2006/7/2メッセージ
弟子から使徒へ マルコ 3:7-19(シリーズH)
まず今日のテキストの前半7-12節を読みましょう
イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。(7-8)
そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。 イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。(9-10)
汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。 イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。(11-12)
A. イエス様の弟子になろう
1) 出会いから弟子になるまで
イエス様を信じるといってもいろいろな段階があることが今日のテキストから分かります。ここにはイエス様を二重に囲む二種類の人々が記されています。イエス様を中心に、内側に少数の弟子たち、そしてさらにその周りにいる大勢の群集です。群集はなぜイエス様のところへ押し寄せたのでしょうか?ある人は癒しなどの切実な願い、またある人は興味本位でやってきました。親に連れられてわけも分からずについて来た子供たちもいたでしょう。また、そこには少数の懐疑的な人や、当時の宗教指導者のスパイも紛れ込んでいました。
私たちもまた、そのような一人としてイエス様のところにやってきたのです。しかしここにいたのはイエス様と群集だけではありませんでした。イエス様のすぐそばにいた、弟子と呼ばれている人々です。弟子たちはイエス様と行動をともにし、イエス様の働きを手伝っていました。群衆と弟子の違いはどこにあるのでしょうか?群集は、病の癒しとか好奇心を満たすといったような自分の利益のためにイエス様の行くところ行くところについて行ったのです。それに対して弟子たちは、イエス様から「私に従ってきなさい」と呼びかけられ、従った者です。弟子たちは群集よりも、もっとイエス様の近くにいます。そして、イエス様を自分の主と信じた者です。人生の目的が、自分の欲望を満たすことではなく、神様の意志に従って歩むことだと知った人です。
マタイによる福音書(28:18-20)に復活されたイエス様の言葉が記されています。
イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
ここを読むとイエス様はすべての人が弟子となることを願っておられることが分かります。そして弟子となった人に対してはバプテスマを授けなさい、と命じられました。つまりクリスチャンになるということは、イエス様の弟子になることなのです。
イエス様はあなたが、いつまでも群衆の中の一人でいて欲しくはないのです。多くの人が当然のように自分の目的のために生きています。それを神様の、イエス様の目的のためにと変えることは大きな決断です。ある人はこの決断をするときに、何か不自由な生き方になるのではないか、と感じたそうです。けれども聖書は、自分自身を神様に委ねた者にしか真の自由がないことを証ししています。
イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。 あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ8:31-32)
イエス様の弟子になることによって、私たちは担う必要のない重荷を下ろし、本当に必要な荷物を持ち直し歩き出すことができるのです。
2) 学ぶ者としてのクリスチャン
ここにいるのはクリスチャンと自認している方がほとんどですが、皆さんは本当に主の前に重荷を下ろし、主から相応しい荷を頂いて歩んでいるでしょうか?自分を捨て自分の十字架を負って主とともに歩んでいるでしょうか?弟子となったにもかかわらず、群集の気安さで自分のための恵みだけを追い求めてはいないでしょうか?群衆の一人一人は、イエス様が自分の目先の利益に応えてくれないと思えば、簡単に去ってゆくものたちです。しかし弟子はそうではありません。どんな状況に置かれても主を信頼してついて行く者なのです。神様はあなたが名実ともに弟子になることを願っておられます。弟子とは、師匠から学ぶものです。イエス様は愛に生きる道の達人ですから、私たちは愛を学ぶ弟子なのです。私たちはどうしたら師匠のように愛に生きることの達人になれるのでしょうか?愛することは、教室では学べません。愛が何かを読んでも、いろいろな愛のあり方を知っていても、愛に生きていることにはならないのです。たとえ聖書の愛について書いてある部分をすべて暗記していても、愛に生きているとはいえません。
ですから学ぶ者としてのクリスチャンといっても、メッセージやバイブルスタディーやセミナーで何時間愛について知識として学んだとしてもそれだけでは残念ながらイエス様の弟子としては失格です。イエス様の弟子は、実際に愛してみることによって学びます。そうしてもっと大胆に愛することができるようになります。自分の時間、労力、プライドを犠牲にして、神様の働きに仕えることを小さなことから始めたらよいのです。そのために教会があり、ミニチャーチがあります。何年も前にゲストスピーカーとしてきてくれた牧師が「教会とはダンス教室のようなものです」と教えてくれました。教会は愛し合うことを知らなかった人々が愛し合うことを練習するところだという意味です。ダンスと同じように、ステップを間違えて相手の足を踏んづけてしまうようなことがあっても、赦し合い、練習を続けて上手にステップを踏むように愛することをおぼえるところなのです。
B. 弟子から使徒へ
それでは後半の13-19節を読んでみましょう
イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。 そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。(13-15)
こうして十二人を任命された。シモンにはペトロという名を付けられた。 ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。 アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。(16-19)
さてここにもう一つの人々のカテゴリーが出てきます。「使徒」です。イエス様はもともと弟子としてイエス様と行動を共にしていた人々を使徒としました。私たちは12弟子とか12使徒とか、あまり区別せずに使っていますが、二つの言葉には意味の違いがあります。
1) 学ぶことが目的なのではない
使徒とはどのような人々を指すのでしょうか?それは学ぶものという意味の「弟子」に対して、派遣される者という意味の言葉です。ただイエス様の癒し、慰めを求めてついてゆく群集の一人から、イエス様に学ぶ弟子となってもそこが私たちの終点ではありません。聖書からどんなによいことを学んだとしても、それを人々に伝えなければ真の愛という神の国の恵みは教会というコミュニティーの外には拡がらないからです。私たちは、教会の中でだけ生きているのではありません。イエス様の愛と恵みを、家庭に、職場に、学校に、あらゆる人間関係の中に拡げてゆくために、ここにおかれているのです。このような意味で、私たちは使徒として派遣され出てゆくことを期待されているのです。
2) 使徒:イエス様に派遣された者
イエス様は12人の弟子を選び使徒と名付け、イエス様ご自身の権威を与えられました。弟子というのは一般的な言葉でしたが、イエス様はキリスト教会のなかの大きな権威をともなった特別な職名としてこの言葉を使われました。彼らが(イエス様を裏切ってしまったユダを除いて)使徒言行録の時代にキリスト教会の基礎を作ったのです。使徒言行録の1章を見ると、使徒はイスラエルの12の部族にちなんで12人でなければならないと考えられていたようで、ユダの代わりにマティアという人を選出されています。しかしその数はそれ以降、厳格に守られた形跡はありません。後に出てくる使徒パウロはイエス様から直接選ばれたと教会全体に認められましたが、反対する人もいたのです。聖書が使徒と呼んでいるのはもう一人は、やはり使徒言行録の時代のバルナバという人です。ですから、使徒を今も教会の特別な職として特定の人に特別な権威が与えられていると考えるのは間違いです。
あるアメリカの宣教団体は「日本の使徒」としてある宣教師を派遣して、日本のクリスチャンは皆彼の権威に服さなければならないと主張しました。それは聖書が保証する権威ではありません。
わたしたちは、むしろ信じる者一人一人、みなさん一人一人が賜物に応じて世に派遣されていると考えるべきです。誰もがダンス教室でうまく踊れるようになったら、そこにい続けたいとは思わないと思います。ダンスを練習するのは、ダンスパーティーで優雅に踊ってパートナーの心をつかむためです。私たちが愛し合う頃を学んでいるのは、皆さんの周りにある、愛のないところに行って、神様の愛を満たすためなのです。
メッセージのポイント
イエス様を信じ神の子とされた人はどのように成長してゆくことを、神様に期待されているのでしょうか?神様はあなたを、ただ愛と保護されることを必要とする子供の状態から、学ぶ者とさせ、さらには学んで得たものを用いて神様の働きを行う者として、送り出したいと願っていらっしゃいます。これは長いプロセスですが、全く働くことの出来ない時間はごくわずかです。小さな子供が、簡単なお手伝いが出来ることを喜ぶように、クリスチャンになったばかりの人でも神様の仕事をお手伝いできるのです。神様の仕事は実習(OJT)で覚えます。聖書の知識、信仰の知識はもちろん大切ですが、頭の知識はそれだけでは役に立ちません。仕える姿勢は、仕え始めなければ身につかないのです。あなたが神様の働きをもっと担いたいと思うなら、今出来る小さなことに忠実に仕えることが大切です。
話し合いのヒント
1) 弟子と使徒との違いはどこにありますか?
2) イエス様に派遣されるとはどういうことでしょうか?