2006/7/16 メッセージ 1コリント6章1-11節(シリーズH)
ここに生きつつ、神の国を受け継ぐ
常識といわれるものであっても、それがどこでも通用するとは限りません。外国から来て日本の大学で教える先生にとって不思議なのは、学生がなかなか自分の意見を言おうとせず、講義の終わりに質問はと聞いても反応がない。それなのに指名してみると、自信なさそうに答えるけれどちゃんと理解していて、意見も持っていれば質問もできることだと聞いたことがあります。ある国の大学に行って教えている日本人の先生にとって不思議なのは、学生が間違っていることでも、それほどユニークではないことでも意見や質問をしたがり、自信に満ちた態度で堂々と顔を上げ、こちらの目を見据えて話すので、何か本当らしく聞こえてきてしまうことだそうです。先生でも親でもしっかり眼を見て話しなさいといわれて育ってきた人もいれば、年長の人、地位の高い人の目を見つめることは、失礼なことだといわれて育ってきた人もいるのです。クリスチャンに求められている常識と社会の常識にはどのような違いがあるのでしょうか?この社会に生きているクリスチャンとしては、この二重の常識に対してどう考えたらよいのでしょうか?
A. クリスチャン同士は法廷で争うべきではない?
1) 世に対する教会の権威
パウロはここでコリントの人々に、あなた方はクリスチャンとしての常識がなっていないと非難しています。どのようなことがあったのか、6節までを読んでみましょう。
あなたがたの間で、一人が仲間の者と争いを起こしたとき、聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴え出るようなことを、なぜするのです。 あなたがたは知らないのですか。聖なる者たちが世を裁くのです。世があなたがたによって裁かれるはずなのに、あなたがたにはささいな事件すら裁く力がないのですか。 わたしたちが天使たちさえ裁く者だということを、知らないのですか。まして、日常の生活にかかわる事は言うまでもありません。 それなのに、あなたがたは、日常の生活にかかわる争いが起きると、教会では疎んじられている人たちを裁判官の席に着かせるのですか。 あなたがたを恥じ入らせるために、わたしは言っています。あなたがたの中には、兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか。 兄弟が兄弟を訴えるのですか。しかも信仰のない人々の前で。(1-6)
ユダヤの社会はローマ帝国に占領されている時代でもユダヤ人同士の争いを裁くことのできる仕組みを持っていました。初代キリスト教会もそれに倣って、裁判の仕組みがあったのです。ところがある人々は、それを信頼せずに、ローマの制度に訴えたわけです。クリスチャン同士の争いが教会の中で裁けないのは情けないというわけです。
ここでパウロが言っていることは、クリスチャンは社会のルールに従う必要はなく、それとは異なる教会のルールで裁かれるべきだ、ということではありません。正しく世を裁くことのできる方は神様おひとりです。その権威は原則的には諸政府ではなく教会に委ねられているのです。しかしまだ多くの人が神様に背を向けている社会の中では、神様は裁く権威を諸政府にも委託されています。弱い者、小さい者を守るためです。私たちは、この社会で生活している限り、そこでなされる裁きに服すべきです。しかし、究極の権威が人の手の内にあるのではありません。人は誤った判断をすることがあります。多くの国で保護されるべき者たちが苦しみの中にとりのこされています。ここに人による裁きの限界を見ることが出来ます。パウロは教会が神様の恵みに生かされているという特権だけでなく世を正しく裁き、導く権威と責任を負っていることをコリントの人々に自覚してほしかったのです。それなのに、人々は神様の愛に生きているとしたら、あまりにもつまらないようなことを人間の法廷に持ち出していたのです。
2)イエス様の願いにどう応えるべきか?
しかしパウロはコリントのクリスチャンにユダヤ人の常識以上に厳しい考え方を伝えています。8-7節です
そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。 それどころか、あなたがたは不義を行い、奪い取っています。しかも、兄弟たちに対してそういうことをしている。(7-8)
これは、パウロの思い付きではなくイエス様の考えを伝えたものです。イエス様ご自身はルカによる福音書6章でこうおっしゃっています。
「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。 悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。 あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。 求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。 人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。 また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。 返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。 しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。 あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」(ルカ6:27-35)
とても有名なイエス様の言葉ですが、イエス様の言葉としては一番人気のないでものではないでしょうか?
同じ信仰、同じ愛に生きているクリスチャン同士が裁判で対決しなければならないことがあるというのは残念なことです。誰もが神様の意思に100%従って生きているならそのような争いは起らないはずです。けれども私たちは皆自分が完全ではないことを知っています。そして残念ながら争いは起るのです。
イエス様は、相手がクリスチャンであってもなくても、赦しなさい、与えなさいといわれます。そして、私たちはそれがなかなかできない自分を知っています。誰でも正直に自分の内面を見つめるなら、それでも私には自分はクリスチヤンと言える権利があるのだろうか?という気持ちになるのではないでしょうか?
この手紙でコリントの人々にこう伝えているパウロでさえ、ローマの信徒への手紙の中で自身の心について正直にこう述べています。
わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。 もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。 それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。 「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。 わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。 キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。(ローマの信徒への手紙 7:19-8:2)
B. 神の国を受け継ぐ者
1) 何のために正しく生きるのか?
このテキストは、私たちに自分のいたらなさを徹底的に自覚させますが、それでも私たちは希望を持ち続けられるのだということを残りの部分から読みとることができます。
正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。(9-10)
ここに「神の国を受け継ぐ」とありますが、それは単に神の国の民となる、天国へ行ける、ということ以上の意味があります。王であるイエス様の兄弟姉妹として、神の国の責任と権威を担っている者として今ここに立たされているということも意味しています。
ここに具体的に書かれている一つ一つの事は神様の助けがあれば離れていられる事です。神様は私たちがイエス様のように完全ではないことをよくご存じです。100%イエス様のようでなければ神の国を受け継ぐ者にはなれないとは言われていません。
2) あなたも神の国を受け継ぐ者
あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。(11)
この「神の国を受け継ぐ者」の条件は、あなたのこれからを問うものであって、過去一度でもそのようなことをした者には資格がありませんと言われているわけではありません。また今、そのような者であってもそこから抜け出したいと願っているなら、神様はあなたを助け出して下さいます。日本語には「足を洗う」という表現があります。「悪い世界から抜け出して正しい人生を歩みはじめる」という意味です。
明日は洗礼式があります。洗礼は、父と子と聖霊の名によって授けられます。足だけではなく全身が水の中に浸されます。それは、あなたの全身全霊が清く新しいものにされることを意味しています。古い罪の人は死に、新しく神様の家族の子供として迎え入れられたことを意味しているのです。自分が罪人であることを認め、イエス様の十字架を自分の罪の赦しのためになされたことを信じ、これからはイエス様に従って歩んでゆこうと決心することが、クリスチャンになるということです。あなたの心がこのように定まっているならあなたにはバプテスマを受ける準備ができているということです。今からでも間に合いますから私に知らせて下さい。
メッセージのポイント
神様は、私たちがこの世界で、すべての人との間で平和に暮らせることを願っておられます(ローマ12:18)。そのためには、自分で復讐せず神の怒りに任せればよいのです(同19)。とても単純な事です。しかし非常に難しい。クリスチャンでさえ、イエス様の考えは理想的ではあっても現実的ではないと思いがちです。確かに私たちは地上の現実の中に生きています。しかし、目には見えない神の国の現実があることを忘れてはなりません。自分があまりにも神の国の基準に遠いといって絶望してはいけません。神様はあなたを、神の国を継ぐ者として選ばれたのです。日常生活の一つ一つの局面で、聖なる者、義なる者として歩めるよう、日々神様の助けを祈り求めつつ、互いに励ましあってゆきましょう
話し合いのために
1) コリントの人々はなぜパウロの非難されたのですが?
2) 神の国を受け継ぐとはどういう事ですか?