2006/06/11 メッセージ  1コリント5章(シリーズG)
こんな人と付き合ってはいけない

使徒パウロはコリントの教会の様子を大変心配していました。聖霊が顕著に働く活発な教会でしたが、深刻な問題もたくさんあったからです。神様の働きに用いられれば用いられるほど、もしそこに神様の栄光を汚すようなことが起これば、ダメージは大きいのです。うれしいことにユアチャーチも神様の恵みによって、よく用いられている活発な教会です。それだからこそ注意深さもまた必要なのです。私たちが神様の名を汚すことは、神様をがっかりさせるだけでなく、この教会の働きを期待していてくれるすべての人をがっかりさせることになってしまいます。パウロがここで指摘しているのは教会内部の不品行の問題です。

A. コリント教会の症状

1) 不品行の存在

1節を読みましょう

現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです。(1)

何でこんなことが教会に起こるのだろうか?とおもってしまいますね。でもメンバーが何100人、何1000人にもなってゆけば、教会は来る人を拒むところではありませんから、道徳的に問題を持った人がいても不思議ではありません。私たちの教会にはそんなことはありえない、と油断していてはいけません。私たちは赦された罪人です。イエス様に似た聖いものに作り変えられてゆくといっても、それは長いプロセスが必要なことです。また聖められることを真剣に願い、日々それを追い求めているのでなければ、それはただ単に赦されているというだけで、中身は赦される前となんら変わりない状態で一生を終えること事さえありえます。私たちは皆、この地上での歩みにをしている限り、聖められることを祈り願う必要があります。この聖められることを「聖化」といって大切にしている教団がありますが。これはすべてのクリスチャンに求められていることなのです。聖められることを軽視して聖霊の力だけを求めるなら、私たちはコリントの教会と同じ過ちを繰り返すことになります。

2) 不品行を正せない教会

この問題にはもう一つの側面があります。それは、不品行が存在したというだけではなく、教会として問題に正しく対処できていなかったという点です。2節です

それにもかかわらず、あなたがたは高ぶっているのか。むしろ悲しんで、こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか。(2)

キリストの体である教会はオープンなところであるべきです。誰でも重荷を負った、ありのままの姿でイエス様に招かれているのですから、例え不品行な人でも、救いを求めてくる以上、教会は不品行を理由に拒むことは出来ません。

けれどもそれは、中にいる人が不品行に陥った時にも黙認しているべきだということではないのです。マタイによる福音書の18章でイエス様は

「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。 聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。 それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。 はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。(15-18)

私たちはあらゆる人を招きいれると共に、この作られた体を聖く保つという働きも担っています。そのためには、教会のリーダーシップの権威がはっきりしていなければなりません。イエス様は地上の権威を恐れずに行動なさったので、反権威的な存在だと考える人もいますが、そうではありません。お読みしたように、教会には神様に由来する権威があることをお認めになっているのです。教会はその権威を正しく用いて、訓戒されても罪を犯し続ける者から、他の人々を守る義務があるのです。

B. パウロの処方箋

1) 毅然とした態度

パウロはコリントの教会の権威が正しく働いていないことを指摘して、自分の見解を伝えようとしています。3-5節を読みましょう。

わたしは体では離れていても霊ではそこにいて、現に居合わせた者のように、そんなことをした者を既に裁いてしまっています。 つまり、わたしたちの主イエスの名により、わたしたちの主イエスの力をもって、あなたがたとわたしの霊が集まり、このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それは主の日に彼の霊が救われるためです。(3-5)

一度はその教会に属したものであっても場合によっては、教会の交わりから除外するという厳しい処分をパウロは要求しました。それは本当に残念なことですが、そのままにしておくなら全体の益にはならないからです。もしかしたら、コリント教会で問題とされた人が、有力者や資産家だったので教会は処分を躊躇したのかもしれません。問題がどんな人であれ、本当に取り除かれるべきものがあるなら、妥協を赦さない毅然とした態度を教会は持つべきなのです。

また当人にとっても、それが神様にもう一度チャンスを与えていただける道にもなるのです。

2) 古いパン種や悪意と邪悪のパン種を取り除く

パウロはまたできるだけ早く教会が手を打つことを要求しています。それは病気において早期発見が大切なのと同じ理由です。ユダヤ人は過越の祭り(出エジプト記12章参照)にはパン種を入れずに練り粉を焼いたパン菓子を作る習慣がありました。神様の命令に従って大急ぎでエジプトを脱出したことを思い起こすためでした。パウロはこの種を入れないパンに、もう一つの意味を加えました。それはキリストに従う群れ、新しいイスラエル=教会にとっては古い種、悪い種を取り除かれた純粋で真実なものであるべきだという願いです。6-8節を読んでみましょう。

あなたがたが誇っているのは、よくない。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。 いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。 だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。(6-8)

ガンは多くの人に恐れられていますが、ガンの多くは早期発見によって完全に治癒する場合が多いのです。ただかかった場合は、若い元気な体ほど進行が早く手遅れになりやすいという怖さがあります。教会を病にする邪悪なパン種も同じような性質を持っているので、早めに、きれいに取り除いてしまわなければならないのです。まだ小さな種だからといって放置しておくと、教会全体を悪くして手遅れの状態にしてしまう恐れがあるのです。

C. 私たちが注意しなければならない問題

1) 外にではなく中にある

このことを手遅れにしてしまう理由の一つは、私たちの内輪には甘く、外には厳しい態度です。クリスチャンは社会のここがいけない、堕落している、罪深いといって自分をいかにも聖い者たちとみなしがちです。社会を変えようとすることは全く正しいことです。しかし自分たちの問題を棚上げしながらそれを言うとしたら、順番が間違っているといわざるを得ません。9-10節です。

わたしは以前手紙で、みだらな者と交際してはいけないと書きましたが、その意味は、この世のみだらな者とか強欲な者、また、人の物を奪う者や偶像を礼拝する者たちと一切つきあってはならない、ということではありません。もし、そうだとしたら、あなたがたは世の中から出て行かねばならないでしょう。(9-10)

神様を見上げようとしない社会が問題だらけ、罪だらけなのは当然です。私たちも神様を知る前は皆そこにいたのです。この人達と付き合い、友達でいなければイエス様を紹介することはできません。教会は外への門を決して閉ざしてはいけないのです。むしろ私たちが問題にしなければならないのは、罪を赦されて神の子となったにもかかわらず。罪の状態から離れようとしないひとです。

2) 教会の中から取り除かれるべきこと

一体どのようなことを教会の交わりから取り除かなければならないのでしょうか?11-13節に紹介されています。

わたしが書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者がいれば、つきあうな、そのような人とは一緒に食事もするな、ということだったのです。 外部の人々を裁くことは、わたしの務めでしょうか。内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか。 外部の人々は神がお裁きになります。「あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい。」(11-13)

ユアチャーチは自由で楽しい教会だとほめてくれる人がいます。でもそれは神様の権威を放棄しているからではありません。厳しく権威を持って戒めなければならない時が絶対に来ないとは思ってはいません。私がパウロのように厳しい口調で訓戒しなければならない人が、幸いにもまだ現れていない、というだけの事です。私自身は、今のようなペースで人数が増えていけば、「あなたがそのままの態度を続けるなら、ここにいてもらうわけにはいきません。」といわなければならないようなことも起こることも覚悟しています。

その時にはどうかこの箇所を思い起こして、今まで全然怒ったりしなかったのに、変わっちゃったのかな、と思わないでください。そして、私の心中が怒りではなく、悲しみと憐れみに満たされていることに同情していただきたいと思います。

メッセージのポイント

教会が聖いものであることは、誰からも期待されていることです。しかし、キリストの身体であると同時に、赦された罪人の集まりである教会には常に堕落する危険があるのです。良いことを追い求めるだけでは十分ではありません。私たちは何がキリストの身体に相応しくないかを知り、それらをパン種のように小さなうちに取り除かなければなりません。問題は放置しておくならパン種のように教会全体を悪くしてしまうからです。

話し合いのために

1) コリントの教会のこの問題から私たちは何を学ぶことができますか?

2) 教会にとってどのようなものが悪いパン種なのでしょうか?