イザヤは、この預言が実際に災いとして起ることを知らされました。そして彼は生涯を通して、このことを伝えなければなりませんでした。以前にお話ししたように、イザヤの生きた時代のユダは繁栄していたのです。ウジヤ王が死んだのは紀元前740年で、バビロニヤによって滅ぼされ、バビロンに人々が移されたのが紀元前587年ですから。この預言はおよそ150年後、つまりイザヤが亡くなって、同時代の人が誰もいなくなった頃に成就したことになります。
私たちの宣教の働きは、一方で終末が一時間後に来てもいいように、一方で何世代も先の人々のことを覚えてなされなければならないものです。教会の働きにはこのバランスが必要です。神様を知らないまま困難な終わりの日を迎える人が少しでも減るように宣べ伝えると同時に、たとえばスリランカで行なわれているような次の世代、次の次の世代の幸せにつながる働きにも目を向けなければならないのです。
生きているときに自分の目で完成を見ることが出来ないほど壮大な神様の計画の中にあなたは用いられているのです。
3) 世の終わりの希望に向かって
イザヤは民の滅亡という災いを預言しなければなりませんでしたが、そのような絶望的な150年後のさらに先に、人類にとってのたった一つの希望があることも、神様はイザヤに語られました。イエス様についての預言です。
なお、そこに十分の一が残るが/それも焼き尽くされる。切り倒されたテレビンの木、樫の木のように。しかし、それでも切り株が残る。その切り株とは聖なる種子である。(13)
私たちとイザヤと決定的に違うところはイザヤの救い主についての預言が成就し、イエス様が世に来られた後の時代に生きているということです。私たちは希望がすでに現実のものとなっていることを知っているのです。だから神の国の完成が近いことを確信を持って人々に伝えることが出来るのです。私たちが伝えるメッセージの確信はこれです。 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)
メッセージのポイント
広い意味でクリスチャンは皆、世に神の言葉を伝える預言者です。励ます言葉、慰める言葉を人々に伝える働きを担っています。これらの言葉を伝える時、人々はあなたに感謝し、喜んでくれるでしょう。しかし時として、神様は人々を愛するがゆえに、非常に厳しい言葉をあなたに託して、人々に伝えようとなさいます。しかしそのような言葉は、拒絶され、あなた自身も敵意にさらされることになります。それでも、神様の言葉を伝えたいという願いは変わりませんか?そうであるなら神様は、イザヤを召し出されたと同様にあなたを召し出されているのです。主の召命に従って歩む者の苦労は大変なものですが、神様はそれに勝る喜びと慰めをもってあなたを導き、用いてくださる方です。
話し合いのために
1) どのような意味でクリスチャンは預言者なのでしょうか?
2) あなたにはどのようなコーリング(召命)が与えられていますか?