2006年6月25日 礼拝メッセージ イザヤ書7章より
風に揺り動かされる木の葉のような人生にしないために
皆さんは今何かとても心配な事がありますか?お金の事、仕事での事、人間関係、子供の教育、それとも教会のこと?そんなことには全く気を留めずに平然としているように見える人もいますが、一方では、いつも何かを恐れておびえているような人もいます。
あなたはいつも不安や怖れ心配事で心を満たしながら生きてゆきたいと思いますか?それとも安心、喜び、充実を感じながら生きてゆきたいと思いますか?そのためにあなたに必要なものは、どんな時でも信頼をおくことのできるものです。それはどこにあるのでしょうか?
A. 誰が、何が信頼できるのか?
1) 王でさえ恐れおののく
ユダの王ウジヤの孫であり、ヨタムの子であるアハズの治世のことである。アラムの王レツィンとレマルヤの子、イスラエルの王ペカが、エルサレムを攻めるため上って来たが、攻撃を仕掛けることはできなかった。 しかし、アラムがエフライムと同盟したという知らせは、ダビデの家に伝えられ、王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した。(1-2)
不安や怖れ心配を常に感じながら生きてゆきたいと思う人はいません。だから安心できる<何か>を手に入れたいと思うのです。それは大きな権力を手にした王のような人でも例外ではありません。他の人々よりはるかに多くの財産を持ち、多くのことが思い通りになる一国の王も、周りの国が自分の国より強力であれば、いつ攻められるか心配で平穏な心ではいられませんでした。
王の心が恐れおののいているなら、民もまた平安ではいられません。先生が恐れているなら生徒も恐れ、親がおびえているなら子供もおびえます。あなたに守るべき人がいるなら、その人々の信頼に応えるためには、まず、あなたが本当に信頼できるものを見つけなければなりません。
しかし、お金や権力、個人の能力などのように努力や才能、幸運などによって得ることのできるどんなものも、人を怖れから解放してはくれないということです。
またどんなに頼りになると思える人も決して完全ではありません。あなたが小さな子供の頃は、親が完全な存在に見えたときがあったかも知れません。成長してゆくにつれて自分と同じ不完全な存在だと知ることになってゆきます。あなたの最愛の妻も夫もやはり不完全な存在です。さあ、それでは世界には頼るものは一つもないのでしょうか?
2) 神様は本当に信頼できるか?
聖書は、すべての人にとって、たった1人だけ100%信頼のおける方を紹介する本です。それはもちろん「神様」のことです。日本では聖書が紹介されるまでは、全てをお造りになった、たったお一人の神様がおられる、という考えはありませんでした。だから、この国では試験にパスさせてくれる神様とか、自動車事故から守ってくれる神様、特定の病気を癒すことが得意な神様と分業になっていたのです。戦争に勝つために拝む神様もいました。聖書の神様はそのような存在とは全く異なります。全ての者を造られ、今も見守っておられる神様です。間違っているかもしれない人間のリクエストに答える神様ではなく、すべての人にその人に最も相応しい人生の計画を与えてくださる、たったお一人の神様なのです。どうしたらこの方を知り、信じることができるのでしょうか?ある人は、神様の存在を科学的に証明したら信じると言います。信じるということは神様であれ他の物事であれ証明できるということではありません。たとえばあなたは飛行機が空を飛ぶと信じていますか?それはなぜでしょうか?あなたは物理学的に飛行機が飛ぶことを証明したことはないはずです。乗って無事だったから信じているのでもありません。最初に乗った時の前に信じたから乗ったのです。ではどうして信じましたか?人々やメディアが、飛行機が飛ぶことを当然だと言っていて、それをあなたも受け入れ信じたのです。神様を信じることも同じです。証明する必要なんてないのです。神様は証明の代わりに、歴史に現され、聖書に記録された「しるし」と多くの証言を与えてくださっています。3-13節はイザヤが恐れおののいている王に、会いに行ったことが記されています。神様がイザヤに息子を連れて王に会いに行けといったことには意味があります。イザヤは子供の名前をシェアル・ヤシュブと名付けていましたが、それは「残りの者は返ってくる」という意味です。ただ敵を恐れているばかりで神様に信頼をおくことの出来ない王に、歴史を支配しているのは神様なのだということをはっきりと知らせるためでした。そして、私に信頼して心静かにしていなさい、とイザヤを通して語りかけられました。そしてさらに、神様を信頼することなしに、誰にも平安はないこと。不安であるなら、信じる根拠を真剣に神様に求めなさいと語りました。しかし王の答えは「私は求めません。主を試みることはしない」というものでした。一見当然の答えのように思われるかもしれませんが、それは主に従いたくはない、という心の現われを、「試みる」という言葉にすりかえることでしかありませんでした。主を試みるとは、いたずらに神様を試してみるということであって、神様の意思を真剣に聞こうとするために、しるしを求めるということとは違います。
主はイザヤに言われた。「あなたは息子のシェアル・ヤシュブと共に出て行って、布さらしの野に至る大通りに沿う、上貯水池からの水路の外れでアハズに会い、彼に言いなさい。落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。アラムを率いるレツィンとレマルヤの子が激しても、この二つの燃え残ってくすぶる切り株のゆえに心を弱くしてはならない。 アラムがエフライムとレマルヤの子を語らって、あなたに対して災いを謀り、『ユダに攻め上って脅かし、我々に従わせ、タベアルの子をそこに王として即位させよう』と言っているが、 主なる神はこう言われる。それは実現せず、成就しない。 アラムの頭はダマスコ、ダマスコの頭はレツィン。(六十五年たてばエフライムの民は消滅する) エフライムの頭はサマリア/サマリアの頭はレマルヤの子。信じなければ、あなたがたは確かにされない。」 主は更にアハズに向かって言われた。 「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」 しかし、アハズは言った。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」 イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間に/もどかしい思いをさせるだけでは足りず/わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。(3-13)
B. 神様のしるしを認めよう
1) インマヌエルというしるし
うちには猫が一匹いるのですが、私たちが帰って来るとドアの所で待っていて、「ずーとここで待っていたんだ」という顔をしています。でも私たちにはそうでないことがしるしでわかるのです。私たちのベッドの上に猫の形でくぼみがあってまだ暖かい、これが今の今まで寝こけていた「しるし」です。
神様は多くの預言者を通して、必要な時々に人々にご自身のしるしをお与えになりました。それは神様が確かにおられ、力を発揮してくださるということのしるしです。 14-17節を読んでみましょう。
それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。 災いを退け、幸いを選ぶことを知るようになるまで/彼は凝乳と蜂蜜を食べ物とする。 その子が災いを退け、幸いを選ぶことを知る前に、あなたの恐れる二人の王の領土は必ず捨てられる。 主は、あなたとあなたの民と父祖の家の上に、エフライムがユダから分かれて以来、臨んだことのないような日々を臨ませる。アッシリアの王がそれだ。」(14-17)
ここの記されている<しるし>は聖書の中で最も重要で特別なものです。それはこの預言から約700年後、今から約2000年前にイエスキリストの誕生によって実際に現されました。目に見ることの出来ない神様が、私達にイエスキリストという方として共にいてくださるということ「イマニュエル」を実感させてくださったのです。
そしてこの神様ご自身による証言は世の終わりまで有効です。私たちはイエス様の時代のイスラエル人ではなくても、 2000年間多くの人によってされてきた証言によって信じているのです。
2) 人を恐れず頼らず、神様を畏れ、信頼する
イザヤはイマニュエルの預言と同時に、イマニュエルのしるしが与えられる前に、イスラエルがアッシリアに攻められ滅びてしまうことを預言しています。つまりイザヤの時代から、イエス様のお生まれになる前までの人々にとっては、そむいたことの結果とはいえ、厳しい裁きの預言でしかなかったわけです。けれども18節以下に描かれているような困難な時代にあっても、神様の言葉を取り次ぎ後世に残そうとした人々がいたからこそ、700年後イエス様の誕生こそ待ちわびていたメシア(救い主)だと知ることが出来ました。
今の時代の私たちはイマニュエルの事実を知っています。それは、時代がどのような状態であれ信頼できる同伴者、神様が共にいてくださるのです。他の何者をも恐れることなく、ただ主を畏れ信頼して歩むなら、あなたは落ち着いて、静かなこころで歩み続けることが出来ます。
その日が来れば/主は口笛を吹いて/エジプトの川の果てから蠅を/アッシリアの地から蜂を呼ばれる。 彼らは一斉に飛んで来て/深い谷間や岩の裂け目に宿り/どの茨にも、どの牧場にも宿る。 その日には、わたしの主は/大河のかなたでかみそりを雇われる。アッシリアの王がそれだ。頭髪も足の毛もひげもそり落とされる。 その日が来れば/人は子牛一頭、羊二匹の命を救いうるのみ。 しかし、それらは乳を豊かに出すようになり/人は凝乳を食べることができる/この地に残った者は皆、凝乳と蜂蜜を食べる。 その日が来れば/ぶどうの木を千株も育てうるところ/銀一千シェケルに値するところもすべて/茨とおどろに覆われる。 茨とおどろがこの地を覆うので/人は弓矢を持ってそこへ行かねばならない。 鍬で耕されていた山々にも/人は茨とおどろを恐れて足を踏み入れず/ただ牛を放ち、羊が踏み歩くにまかせる。(18-25)
メッセージのポイント
人生の歩みにおいて、もっとも大切なのは信頼できる同行者、導き手を得ることです。それは配偶者や親友という意味ではありません。もちろん、妻や夫、家族や友人は地上のすべてのものに優って大切な存在です。けれども彼らはあなたにとって全能の神様ではありません。あなたと同じように限界のある人間なのです。また、そのような人々なしにたった一人で歩いていかなければならないときもあるのです。一国の権力を握った王でさえ、孤独で他国や反乱を恐れて心穏やかではいられません。けれども聖書は一貫して、すべてをお造りになった神様があなたの同伴者として共にいてくださる(インマヌエル)方であることを教えています。イエス・キリストにおいてインマヌエルは現実になりました。あなたもイエス様を信頼して、揺らぐことのない人生を送ってください。
話し合いのヒント
1) あなたが恐れるのは何(誰)ですか?
2) インマヌエルを実感できるのはどんなとき?