2006/6/4 メッセージ マルコによる福音書 3:1-6(シリーズG)

イエス様の怒り・悲しみ・憐れみ

地上におられた頃のイエス様がどんな方だったか想像してみることがありますか? 数え切れないほどの絵画や彫刻としてイエス様の像を見ることが出来ますが、それぞれずいぶん違った印象をあたえてくれます。それはきっと描いた人のイメージがそこに現れているからでしょう。イエス様は、当時の権力者や宗教指導者からは危険人物でしたが、普通の人にとっては、とても親しみやすい方だったのではないでしょうか?どこに行っても自然と子供たちの輪に囲まれてしまうような、柔和で楽しい青年だったのではないかと私は思っています。そして、きっとそんなイエス様だったからこそ、彼が怒ったり、悲しんだりする様子は人々の目に焼きついたのです。

イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。(1) 人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。(2) イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。(3) そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。(4) そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。(5) ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。(6)

1) 神様の愛を隠すことに対する怒り

イエス様が怒りを表されたことはあまり記録されていません。この個所の他には、神殿で商売をしている人々たちを追い出したとき、イエス様のところに子供を祝福してもらおうとして近づいてきた人々を弟子たちが叱った時、イエス様は怒り、憤りをあらわにされたことが記録されています。イエス様はご自身を罵ったり、暴力を振るったりすることに対しては決して怒ることはありませんでした。しかし神様の愛が人々に届くことを妨げるようなことに対しては大きな怒りを表されました。マルコによる福音書の10章にはこのように記録されています

イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。 しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。(マルコ 10:13-14)

人をイエス様から引き離すことは、人を神様の恵み、愛、祝福から遠ざけることです。イエス様は、そのようなことだけは見過ごしにすることが出来なかったのです。この会堂で起ったことは、神様の愛を人々から隠す宗教指導者たちとの対決でした。安息日は日々の労働から解放されて神様の前に出て、神様を喜びたたえる日です。ところが宗教家たちは、安息日を「礼拝する喜びの日」から「〜はしてはいけない日」に変えてしまいました。命に別状のない怪我や病気の手当てさえ禁じられていたのです。それが神様の願いではないことは人々にも分かっていました。しかしイエス様が、会堂という公の場所で実際にこの人の手を癒したなら、指導者たちは律法違反者として告発することが出来たのです。イエス様は、「ここではまずいからあとで癒してあげよう」とはおっしゃいませんでした。それどころか、はっきりと目立つように彼を人々の真ん中に招きました。そして周りにいた一人一人に向かって尋ねられました。律法主義の影響は人々の中に浸透していました。善を行うことが、命を救うことか正しいと分かってはいても、「安息日に律法で許されているのは?」、と問われれば、素直に答えることは出来ませんでした。イエス様の怒りは、人々を律法主義に縛り付けて、神様の恵みが人々から遠ざけている様子に怒りをあらわにされたのです。人間の組織が律法的になるのは自然なことです。それはキリスト教会も例外ではありません。神様の恵みを独り占めしようとする教会にはなりたくはありません。内側にいる人だけが居心地よい教会にはなりたくありません。それは神様の愛をもっと多くの人が受け取ることの妨げになり、神様の怒りを買うことだからです。だから私たちはこの教会をマイチャーチでもアワチャーチでもなくユアチャーチと呼ぶのです。

2) 自らの命を惜しまないほどの深い憐れみ

ここで癒しを行えば、ファリサイ派の人々や権力者たちの殺意がさらに強くなる、ということをイエス様は十分ご存知でした。イエス様が人々を癒されるとき、その動機は、自分の名声のためでも、もちろん報酬を得るためでもなく、ただ深い憐れみによるものでした。それは律法学者やファリサイ派の強い敵意の中にあっても変わることはありませんでした。このイエス様の、敵意に対しても鈍ることのない憐れみ、命を捨てることになっても変わることのない憐れみが、イエス様が天に帰られたあとも信じる者に引き継がれ、罪の支配する世界にあっても闇の中でもあちこちに輝く光のように現されてきたのです。それは、イエス様の愛を人々から遠ざけようとすることとは正反対の人間の在り方です。イエス様を信じる者がイエス様の体の一部としてこの世界でなすべきことは何でしょうか?それは憐れみによる癒しの働きです。一言で癒しといっても、肉体の癒し、精神の癒しと様々です。けれども最も重要な癒しは「神様との関係」の癒しです。私たちは第一のこととして、人々が「神様との関係」を修復することができるように教会の一部として働いているのです。

もちろん、このことは体の癒しを否定する者ではありません。もしそうであれば、イエス様は体の癒しをなさらなかったでしょう。体の不調も、心の不調も、魂の不調も苦しみには変わりありません。それを取り去るために私たちはミニストリータイムを行います。大切なのはあなたの動機がイエス様と同様な憐れみなのかどうかということです。自尊心を満足させるために、人に認めてもらいたいから、イエス様のことを伝えたり、癒しの祈りをしたりするとしたら、それらは正しい動機ではありません。人と関わる時イエス様がこの人のことをどう思っていらっしゃるのだろうかと想像してみてください。人が自分のことを聞き入れなかったり、拒絶したからといって怒ったり、悲しんだりしないで下さい。それは自分に対する憐れみでしかありません。イエス様の憐れみは、それとは全く異なるものです。そこには自分の利益は愚か自分の命さえ考えてはいない憐れみです。

そんな憐れみは自分にはとても持つことができないとおもいますか?弟子たちもある時まではそうでした。イエス様が十字架に掛かられた時ですか?いいえ、その時彼らは自分がイエス様の弟子であることさえ否定しました。命が惜しかったからです。復活の主にあったときでしょうか?いいえ、その時彼らは大変喜びましたがまだユダヤ人たちを恐れて大胆になることは出来ませんでした。今日は教会の暦ではペンテコステと呼ばれる日曜日です。この日に聖霊が人々の上に下ったことが使徒言行録の2章に記録されています。この時から、クリスチャンは大胆に行動できるようになりました。イエス様を信じる人々が、イエス様の憐れみを共有し、それぞれに与えられた賜物によって組み合わされ用いられるキリストの体になったのです。つまり聖霊が下ったペンテコステはキリスト教会の誕生日でもあるのです。

聖霊に満たされることなしに、仕えるクリスチャンにはなれません。聖霊はその力による大胆さと、同時にその知恵による細心の注意力、観察力を与えてくれる方です。どうぞ聖霊に満たされて歩むことを祈り求めてください。このことで、皆さんに一つだけ注意していただきたいことがあります。今日のクリスチャンの中には霊の力の表れや不思議な現象だけが「霊的」なことだと考えを追い求めている人がいます。それは決して「霊的なクリスチャン」ではなく「霊的にバランスを欠いたクリスチャン」であるといわなければなりません。今までセラミックだった歯の詰め物が金になったとか、祈りの力で人が倒されるとかいうことは、わたしたちが伝えるべき中心ではないのです。むしろそのようなことを強調するあまりに、フォーカスがずれ、それでも自分が正しいと主張して教会に分裂を持ち込んだり、異端的になってしまったりする例を私はずいぶん見てきました。どうかみなさんは「霊的に成熟した、バランスのとれたクリスチャン」を目指してください。

3) 頑なな心に対する悲しみ

イエス様の社会に対する怒りは、一人一人の人に対しては悲しみとして現されました。イエス様の怒りは罪自体、また人を常に罪にいざなうサタンに対して向けられています。人間一人一人に対しては、その人がどんなに罪深い状態であったとしても、イエス様の人々に対する思いは、怒りではなく、憐れみであり、悲しみでした。

怒ることが全くいけないのではありません。その動機と対象が問題なのです。あなたが怒りを覚えるとき、冷静になって自分の心に問いかけてください。その怒りは、憐れみや悲しみによって動機付けられていますか?もしかしたら、自分が軽んじられていること、馬鹿にされていることに対する、目の前にいるその人へのストレートな怒りではありませんか?あなたが怒っているその人に対してイエス様はどうお感じになっているでしょうか?イエス様は、あなたが伝える良い知らせを素直に受け取れないその人を悲しんでおられるのであって、怒っているのではありません?私たちが怒るべき相手は人ではないのです。だから私たちは赦しなさいとイエス様に教えられています。このことも聖霊の助けによって、すこしずつ信じる者に備わってゆく徳性です。怒りっぽい人、怒りをコントロールできない人もがっかりしないで下さい。聖霊に満たされつつ歩みだすなら、あなたの怒りは健康な怒りへと変えられてゆくことでしょう


メッセージのポイント

イエス様は感情豊かな方です。そしてストレートにそれを表されました。イエス様の怒りは神様の愛が人々の届くのを邪魔する者に向けられました。そして自分がそうしているのに気付かない彼らの心を悲しんだのです。しかし、イエス様の怒りも悲しみもご自身に対する人々の態度についてのものではありませんでした。ご自身の地位とか名誉、そして命さえも、イエス様にとっては守るべきものではなかったのです。ここに愛の本質があります。自分の命、地位、名誉、財産を惜しむ人は「愛する」ことは出来ません。愛は惜しみなく与えることだからです。そして残念なことに、愛せない人は愛さないだけでなく、愛する人を憎むのです。この憎しみが御子を十字架につけてしまったのです。

話し合いのために

1) なぜイエス様はファリサイ派の人々の敵意の中であえて癒しを行ったのでしょうか?

2) ファリサイ派、ヘロデ派がイエス様に殺意を抱いたのはなぜですか?